ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の仲間

 
  楽山の仲間
  
 名無しの荒らし実はシャロームのコメント
 2020年07月25日
 私の記事「楽山の三文芝居」コメント欄
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/6645741.html#comments
 
 
楽山が、性懲りもなくカルト誘導の記事を書いてきたので、載せるのが延び延びになっていましたが、私の楽山批判の記事「楽山の三文芝居」(ライブドアブログ)のほうに、久しぶりに、卑怯な荒らし、"名無しの猫"、実は、シャローム shalom がコメントを書いてきました。
 
楽山の援護のつもりでしょうか。前にもあり、筆致から、10年前から批判しているシャローム shalom です。
 
ヤフーブログが終了して、今は、シャロームのブログは、所在不明です。ゆえに、無遠慮に書いてくるのでしょう。このように、楽山には、似たような仲間がいます。ひょっとしたら、一人による成りすましかもしれません。楽山とシャロームは、こういうこともするような、孤独な惨めフレンドです。
 
「 
 
1. いまも名無しの猫です
2020年07月25日 11:29
おはようございます! 名無しの猫です
 
お久しぶりで懐かしいですね!お元気?そうでなによりです。
今年の梅雨は全九州どこでも大雨災害で大変でしたが、
諫早はどうでしたか?お母さんはいかがですか?
 
「楽山の言うような、単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。」
 
楽山さんの記事を読んで、「単純に無条件に元気の出てくる人は」おられると思いますよ。」きっとコメントもあると思います。
でもstさんのように熱心に読んで、丁寧な批評してくださる方はほかにいないかもしれませんね?
stさんの楽山さんに対する批判記事を読み
「単純に無条件に元気の出てくる人は」おられるでしょうか?
「単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。」
 
stさんに楽山さん批判というライフ・ワークを与えておられる
自由な楽山さんに感謝ですね!
 
今も元気な名無しの猫より
不自由なstさんへ
 
 」
 
名前を書きなさい。卑怯者め。でなければ、引っ込んでいなさい。
 
シャロームの、白々しい筆致として、挨拶や世辞と、皮肉・当てつけの悪口を、同じコメントに書いてくる特徴があります。
 
「懐かしいですね」と「不自由なstさんへ」にも表れています。褒め言葉は世辞もある、悪口は本音でないと書かない、ということから、悪意の当てつけである後者が本音であることは言うまでもありません。
 
前にも、同じような指摘をしたのに、読んでいないのか、理解できないのか、もはや、シャロームは、くずれた日本語を、隠そうともしなくなりました。
 
シャロームは、楽山と同様に、丁寧語とは裏腹に、常識・良識のない人で、偽キリスト者、反キリストです。引用の形式も、いい加減ですし、結論だけの悪口です。シャロームと楽山は、まともに応答してはいけない人です。
 
シャロームは丁寧語を使うので、批判していた頃、別の人が、私に、"失礼なことを言ってはいけない" とコメントに書いて注意してくることもありました。全く、本音とは別の、世辞や社交の言葉で、だまされている人が、結構いるということです。
 
このような荒らしが、楽山の仲間なのです。同一人物の、キャラを変えた成りすましも疑っています。
 

stさんの楽山さんに対する批判記事を読み
「単純に無条件に元気の出てくる人は」おられるでしょうか?
「単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。」

 
元気を与えることが目的ではなく、真実追求の希望を疲労させてくる楽山の記事を批判することが目的です。そんなことも分からないで、言葉で引っ掛けて、いい気になっているのでしょうか。
 
成りすましも疑うほどですから、シャロームの信頼度もゼロです。まともな話し合いなど、通用しない邪悪な偽善者であり、楽山よりもずっと前から、反キリストと判断している人です。
 

stさんに楽山さん批判というライフ・ワークを与えておられる
自由な楽山さんに感謝ですね!

 
誰が感謝するのでしょうか。勝手に「ですね」口調で、押し付けてくる傲慢が、ずっと前からの、シャロームの特徴です。それに、批判がライフワークではありませんし、ライフワークというものを、私は意識してはいません。できることをしているだけです。
 
前から言ってきたのですが、理解力のないシャロームは、同じような世辞~偽善の言葉しか使えないのでしょう。
 

今も元気な名無しの猫より
不自由なstさんへ

 
シャロームが元気であることは、何よりの災いであります。このことは、そのまま、シャロームが、おのれの不自由、空元気、致命的な欠陥、罪、偽善、無反省、厚顔無恥、等々に気づかないでいることを表しています。つまり、病識の欠如なのです。
 
私は、高齢でもあり、いろいろな点で、不自由を、無力を、罪を、意識し自覚し、祈りと反省の日々を送っています。
 
それら一切を持ちえないシャロームという荒らしが、元気でいることは、災いです。
 
このような、偽善者シャロームが、キリスト者、そして、元牧師を自称していましたが、それが嘘であることは、既に明らかになっています。
 
 
キリスト信仰は、キリストの名によって祈るところの、神に対する正直さだけによって、人生の成り行きにかかわらず、父なる神の定めるところの真実において、担保されています。
 
 
その信仰を、真っ向から、裏切り続けているのが、シャロームであり、その仲間が、楽山と易坊です。そして、シャロームと楽山は、性懲りもなく、反キリストぶりを、何度も何度も、あからさまに表してくるのです。反省機能が欠如すると、こうなります。
 
いつまで、どこまで、卑怯者は、吐き気を催すような、汚らしい穴ぐらから吠えてくるのでしょう。決して近づいてはいけません。
 
以下は、シャロームに対するルーチンです。
 
 
《シャロームの背教》
これからも、しばしば載せることになるでしょう。
 
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、訂正していない。
悔い改めは必要かと問われて、悔い改めは必要だが、それは、神が与えると言って、その後も、二度三度と同じことを言って、訂正していない。
 
シャロームの2つの発言は、悔い改めなくてもいい、悔い改めは必要、という矛盾を来たしています。さらに、悔い改めなくていい、というのは、キリスト信仰とは、真逆であります。さらに、悔い改めを神が与える、というのは、自分はしなくてもいい、という詭弁です。メチャクチャなのです。
 
悔い改めというのは、やり取りできるようなものでしょうか、否であります。悔い改めは、主語となる本人以外にはできない、というより、本人以外はしないことなのです。与えたりもらったりできるものではありません。シャロームは、それさえ理解せずに、神が与える、神が与える、と言い続けています。
 
さらに、シャロームの言には、さらなる自己矛盾があります。悔い改めていないということは、神は悔い改めを与えていないことになり、キリスト者になっていないということになるのです。
 
悔い改めは、自発的でなければ意味がありません。
悔い改めは、神に対して、正直に罪を告白し祈ることです。
 
すでに、シャロームの信仰が偽物であることは、証明されているのです。
 
シャロームは、神に対して偽っており、神に真摯に正直に祈ったことなど一度もないと思います。
 
神に対して、嘘を吐く者は、人に対しては、さらに白々しい嘘を、平気で吐くのです。
 
シャロームとその信条に、無条件で賛同し、互いにお仲間として、お味方となっているのが、楽山であります。もはや、いかなる反省も、学習も、関係改善も、期待できない二人は、偽善者、反キリスト、反信仰の、手遅れ患者なのでしょう。
 
彼らの書いたものを見ていると、彼らの真実に向けた憎悪(ぞうお)は増悪(ぞうあく)するのだろうと思います。
 
 
(2020年08月06日)
 
 
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