ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の三文芝居

 
  楽山の三文芝居
 
 気持ち
 2019年07月24日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
 
 
去年の今ごろの、楽山の記事です。アメブロの管理ページから辿って引用しました。
楽山のタイトルは、「気持ち」・・だそうです。私には、気持ち悪いだけです。
リブログの私の批判記事のタイトルは、「くさい」・・です。
 
こういうところの、恥ずかしさが、楽山には無いんだ、ということを表しています。
既に批判していますが、改めて、元の私の記事に、いくらか付け加えておきます。
 
楽山の最近の記事は、読書家気取り、評論家気取り、というところが多いですが、手を変え品を変え、楽山は書いてきました。この記事では、どうでしょう。詩人?気取りでしょうか。実に、くさい・・のは、何の臭いでしょう。
 
悪意からの甘い言葉は、詩心?でしょうか、とんでもない。だます目的の誘導のために、言葉の醜悪さと、偽善の悪臭に満ち溢れています。
 

 
我ながら
単純だなあ
と思うのだけど、
 
元気で明るい文章
を読んでたら、
何となく、
こっちまで
元気が出てきた。
 
人の気持ちは、
他に伝染するというけど、
たしかに
その通りと思う。
 
笑顔の人の傍にいると、
こちらも気持ちは軽くなり、
不機嫌な人の傍にいると、
こちらもどんよりしてくるとか…。
 
最近は、
心を整えることには
前ほどは関心が無くなってきてたけど、
自分の為だけでなく、
他の人のためにも、
やっぱりこれは大切なんだろうな。
 
生きていれば、
いろいろなことがあって、
いろいろな気持ちになるし、
どんな気持ちもそれぞれ尊いけど、
揺れを戻し、整えることも大事。
 

 
「単純だなあ」と思うなら、書くのをやめてください。楽山は、ふつうの単純さではありません。恐らく、作為で書いて、推敲も、修正も、自己愛のために、必要を感じない、という病理なのです。
 
小学生の作文ではないのです。大人の書く文章として、どうでしょうか。楽山は、元々幼稚なのに、さらに幼稚に書けばよいと思っているのでしょうか。共感できるでしょうか。今までの経過もあり、私は、今、読んでも、わざとらしさに、吐き気がします。
 
「元気で明るい文章」「笑顔の人の傍にいると」「笑顔の人の傍にいると」・・この表面的なだけの文言だけを、楽山が表現した記事で、「元気が出て」くるでしょうか。「こちらも気持ちは軽く」なるでしょうか。楽山の言うような、単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。
 
深みのない表現、中身のない説き方、ある程度、体質であり、ある程度、だます作為であります。良識のある大人は、まず、書かないと思います。
 
楽山は、これと同じ調子で、クリスチャン芝居もしてきました。何とでも演技できると慢心しているようだが、実際は、三文芝居のヘドロ臭だけが鼻を突いてくるのです。
 
「不機嫌な人の傍にいると、」「こちらもどんよりしてくる」・・楽山の機嫌を良くするためには、読者は、機嫌よくしていなければならないでしょうか。冗談じゃない。
 
楽山は、読む人が、だまされるのでなければ、読む人を、不機嫌どころか、どんよりどころか、うんざりさせていることに、全く気づかないようです。さらには、だまされた人は、人格を、知らぬ間に、鈍化され、破壊される恐れさえあるのです。
 
そして、
 

生きていれば、
いろいろなことがあって、
いろいろな気持ちになるし、
どんな気持ちもそれぞれ尊いけど、
揺れを戻し、整えることも大事。

 
これ、何かの、説明に、忠告に、役に立つ言葉に、なるでしょうか、否です。こういう、全体に、白々しい、背筋のゾォッとするような作為の単純な短絡を、楽山は、ポエムを書いたつもりで載せたのでしょうか。さして文学の才能など持ち合わせていない私が、再び見ても、気持ち悪いです。
 
「揺れを戻し、整えることも大事」・・どういう揺れなのでしょう、どう整えるのでしょう、何も書いてありません。それに、余計なお世話なのです。いや、それ以前に、幼稚な、鼻の曲がりそうな、ポエム?説教?、止めてください。
 
全く自分を省みることなく、人に教えようとする楽山の、因業の産物であります。
 
楽山の悦楽は、吐き気、余計なお世話、言わなくていいこと、自分で恥を知るべきこと、などを、結果として、逆に、表しているだけなのです。
 
楽山の記事は、この記事を含めて、人生に参考になる要素が皆無です。悪戯のように書いた楽山が読者に与えようとしているのは、徒な労苦の疲労だけなのです。
 
これで、宗教論者~指導者を目指しているのでしょうか。笑止であるのみならず、おのれの未熟さを知らないで満悦しているのは、病識のない笑い者志願ということになるでしょう。
 
真実追求のブログでもなく、日常生活のブログでもなく、楽しく面白い趣味のブログでもなく、一般の読者にとって、これほど時間の無駄になるブログはないと思います。人格が壊れるほどの疲労が待っているだけなので、どうか、決して相手にせず、近づかないでください。
 
