ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の危険思想

 
  楽山の危険思想
 
 『安楽の門』大川周明
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25578706.html
 
 
大川周明は、A級戦犯で、梅毒による精神障害のために、死刑を免れた人です。またしても、戦前戦中の過激な右翼思想の人物を讃えています。
私の記事「楽山の右翼思想」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12608244357.html
 
他者に何を言われても無視すれば、一時的には安楽に過ごせるでしょう。しかし、無視は、重ねられることにより、鈍感を増幅させます。無視による安楽は、他者との交流を無意味にし、学習と成長を不可能にして、楽山のような、感じることも考えることも出来ない化け物を作るのです。
 

*概要
著者は本書の中で、獄中でも、精神病院でも、どのような環境においても安楽に過ごしてきたとし、なぜそれができたかといえば元々楽天的な性格であることはもちろん、恩師、友人知人のおかげとともに、安楽の門(宗教)によるとして、自らの宗教について語っている。

 
楽山は、またしても、自分に都合の良い文言を漁ってきたようです。
 

以下に、その要点と思われる箇所を引用し、自分なりの感想を書いてみたい。

*宗教の目的
 まず著者は宗教の目的について、こう書いている。
宗教とは無限の生命に連なることである。
(『安楽の門』大川周明著、出雲書房、昭和26年、p.237)
*註 旧字は新字にした
 」
これは梵我一如だとか、神人合一ということであろうか。無限の生命と人とは、別個の存在だというのではなく、連続しているという考え方をしているようだ。

 
無限の命につながる、ということは、解釈が幅広いので、カルトに利用されやすいと思います。どうやって、無限の命とつながったと分かるのでしょう。
 
理解可能なのは、瞑想などによって、心身の安定を得ることがある、ということでしょうが、それ以上に、楽山は、この曖昧な引用をもって何が言いたいのでしょう。怪しさ満点の楽山です。
 
(ネットより)
梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82
 
そのような同一は地上にはないと思います。一部の人がそのようだったとして、その人は、人間世界において、乖離した者でしかないでしょう。ゆえに、そういう人になることを教えることは、カルトでしかないと思います。
 
キリスト教周辺では、神が人を自らに似せて造った、という聖句を悪用するような者が、そういうことを言うことがあります。
 

*既成宗教
著者は既成宗教については次のような感想をもらしている。

併し八代大将と同じく私にも仏教や基督教には何分『馬鹿らしき事』が多く思はれた。そして其の『馬鹿らしき事』が信仰の礎だと教へられては尚更納得出来なかった。
(同上、pp.204-205)
 」
これについては、某有名作家が仏陀を信じないかのような発言をしていたのを思い出す、人が解脱して仏陀になるなどということが実際にありえようかと。
確かにそう言われてみれば、人が修養して人格を磨くことは可能としても、煩悩から離れ、仏陀になるというのは若干真実味に欠ける。さらには仏陀になれば、千里眼やら何やらの神通力を発揮するとか、過去現在未来の三世を見通せるとか、眉間から光を出して遠い世界を照らし出せるというなら、それはもうファンタジーの世界だろう。仏典にしろ、聖書にしろ、その記述をそのまま事実として信じなければならぬとしたら、大方の現代人にとっては到底無理な話だ。

 
こうやって、楽山は、宗教を引用しながら、宗教と信仰をけがしてきました。持ち上げて落とす、その先には何が待っているのでしょう。アドラー教かもしれません。楽山教かもしれません。いずれにせよ、恐ろしい自己中の妄想カルトの世界です。
 


私には八代大将に対する小笠原中将のやうな導師はなかつたが、書物を読んで勉強し、心から尊敬する先輩に親炙して直接その宗教的一面に触れ、且つ自分自身の経験を深く反省して行くうちに、いつとはなく既成宗教の信者になりたいといふ意図がなくなつた。
(同上、p.205)
 」
 これは自分にも分かる。ただ自分の場合、「既成宗教の信者になりたいといふ意図がなくなつた」というより、既成宗教の信者になることができないことがわかったといった方がよさそうだ。既成宗教の教えはどんなに立派でも、どんなに体系化されていても、一定の枠があるし、自分にはどうもその枠内に留まり続けることはできないのだ。

 
楽山は、キリスト教について言えば、その枠も、皮も、肉も、骨も、髄も、知ってなどいません。分からないのに、おのれの自己中に都合の良いところを取って来ては、悪用し、おとしめ、さらに、自分教が一番中立だという主張に持っていこうとしてきた盗人に過ぎません。
 
