ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山のマイコン

 
  楽山のマイコン
 
 マイコン解除のきっかけ(幸福の科学キリスト教
 2020年07月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25671660.html
 
 
楽山は、時々、キリスト教を持ち上げます。何を勘違いしているのでしょう。ここで、持ち上げても、今までのキリスト教への、いちゃもん、悪口、クレームが、消えることはないのです。
 

*きっかけ
自分がキリスト教に興味を持ったきっかけは何だったかと考えると、多分それは三浦綾子の本を読んだことだった。小学校のときに校門前でキリスト教の紙芝居を見たり、高校生のときに福音書を読んで感動したこともあったが、本当に興味を持ったのは三浦綾子がきっかけだった。そしてこれがHSから離れることにつながったのだった。

 
楽山が読んだという言葉を信用してはいけません。キリスト教に興味を持ったという言葉も信用してはいけません。読書は字面を追うだけ、キリスト教は揶揄の材料と、世辞のネタにしているだけです。
 
つまり、180度と言っていいほど信頼を裏切ってしまうと、"狼と少年"、のように、何を発言しても、だまし文句として、誰にもまともに聞かれなくなるということです。楽山は、今さら、何を言っているのでしょう。
 

HSでは、大川隆法の説く教えは、どの宗教よりも高く、奥が深いとされていた。HSこそ最高、最大、最強であって、HSの出現によって、他の伝統宗教の役割は終えた、HSによってすべての宗教は統合されるといった具合である。恥ずかしながら、HS信者だった自分はこれをそのまんま信じていたのだった。
でも三浦綾子の本を読むと、その真摯な生き様に感動させられずにはいられないし、キリスト教関連の本を読んでゆくと、その奥深さに気づかないではいられないのだった。そしてこれに反比例する形で、HSの信仰論など、その教えの浅薄さが目につくようになって行ったのだった。

 
楽山に、真摯、感動、という言葉は、飾りと自慢でしか使われることはないと思います。何故なら、今までの、反省も、謙譲の言葉も、みな、言葉だけだったことが、その前後の実質的な無反省と無変化に表れており、なおも、ネチネチネチネチと、言い訳がましいことを書いてくるという行為に表れているからです。
 

こういう風にあからさまに宗教を比較し、優劣を論ずることは褒められたことではないだろうけれども、自分はキリスト教関連の本を読んでゆくうちに、HSは最高、最大、最強であると信じ込むというマインド・コントロールが解けたのは事実であるのだから仕方がない。少なくとも自分がHSの信仰論のおかしさに気づけたのは、キリスト教のおかげであった。これは有り難いことである。

 
ならば、キリスト教を、揶揄したり、おとしめたり、お伽噺と同じように扱ったりは、しなかったはずなのです。
 
楽山は、マインドコントロールをするほうであって、かけられるほうではありません。既に、訂正不能の自己愛、自己満悦、自尊過大に満たされ、囚われているからです。
 
いつでも、平気で、有り難い、などという、白々しいセリフが言えるのが、楽山です。心からの感謝は、楽山の病的人格には、ありがたい→ありえないことなのです。
 

*印象操作
ところで、HSブログ界隈についてご存じない方のために、一つ警鐘を鳴らしておくと、HS信者のブログには、三浦綾子、アウグスチヌスなどの言葉を頻繁に引用、紹介しているところがある。これはある意味、HS信者でさえも、大川隆法の教えよりも、キリスト教の教えが優れていることを認めているということなのだろう。

 
キリストの教えがすぐれていることを、楽山が何も理解していないのは、今までの経過で明らかであるのに、楽山は、また、字面だけの文章を、だらだらと書いています。
 
侮辱しておいて、それを、ほめることで中和することは出来ません。
 
例えばこちらが反省して悔い改めることが必要だなどと言ったら、恐らく、楽山は、反省して悔い改めようと思う、といったことを、平気で書いてくるような人だと思います。
 
楽山は、心にもない偽りを言うことに罪悪感を感じないのです。そこまで、白々しい履歴が残っているのだから、もはや、何かを書いて凌ごうとしても、無駄なのです。
 

大川隆法の教えが圧倒的に優れているならば、わざわざキリスト者の言葉を持ち出す必要もないはずだ。でも実際にはキリスト者の言葉を引用してばかりいる。これはつまり前者の言葉は、必ずしも後者の言葉を圧倒するほど優れたものではないということなのだろう。ブログ主はこのようなことは全然考えていないようだけども、この点は傍から見ていて少々おかしくはある。

 
HS批判に、キリスト教を持ち出す資格は、楽山にはありません。人間は平等に言論の自由があると言っても、言論の責任を負わない楽山には言論の自由はないのです。おかしいのは楽山です。
 

ただこのブログ主の引用の仕方には、笑いごとではすまされないところがある。それは恣意的な引用が見受けられるということだ。たとえばキリスト者の言葉のうち、HSに都合の良いところばかり引用し、さもキリスト者がHSの正しさに太鼓判を押し、支持しているかのように印象操作しているのだ。