 
楽山が、また、新規記事を書いてきたので、批判記事を書きます。読者の迷惑を考えず、性懲りがなく、自尊の妄想に凝り固まっている楽山です。楽山の信頼度は、ずっとゼロです。
 
  楽山の意地と超常気取り
 
 三魂説について(「妙貞問答」)
 2020年07月24日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25640616.html
 
 
今度は、また、他者の書いたことから、いっそう難解な超常言葉を弄してきました。批判の弁明の代わりに、意地を張ってくる、しかし、説明になっていない、それが楽山です。
 

*三魂説とアニミズム
前記事で、三魂説について一寸触れたので、「妙貞問答」を確認してみた。

DSCN0509 人と動物の魂の違い。三魂説。
DSCN0510
(『南蛮寺荒廃記・妙貞問答 東洋文庫14』海老沢有道訳、平凡社、昭和39年より)
 」

 
本の画像のようですが、画像は出しません。
 
知らない熟語について調べる気にもならないほど、超常言葉の分類みたいなことが書いてあるようです。いつもの、他の人には分からないだろうけど自分には分かる、と言いたい楽山の自己愛と自己顕示欲だと見なして、いちいち調べたりしないことです。
 
意地やプライドで、調べようとすれば、前から言っているように、楽山の企みによる人格破壊が待っているのです。それが、楽山の目指す勝ちであり満悦なのです。
 
説明責任は、どこまでも、それを書いた人にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 

これはこれで一理あるとは思うけれども、自分はやはり人間以外の動物はもちろん、山川草木や岩石にも魂は宿り、人と同じ感情を持っているという感覚は捨てきれないものがある。「一寸の虫にも五分の魂」というけれども、魂の尊さは五分どころか、一寸の虫でもなんでも人と同じだと感じないではいられない。

 
私にとっては、魂の実体があってもなくても、こうだと断定など出来ず、動物と、人間同士のように話せるわけでもなく、かといって、遊びのように動物を虐待するわけでもないでしょうから、分からないとして保留するのです。
 
おとぎ話のようなことまで、自分の霊能力の一つとして、分かっているかのように書いてくるのが、妄想家の楽山です。そういう楽山の話は、難しい言葉で、謎を深めたように気取りますが、具体的に何かが進展することなど、まるでないのです。
 

*「ブラック・ジャック」と「夏目友人帳
そういえば、ブラックジャックはたしか、人間の政治家、一般人の赤ん坊、イリオモテヤマネコが怪我した時には、重症のイリオモテヤマネコ、赤ん坊、政治家の順番で手当てをしていたが、これは情緒的にも論理的にも間違っているとは思えなかったのだった。

 
神社と妖怪が出てきます。神社について語らず、妖怪で何かを言おうとするところが、霊能者気取り?の楽山らしいのです。
 
アニメに出てくる、霊が分かる孤独な少年に、自分を重ねているのでしょうが、そのことは、人間が知るべき宗教と信仰には何の関係もありません。そういうことを考えても、信仰の欠片も見えてはこないのです。
 

先日から見てる「夏目友人帳」もそういう世界観になっている。
夏目友人帳 | アニメ | 無料動画GYAO!
第一話では物語の大まかな設定が明示されて、第二話以降から少しずつ物語の幅を広げて、第四話以降になると傑作が続いている。あやかし、つばめ、ほたる、子ぎつねの健気な心が愛おしく感じられる話だ。

 
妖怪物語です。これを、宗教に関わる問題に、正面から使ってくるところが、霊が分かるっぽい?楽山らしい、ということです。人間について、何も分かりませんと言っているようなものです。
 

これはファンタジーであり、フィクションだということは分かってはいるのだが、ついついアニメ以外の現実世界においても、人以外の妖怪、動物、虫たちも、人と同じ心を持っていると思わないではいられないのだから我ながらおかしい。

 
楽山の話自体が、ファンタジーでありフィクションなのです。楽山だけが、宗教や思想の話と同列のように扱って溺れているので気づかないだけなのです。だから、楽山は、現実世界での、反省も学習も怠ってきたのでしょう。
 
これからも、楽山によって表されたことによって、楽山の異常性を、精神病理学とまでは行かないが、ある程度は、ヒントとして、考えることは可能でしょう。
 

こうしてみると自分の宗教感覚は、原始的なアニミズムから脱しきっていないし、これは子供時代からまったく進歩していないようだ。この調子だと今後もずっとこのまんまなんだろうな、たぶん。

 
だったら、わけのわからないことを書いて、納得のいく説明をしないまま、人を惑わせたり、自慢したりをやめるべきです。本当にがっかりしたのなら、読者の迷惑を考えて、書かなくなるでしょう。
 
しかし、楽山は、また書いてきました。つまり本音ではなく、これが、トホホ言語、という、同情をひくための詭弁です。
 
もう一度、書いておきますが、説明責任は、どこまでも、それを書いた人すなわち楽山にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
楽山には、説明責任放棄の不正の履歴が、記事を書くごとに積み重なってゆきます。
 
 
(2020年07月25日)
 
 
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