そういう態度は、他の書籍の引用においても、同様であろうと思われます。つまり信頼度ゼロであり、書物を読んでも、理解が偏って自分寄りの偏向となり、つまり、楽山は、理解できておらず、感じ取ることもないために、自分で軽薄な理屈遊びをしているだけなのです。
 

先日、内村鑑三の『宗教座談』を読んでいたら、神は聖書より大きいということが書いてあったが、おそらくこれは他の宗教についても言えることだ。神はどの宗教よりも大きく、その宗教の枠を超えている。だから特定の宗教の枠からはみ出したからといって、必ずしも神の御心に反するとは限らない。神はすべてを超越しているとすればそうなる。

 
つまり、こういうことなのです。神を讃えているような文言で、結局、宗教は何でもいい、いい加減でいい、何を言っても自分は正しい、という方向に持ってゆく詭弁です。とても悪質です。
 

でも宗教ではこういう考え方はあまり歓迎されないし、その宗教の枠から出たら、神の御心に反する異端とみなされてしまう。これでは枠をあまり気にしない自分のような者は、どこの宗教にも入れてもらえるわけもない。

 
楽山は、宗教の枠を決めつけ、枠を気にしない自分を、超越しているからこそ、異端と見なされ、入れてもらえない、悲劇のヒーローみたいに言っています。
 
楽山は、自尊過大の自己愛のために、考えること、感じることが、どちらも、できないだけです。その証拠は、楽山の書く文章の、どこにも説得力の欠片もないことであります。ゆえに、好きなように書物をもてあそび、徒に、悪用するだけになります。
 


虚心に考へて見れば、人は基督教徒や仏教徒にならずとも、能く人性の宗教的一面を長養することが出来る。その実例を私は八代大将、頭山翁に於て見たのであるが、同様の例は日本及び中国の偉人に於て枚挙に遑ない。
(同上、p.151)
 」
ここは山本七平の語る日本教的な雰囲気が濃厚だ。自身の心を磨く修養が第一であって、そのために役立つなら仏教でも、基督教でも、儒教でも何でも用いるのであって、「絶対に〇〇教でなければならない」と固執するようなことはしないという行き方だ。だから仮に仏教→基督教→儒教と宗旨が変わっても、自己研鑽が第一という根本は変わっていないので本人的には自分の行動に矛盾はなく、平気だということになる。

 
楽山は、キリスト教を、自身の心を磨く修養、自己研磨、と言っています。では、自分を磨けない人は救われないのでしょうか。楽山が何も分かっていない証拠です。共感という要素を、楽山自身が持っていないために、こういうことを平気で言うようになります。
 
それに、楽山こそは、自分を磨いたことが、一度もない人だと思います。楽山の文章に、磨いた跡が、何も見られないからです。楽山は、いつも、安易に、学者気取りで、評論家気取りで、上から見下ろす視線しか持っていないことが表れてきました。
 
このような楽山の、平板で、浅い、固定概念的で、通念的な決めつけが、楽山の文章全体に行き渡っているのです。ここからは、個別の独創性など、生まれようがないのです。
 

実を言えば、自分もこういうタイプだ。だからいろいろな宗教、思想を学ぶことにさして矛盾は感じない。こういう行き方は、特定の宗教や思想を信じ、その枠内に留まることにこだわり、そのために命を懸け、殉教も厭わないタイプからは嫌われるだろうが、自分は宗教や思想の奴隷になるつもりはないのだからこういう立ち位置になるしかない。

 
楽山は、ただ、いい加減で、自己中で、怠慢で、無反省で、非を認めない人で、にもかかわらず、何でも理解できるつもりで、我こそは客観的とばかり、無理解を自己正当化して、偏見を当てはめ、宗教と信仰一般を、おとしめ、けがす者であります。
 

*奴隷
著者はここにおいて、宗教に対しても自由を放棄しないとしている。

私は書物に対する過度の尊敬から解放された。書物は心の案内者たるべきもので、決して私の心の専制者であつてはならない。私はいかなる学者の奴隷にもならず、自分の自由なる心で宗教を学び且求めねばならぬと思ひ定めた。この道理だけは早くから知つているつもりで居たが、身に沁みて左様でなければならぬと感じたのは遥かに後年のことである。
(同上、p.143)
 」
著者によると、横井小楠朱子を学ぶといっても朱子の奴隷になってはならぬとしていたらしい。でも著者はこれを知りつつも、カントやヘーゲルの書を読むうちに自らの思考の自由を失いつつあることに気づき、上のように考え直したのだそうだ。