 
恣意的引用は、楽山の得意とするところで、読書からの引用も、大方、同様であろうと思われます。それが、自分の言葉を持たない楽山の、性癖であり、生業(なりわい)なのです。印象操作も、楽山がしばしば、欺きのために、先入観づくりのために弄してきた詭弁の一つです。
 

HSの霊言本では、古今東西の偉人賢人の霊が登場し、大川隆法を讃美、賞賛しているが、このブログではアウグスチヌスや三浦綾子などのキリスト者の言葉のうち、大川隆法の教えと重なる部分を抽出し、さも彼らが大川隆法と同じ考えを持っているかのように紹介されているのだ。

 
楽山が、読書したつもりで、箔をつける意図で、著者の名前と言葉を悪用するのに、酷似しています。他者のことを言えば、お前はどうだ、と言われるということを知らないのでしょうか。
 

ちなみに、スピリチュアリズムの古典についても、同じような仕掛けになっている。スピリチュアリズムの古典のうち、大川隆法の教えと共通する部分が引用され、さも両者は共通の真理を説いているかのようにされている。これはまったくひどい話だ。

 
ひどい話を、だますために、混乱させるために、自分で長い間してきた楽山には、誰を批判する説得力もないのだ、というのが、もはや結論と言ってよいでしょう。まったくひどい話です。
 

HSの教えの根本には、信者は、大川隆法を神と信じ、崇拝せよという思想がある。一方、スピリチュアリズムの基本は、内なる神を信じることであって、誰かを崇拝することではないだろう。キリスト教でも、新興宗教の教祖を神として崇拝せよという教えはないだろう。むしろ偽預言者に気をつけよとして、そのようなことを厳しく戒めているだろう。

 
預言者の体質を持っているのが、楽山とシャロームなのです。つまり、嘘をまともに見せかけることだけに、人生の大半を費やしてきたのでしょう。だから、真実が、どこにもなくなっています。
 
その結末は、誰からも、信用されないということです。だから、今も、だまそうとし続けている現状があるのでしょう。
 

当該ブログ主は、こういう根本的な相違点は無視して、大川隆法の権威付けのために、キリスト教スピリチュアリズムの教えを利用しているのだ。当人は自分は正しいことをしているつもりなのだろうが、迷惑な話だ。

 
楽山というブログ主は、根本的な相違点は無視して、自分の権威付けのために、キリスト教スピリチュアリズムの教えを利用しているのだ、当人は自分は正しいことをしているつもりなのだろうが、迷惑な話だ、ということになります。
 
つまり、長く嘘を吐き続けて、その記憶と記録が残ってしまっている楽山とシャロームは、他者に向ける悪口が、楽山自身に、総て返ってくるということです。
 

キリスト教スピリチュアリズムの書籍をたくさん読んでいる人であれば、この辺りのことはピンとくるだろうけれども、そうでないHS信者は、当該ブログを読んで、スピリチュアリズムも、三浦綾子も、アウグスティヌスもみんな大川隆法と同じことを説いている、やはり大川隆法の教えは永遠不変の真理だと思い込んでしまう可能性が大きいし、これは本当に困ったことだ。

 
楽山の言うことは、一貫して、恣意的な偏向だ、という、もはや、可能性ではなく、事実経過になっています。自分という、いちばん困った存在から、読者の目を逸らせるために、楽山は、この記事で、他者のことばかり言っています。これが楽山であり、ネットにおいて、社会において、思想において、本当に困ったことです。
 

*棚の上?
と、ここまで書いて気がついたのだが、自分の場合は、いろいろな書物の中から大川隆法の教えとは異なる教えを引用、紹介することが多いのだった。古典名著の中から、大川隆法の教えとは正反対のものを引っ張り出して、紹介し、それによって大川隆法の教えを相対化すると…。

 
その分、自分を絶対化してきたので、引っ込みがつかないでしょうし、自己愛、自尊、自己中心、自己満悦、自己正当化、という、自己ばかりを高めてきた報いは、これから、長く長く、楽山に向けられる負のプロパティなのです。楽山は、古典名著など本から、都合の良い言葉面を引っ張り出して、紹介し、自己正当化をしてきます。
 

これを考えると、自分も人のことを言えたもんじゃないかな。でも自分は、こういう意図については前々から正直に話しているのだから、だんまりを決め込んでいる上の信者ブログよりはましだろう。
なんだか最後にオチがついた形になってしまったが、とりあえずここで筆をおくことにしたい。失礼。

 
楽山の正直は、どこにも表れたことはありません。もし、正直なら、既に信用を得て、このような言い逃れの記事は、書く必要もないはずです。正直とは全く正反対の自己中世界にいるために、言い逃れに必死です。
 
実際には、批判に無反応を決め込んで、ネチネチネチネチと自己正当化の主張ばかりしてきたのだから、誰よりも悪質なのは、楽山です。"オチ" ではなく、また、堕落の醜さを、嘘を、詭弁を、重ねることで、表さないではおれない楽山です。実に、おぞましいことです。
 
