楽山の誘導
楽山の誘導
真理を語りつくした宗教は存在しないということ
2020年08月02日 楽山日記(LD)
http://mn266z.blog.jp/archives/25740063.html
楽山が、人間を、いかに知らないか、ということが表れています。幼稚なことばかり書いてきて、人の言うことは聞かないのです。誰も、楽山を、批判する以外、相手にしてはいけないと思います。
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最近、内村鑑三の「宗教座談」で、神は聖書より大きいとしているのを読んで、思わず膝を打ってしまったのだったが、次のツイートを見ると、スピリチュアルな方面でも同じような考え方をあるらしい。
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神を信じていない楽山が言っています。聖書も曲解している楽山が言っています。膝を打つというのは、感心したときのジェスチャーですが、その根拠が、楽山にはありません。何もかも、自分の妄想と一致するかどうかで判断しているだけだと思います。どこまで思い上がれば気が済むのでしょう。
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「
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
宗教についての真実を申せば、真理の全てを説いている宗教など有りえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月のうちに歪められ、狂信者によって捏造されております。
」
ちなみに、自分がこの問題に興味を持ったのは、某宗教の信者と信者の論争を観戦していたときだった。この時、ある信者が「あなたが言っていることは教義にありますか。どこにも説かれていないのではありませんか。そんなものは真理ではなく、あなたの妄想にすぎません」という主旨で相手を批判しており、自分はこれに対して、いやいや教義に無いからといって真理ではないとは限らないだろうと思ったのだった。
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そもそも、人が、真理の総てを知ることは出来ません。人間の知りうる時空が限られているからであり、人の心ひとつも総て知り得るものではない、ということが分かっているなら、当たり前のことなのです。
真理を尽くしたのが完全な宗教などと言う先入観の世迷言で宗教を語ろうというのは、自己愛に慢心した楽山のような自分信仰の狂信者が捏造し吹聴したがっているだけであります。
神は全き真理なのでしょう、されど、人は不完全なので、神の真理を知りません。しかし、人が生きるためには、ひとかけらの真実があればよいのです。
教義や教理を信仰してしまうと、説教で語られる言葉や聖書の言葉しか使わなくなる可能性があります。これは、神が与えた自由意志に反することなのです。大事なことは、聖書を読んで、何を受け取ったかということです。
「教義に無いからといって真理ではないとは限らない」と楽山が言うのは、自分が真理だと言いたがる無知で無恥の楽山の言うことを正当化するために他ならず、言い張るためのエネルギーにしたいからに他なりません。
楽山の言うことは、まず、知性の常識と情緒の直感的良心に反しています。楽山が、良心と常識を持っていないまま、恣意的に、詭弁で誘導し刷り込もうとすることを、だますために語る言葉を、決して信用しないでください。
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「教義にないことは、教義ではありません。教義でないものを、教義であるかのように言うのは止めてください。教義と個人的な感想や意見は、きちんと区別して言ってください」と言うならまだ分かる。でも、「教義にないことは真理ではありません。あなたの妄想にすぎません」というのは、ずいぶん、ヘンテコな話なのだ。
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それ以上に、ヘンテコなのは、教義を知らない楽山が、教義云々を語ることです。妄想かどうかは、それを、もし多くの人が信じたら反社会的にさえなるだろうと推測されることであって、楽山の言っている自己愛と自己中の無反省こそが、それに当てはまります。
楽山は、教義も、聖書も、人間の良心に基づくことがないために、少しも理解できていないことが、今までの記事と、過去のコメントから、明らかになってきたのです。
信仰というのは、それを与えられる機会を得たときには、そもそもその人に与えられたところの、良き人でありたい、という良心によって判断されてゆきます。最初から、聖書の正しさを先天的に持っているわけではないという自明の理から始まるのであります。
したがって、信仰は、人間の良心を促し、人間の悪意を減らしてゆく方向に行くのは言うまでもないことなのです。何か特別の神の啓示でもあって、良心を蹴散らして信仰に向かう、などということは、カルトならあり得ますが、正しい信仰にはあり得ないことです。
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こういう場面を見ていると、宗教信者は、唯物論者に向かって、「この世がすべてではありません。この世を超えた世界があるのです。そのことを知ってください」と言ったりもするけれども、これは宗教信者にも言えることであって、宗教信者の方も、宗教で説いていることがすべてではなく、宗教を超えた世界があることを知らなければならないのではないかと思う。
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宗教についての話を含めて、自己愛によってゆがめてしまい、自前の字面の屁理屈しか言えなくなっているのが、楽山です。それは、自己愛と自己中による無反省と訂正不能によって起こっています。楽山ほど、前もって、警戒を要する人は、ガチガチのカルトを除けば、珍しいのです。
カルト、および、カルト的な人は、陶酔気分で、誇大妄想を語ることがあります。現実を弁えず、思い込んで信じ込んでいる人は、考えることも、共感することも、自ら止めてしまうことがあり、そのために、現実離れや人間離れを起こしてゆくのでしょう。キリスト教内部においても、この問題は、決して小さいことではないのです。
楽山は、今は多くを隠しているようですが、大方、それに当てはまると思います。人心を操作しようと企み、先入観のように吹き込み、平気で嘘を吐き、詭弁を弄する、という今までの経過に表れています。楽山は、現実を考えることが出来ず、人間に共感することが出来ないのです。
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宗教にハマってしまうと、宗教で説かれていることこそが真理であって、それに反することや、説かれていないことについては真理ではないという短絡的な思考に陥ってしまうこともあるが、ここはぜひとも注意したいところである。
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自分信仰の自己愛に嵌ってしまうと、他者の意見を無視して、反省をしなくなるので、学習と成長がなくなります。楽山がしているような、自分に都合の良いことばかりを漁って積み重ねることは学習でも成長でもありません。
一方では、他者の意見や思想や宗教を侮辱し、あるいは、軽く見なして、何を言われても無視して、悪に悪を、欺瞞に欺瞞を、偽善に偽善を、悔いることもなく、重ねてゆくようになります。
一年以上批判してきて、楽山の言から、何らかの納得を得られたことは、一度もありません。だまし誘導する意図だけが、気色悪く伝わってきます。
あまりに酷い記事が続くので、最近ですが、楽山批判の記事のタイトルにも「楽山の・・」というように、"楽山" という名前を出して、責任者が誰かを明示するようにしています。
しかし、楽山の偽善性が分かるのは、ある程度、批判者が詭弁と誘導について学習している場合であって、カルトや誘導に対する免疫や抵抗力や批判力に自信が無くて影響を受けやすい人は、楽山の言うことに対しては、決して相手にしない、という方針のほうがよいと思います。
楽山に関わって、良いことは何もないと思います。影響を受けてしまうと、知性も感性も鈍くなり、楽山と同じように他者を無視するようになり、自分の言いたいことだけをアワアワと繰り返すようになるでしょう。楽山のボンヤリ言語やトホホ言語に似た言い逃れをするようになる可能性も大です。
人間は、真実の追求を志すならば、修正可能で学習可能な心性を持ち、他者の言ったことも、そのまま受け入れるのではなく、自分の学習経過と結果である知性と感性によって処理して、総ての人が信じたらどうなるかを考えて、生かすか、保留するか、否定命題とするかを、自分で判断してゆく必要があるということです。
(2020年08月05日)
(2020年08月13日、一部修正)
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