 
楽山は、自分も、この有名人たちと同じだ、という、楽山の、自己愛による、自己の高め方が表れています。そのようなことのために、楽山は、本や名前を利用するのです。楽山の読書は、楽山の高慢に利用されるだけであって、よこしまな動機によって進められてきたのでしょう。だから、楽山の恣意的引用は、全く信用できないのです。
 

この話は、江戸時代の儒者が、孔子孟子が総大将になってシナの軍隊が日本を攻めてきたらどうするかと問われて、日本防衛のために武器をとって戦うと答えたというエピソードを思い出させるものがある。
恥ずかしながら、自分はとある新興宗教の教祖の奴隷になってしまっていたことがあるので、この言葉は身に沁みる。

 
楽山は、自己中、自分信仰の奴隷です。他者のせいにするのが、その証拠となっている有り様です。
 

*信仰
信仰については、何を信じるかではなく、どのように信じるかが大切であり、赤子のごとくあるのが理想であるという。

宗教の主眼は何を信心するかではなく、如何に信心するかである。宗教の価値を定めるのは信心の純不純でつり、信心の対象が宗教の高下を測る物尺とはならない。
(同上、p.231)
 」

総ての流れが、末は遂に大海に注ぐやうに、何を信心の対象とするにせよ、若し其の信心が無垢純一でありさへすれば、人は之によつて無限の生命に連なることが出来る。
(同上、p.232)
 」
これは「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」という道歌に通じるものがある。
どんな宗教であれ、まともな人もいれば、おかしな人もいるものだ。

 
おかしな人の代表が、楽山その人であります。自己中に信仰は語れません。
 

カルト信者だからといって必ずしも皆がおかしいとは限らない。同様に社会的に認められている伝統宗教の信者だからといって必ずしも皆がまともとも限らない。思想でも同じようなものであって、右でも左でも、まともな人もいれば、そうでない人もいる。結局のところ、何を信じるかではなく、各人の心の状態こそが大切だということなのだろう。

 
つまり、楽山は、信じるかではなく、何でもいい、いい加減でいい、それが正しい、自分は正しい、と言っているのですが、本人だけは気づかないのです。おかしいかどうか、許容可能かどうか、信じるに足るか、これは、心に受けたことから、個人が判断することです。"心の状態が大切" というだけでは語れるものではない、ということさえ、何も受けていない楽山には、分からないのです。
 

何を信じるかにこだわる人は、ようするに自分の宗教を宣伝したい、押し付けたいからなのだろうと思う。

 
何でもいい、という、いい加減さに、こだわる楽山は、要するに自分が一番!バランスが取れているから!正しいんだ!と、宣伝したいだけなのだろうと思います。
 

*母
著者自身はどのような宗教を信じているのかといえば、母が本尊であるという。

私は、吾母を念ずることによつて一生を安楽に暮らして来たのである。それ故に『汝は何うして安楽に暮らして来たか。』と問はれるなら、私は即座に『母を念じて暮らしたからだ。』と答える。
(同上、p.62)
数年以前に天満天神・阿弥陀如来八幡大菩薩を本尊とする母の信仰を簡単平明なものと考へた私が、一層単刀直入に母を本尊とすることによつて安心を与えられることになつたのである。
(同上、p.210)
 」
母が本尊だと言われると、正直「なんじゃそりゃ?」と思わないではいられないが、どうやらこの話にはもっと奥行きがあるらしい。少し長いが、話の筋道が分かるように引用することにする。

さて一家の先祖が其家の神として崇められるやうに、多くの家族が相結んで部族を形成するやうになれば、諸家族の共同の先祖として信仰される部族神が、各家族の先祖よりも一層高位の神として崇拝される。そして其頃には先祖以外にも色々崇拝の対象が現れ、人間生活の宗教的一面が次第に複雑になつて来たので、茲に専ら祭祀を事とする一個の階級がうまれるやうになつた。次で多くの部族が一つの国家に統一されるやうになれば、部族全体の祖先が国祖として国民崇拝の対象となる。多くの国家では、内外幾多の原因から、建国当初の精神が中断又は断絶したために、国民の国祖に対する宗教的関係も自ら消滅せざるを得なかつた。其等の国々では、国民の生命の本源たる国祖を認めず、直ちに宇宙全体の本原たる神を父と仰いで居る。唯だ日本の場合は、建国当初より今日に至るまで、国祖の直系連綿として国民に君臨し、民族の歴史的進化が一貫相続して中絶しなかつたので、国祖の精神を永遠に護持する天皇に対する国民の関係は、今日尚ほ鮮明に宗教的である。それ故に天皇に対する『忠』は、その本質に於いて父母に対する考と同一である。忠孝一本と言はれるのは其のためである。それ故に日本人の場合は、子女としては親に考なること、国民として天皇に忠なること、そして一個の人間としては天を敬することが、三者一貫せる『敬』の具体的発言であり、従つて日本人の宗教である。
(同上、pp.200-201)
 」