 
 批判は、ネタの宝庫ではあるけれど…
 2020年07月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25672374.html
 
 
批判は、ネタの宝庫ではありません。真摯で冷静な努力によって少しは可能になる、という、理路と情緒のバランスなのです。私については、うまくいっているとは言えません。できることをして、あとは、神にお任せするしかないのです。
 

今回ひさしぶりに批判記事を読んで思ったのだが、批判というものはものすごいネタの宝庫だ。さらっと流し読みしただけで、新記事のネタをたくさん仕入れることができる。

 
楽山の記事は、総て、惑わしであり、自画自賛であり、非常識であり、超常趣味の言であり、楽山がいくらネタを仕入れても悪質であり、言い逃れの無駄だけが表れます。つまり、総じてインチキであります。
 
ただ、自己愛の意地だけが強いので、呆れるほどの執念で書いてきますが、楽山の自慢ばかりが表れて、つまらないものになり、人生のヒントになるようなものは、長さに比して、皆無であります。
 

相手の意見を変えさせたい、自分の意見を認めさせたいという欲求がなくなってから議論に熱中できなくなり、批判にも興味がなくなり、いちいち読むこともなくなっていたけれども、この点、批判を読むことは有意義なことかもしれない。

 
また、楽山は、嘘をついていますが、今まで、ずっと、体質による不治の病のように、相手を惑わしたい、自分の言を認めさせたい、自慢したい、俺は偉いんだ、宗教を超えている、ほめたたえられたい、という欲求だけで書いていると思います。
 
楽山に対して、批判は、楽山を変えるという意味では、全くの無駄であります。ただ、批判は、それを、たまたま読むのであっても、決して近づいてはいけない楽山日記というブログがあることを、記憶に少しでもとどめてほしいという目的で書いています。百害あって一利なし、というサイトが実際あるという情報であります。
 

ただ難点としては、批判から得るネタは、自分にとっては新味がないということがある。自分が意見をいうときは、ただの思い付きをいうこともあるけれども、大概はそれなりに思惟を重ねた上でいっているのだ。だからそれに対する批判があっても、自分にとって意外なものは少なく、ほどんどがすでに検討済みのことばかりであり、したがってそこから得られるネタに新鮮味はない。

 
楽山が、ネタに新味がないと思うのは、新しいものを受け取る感受性が楽山にはないからでしょう。楽山が、新しいと思って書いても、実際は、キリスト教に対するいちゃもんのように、陳腐で、幼稚で、つまらないものばかりを、書いてきたのです。それらは、既に、私の記事にしています。
 
「自分が意見をいうときは、ただの思い付きをいうこともある」と、開き直っています。楽山の記事は、思いつきだけの、まとまりのない言葉のおもちゃ箱であり、恣意はあっても、どこにも、思惟を重ねた跡が見られません。それを、ごまかすために、著名人の書籍と名前を悪用してきたのです。
 
したがって、いちばん新鮮味がないのは、楽山の記事であり、楽山の思考であり、月並みなのに、いつまでも検討済みになっていない、いちゃもんの類であり、混乱だけを与えるだけの用語の見せびらかしであります。
 

また批判から得たネタで記事を書くと、どうしたって文章が乱暴な感じになってしまうというのも困るし、どうにもみっともない。
こうして考えると、やはり批判から得たネタで文章を書くのはダメだな。それよりは本を読んで感動したことについて書く方が楽しいし、得るものも多い。この方が根が平和主義者に生まれついている自分には合ってる。反省。

 
楽山は、批判に対して反論も弁明も出来ないために、批判から得たネタが、ダメだと決めつけています。これが、楽山の、底知れぬ悪意の言い逃れなのです。
 
乱暴になるか、理路を組み立てられるか、感性を磨けるか、努力し成長できるか、続けられるか、ということは、書く人の節操と意志と感性によるわけであって、楽山には、それが無いから、乱暴にしかならないと、自分でわざわざ言っているに過ぎません。
 
一年余り、楽山の記事を読んできて、「本を読んで感動したことについて」何も伝わってきたことはありません。恐らく、楽山は、本を読んで感動したことはないと思います。悪用~利用してきただけなのです。
 
楽山の、ねちねちと執拗な筆致は、感動どころか、何度も言ったように、無用な疲労を与えるだけの毒にしかならなかったという経過です。だから、無駄は、やめなさい、としか言えないのです。
 
楽山は、書く記事の、悪質な疲労をもたらすという影響を指摘されても、他者を無視して、節操もなく、努力もせず、口から出まかせで、書き続けています。
 
こういう人には、話し合う余地はなく、悪意と作為しかなく、婉曲的に侮辱する陰険さゆえに、決して平和主義ではありません。偉そうに、平和主義だなどと、よく言えるものです。呆れる。
 
 
(2020年07月30日)
 
 
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