 
以前、シャローム shalom が、似たようなことを、引用だったか、言っていました。"日本教" の話です。こういうところを見ると、やはり、楽山とシャロームは、つながっていると感じます。尊敬と信仰は、同じでしょうか、否です。
 

日本では忠孝一致になるという話は聞いたことはあるが、敬天も一致するとはおもしろい。今風にいえば、忠孝信が一致するということだろうか。母を敬し、信じることから、先祖崇拝に発展することは分かるが、それが忠孝信の一致にまで行くとは驚かされる。こういう理屈は愉快な心持ちがする。

 
楽山は、愉快な心持ちだそうです。楽山は、右翼の宣伝マンなのでしょうか。国家や慣習で、宗教や信仰を決める傾向は、大いに悪用されてきた歴史があります。
 
信仰は、個人と神の関係であり、何でもいいのではなく、聖書によって、示されています。その、愛と共感が、楽山には皆無なのです。だから、宗教と信仰について、楽山には、黙っていろと言いたいわけです。
 

*神のイメージ
著者による神としての母は、次のようなイメージであるらしい。

私は『下獄の際には仕方がないと諦めた。』と言つたが、その諦めは、私が心の中で『母上、私は監獄に往つて参ります。』と挨拶しただけで、いとたやすくついた。それは三度とも其通りである。わたしのこの挨拶と共に、慈母の悲心、一瞬に山川百里を越えて、まつしぐらに私の身辺に飛到する。わたしが何事をも頼まないのは、母は私の求める一切を知り尽くして居るからである。赦せと願はぬ前に、母は私を赦して居る。暗いと嘆く前に、すでに燈明を用意して居る。淋しいと訴へぬ前に、すでに私を慰める。いや、吾母は私が求めようともせぬものまで与へてくれる。その証拠には、慈母の悲心を吾身に感ずるその瞬間に、私はもはや何ものをも求めなくなる。何ものをも求めなくなるのは、その場合の私に最も必要なものが与えられるからである。そして此の求むるところなき心こそ、もっとも安楽な心である。
(同上、p.46)
 」
意外なことに、これは自分の神のイメージと似てる。というより同じだといってもいいくらいだ。

 
楽山は、何でも赦して、何でも与えて、受け入れる母性に、神のイメージをいだいているようです。是非、楽山の母上に、書くのをやめるように言っていただきたいものです。
 
引用の中の注目点を挙げておきます。
「慈母の悲心を吾身に感ずるその瞬間に、私はもはや何ものをも求めなくなる。何ものをも求めなくなるのは、その場合の私に最も必要なものが与えられるからである。そして此の求むるところなき心こそ、もっとも安楽な心である。」
 
この部分は、言葉上、キリスト教の、神信仰と似ています。しかし、人間の母は、神とは違います。したがって、過ちを犯すことがあります。愛する息子が、自分カルトとなって、理路もなく、情緒もなく、名のある人の言葉を恣意的に悪用して、他者の意見を無視して、それを、神?になぞらえるとき、息子に対して、何でも正しいと支えてくれる母の愛は、依怙贔屓の偏愛の域を出ないのです。
 

自分と神のイメージを共有する人はどこにもいなそうだと思っていたが、先行者がいたというのは嬉しい。やはり自分が思いつくようなことは、とっくに誰かが考えているということなのだろう。いつも思うことではあるが、この世に新しいものはないというのは本当のことなのだろう。

 
楽山が、"この世に新しいものはないというのは本当" だと思うなら、どこにも響かない自説を振り回すことはしないでほしいものです。
 
恐らく、楽山は、上のほうの引用のような母の愛には、恵まれていないのかもしれません。ゆえに、楽山は、引用したイメージだけを讃え、自分が母に、どういう愛を向けたかを語っていません。それに、神のように絶対に正しい愛の母、というのはいないと思います。
 

自分が抱いている神のイメージは、母性的な存在だという自覚はあったが、本書を読んでさらにその自覚は強まった。「赦せと願はぬ前に、母は私を赦して居る。暗いと嘆く前に、すでに燈明を用意して居る。淋しいと訴へぬ前に、すでに私を慰める」という部分は、まさに「祈らずとても神や守らん」ということでもあろうし、かたじけなさに涙こぼれる心持ちがする。

 
軽々しく神に母性を当てはめる楽山です。祈らなくても守ってくれる神?を欲しているようです。神を恐れない身勝手な者は、何でも自分で作り出してきます。そして、涙こぼれる心持ちなどと、心にもないことを言ってきます。今までの経過から、嘘だと思います。むしろ、そこに、楽山の詐欺性と反宗教が、証拠として表れてくるのです。
 

それにしても、このくらい貪りから離れたら、さぞ心穏やかであり、神への感謝によって心は満ち、強いてどこかの宗教にしがみつく必要もなくなるのは当然だろう。自分はこういう心境とはほど遠いが、いつかは辿り着きたいものである。

 
神が人に与えた節操を知らずに、勝手に、"神への感謝によって心は満ち"、しかし、宗教は不要と言っている自己矛盾です。楽山が辿り着くのは、多くの被害者によって裁かれる詐欺的偽善者の末路の心境でしかないでしょう。
 

*全体の感想
大川周明については、前にも書いたように東京裁判での奇行から、あまりよい印象は無かったので、その著書を読んだり、人となりを知りたいという気にはなれなかった。でも本書を読んでみると、その宗教観にはさして異論もなく、よく了解できた。もしかしたら自分は、大川周明に対して、いわゆる食わず嫌い状態になってしまっていたかもしれぬ。

 
過激な右欲の思想家である大川周明は、知能の高いナルシストだったのかもしれません。楽山は、知能の高くない病的ナルシストだと思います。こういう人が、高い知能にあこがれると、ろくなことはないのです。
 

本書の中で、自分がもっとも強い印象を受けたのは、上の母に重なる神のイメージと、親孝行が絶対的な神への信仰につながるという理屈だった。親に感謝すれば、親を育んだ先祖への感謝となり、次にはその先祖を育んだ民族神、さらには国の神への信仰となり、最後には絶対の神への信仰に行き着くと…。なにやら修身斉家治国平天下のような雰囲気もないではないが、自分にはこの考え方は分かり易くていい。

 
もろに、個人の自由を無視した右翼思想になっています。300万人の日本人の犠牲を出した戦争の歴史を学んでいない証拠でしょう。残酷な心性だと思います。
 

人は神によって万物の霊長としてつくられたのであるから、自然を管理、支配する権利義務があるというよりは、自分が今あるのは両親、祖先のおかげであり、両親、祖先があるのは民族や国のおかげ、民族や国があるのは自然のおかげ、自然のあるのは神様のおかげ…という具合に、両親、ご先祖様、自分の生まれ育った土地の神、民族神、国の神、自然の神、絶対神…天地一切のものに感謝をささげるという方が、自分には合っている。

 
上の続きで、楽山の思想が表れています。つまり、正体がバレています。楽山という右翼は、国の神信仰であるならば、何でも感謝し、国のために命を失ってもいいと言うのでしょうか。歴史の史実としては、空襲で母を失った人が大勢いるはずですが。
 
楽山という万物の霊長は、他の万物の霊長の生活も人生も命も、どうでもいいのでしょうか。右翼の楽山の暴言であります。
 

本書を読むことで、こういう自分の宗教感覚を再確認できたのはよかった。本を読んでいて、これは反対だ、これも反対だと批判ばかりが心にうかんでくると、何でも反対屋になったようで気が滅入るが、共感できる箇所がたくさんある本を読むと、何やら自分が素直な人間になったようでなかなかいい気分だ。

 
再確認したのだそうです。怖いことです。共感という言葉を使っていますが、上の思想、共感の対象になるのでしょうか、素直と言えるのでしょうか。テロリストにでもなるつもりでしょうか。戦争を望んでいるのでしょうか。それで、何か、偉い地位にでも就きたいのでしょうか。
 
空想家・妄想家・偽善者・詭弁家・自己愛性人格障害者に用意される椅子は、ギャング以外、電気椅子以外、どこにもありません。決して、楽山に近づかないでください。
 
 
※ 近況:
認知症で、車椅子の母は、介護施設→肺炎で入院→7月16日老健施設へ移りました。健康保険証、介護保険証、それぞれ減額・限度額証明?、衣類その他日用のもの、契約書類、手続き関係などなど、私も呆れるほど忘れっぽくなってきて、認知症の道途上のようです。何をやるべき、何をやったか、混乱→気落ち→意欲低下→停滞しがちです。
 
 
(2020年07月22日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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