ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の手口

 
  楽山の手口
 
 『神道からみた この国の心』樋口清之井沢元彦
 2020年08月05日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25779731.html
 
 
中身のない記事で、楽山は、確認したつもりになります。それが楽山の手口なのでしょう。
 

これは神道および日本についての対談をまとめた本であり、前に読んだことがあるものだが、内容はすっかり忘れてしまったので今回あらためて読み返してみた。特に印象に残ったのは次の箇所だった。
まず一つは、井沢元彦樋口清之の会話は、井沢元彦が「逆説の日本史」などで書いている自説を披露し、それに対して樋口清之は慎重な態度で感想を述べるという型が多いことだ。このあたりは小説家と学者のちがいが明確にあらわれていて面白い。

 
知恵が足りないために説明できない者が、自己顕示欲を満たそうとして取る手段は、いっさい、説明をしない、ということです。有名人の名前だけをあげて、「面白い」、と言い、自分が、このレベルのことが分かるインテリなんです、というアピールをしてくるのです。
 
どういう「ちがいが明確に表れ」ているのでしょう。何も書いていない。アイデアもセンスもない楽山には、何も書けない、ということが既にバレています。
 

二つ目は日本では信仰を統合、統括しないという話だ。たとえば火山の神、灯火の神、炊事の神などは個別に拝むが、火の神として一つにまとめたりはしないという。なぜかといえば「そんなことをしたら、ゼロになってしまいますから。すべてのものを統括したものというのは、実は、あるものであってないものなんです。ないものになっては困る」(p.40 樋口)ということであり、「火の神として一つにしたら、目の前の竈や灯火から、神様がいなくなってしまう」(p.40 井沢)からだという。

 
「信仰を統合、統括しない」・・また、楽山の自己中の話し方です。楽山は、書き方を正確に、みたいなことを、前に言っていましたが、ここでの主語は誰なのでしょう。事実でしょうか、当為でしょうか。さらに、人間が主語になれるでしょうか、否です。神が・・ということなら、今度は、神を決めつけていることになります。
 

自分は思想宗教の統合だとか、体系化だとかにはさほど関心はなく、そういうことはあまり性に合わない方なのだが、どうもこれは日本的な宗教感覚と無縁ではなさそうだ。

 
関心がなく性に合わないなら、なぜ、書くのでしょう。「日本的宗教感覚と無縁ではなさそう」などと、分かっているかのように、説明もしないで書くときの災いの気持ちがいいのでしょうか。用語を出して、説明しない、理解してもらおうとしない、これは、自分は分かっている、と言いたいだけの自己顕示欲なのです。
 
実際は、何も説明など出来ない楽山です。実に迷惑です。楽山は、疲労物質であり、即ち、エナジーバンパイアだということです。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12501594073.html
 

三つ目は、皇族には知らないことを恥ずかしいとする考え方がないという話である。樋口清之は皇族のある方に講義をしたときに、その方は知らないことがあっても恥ずかしがる素振りを少しもみせなかったので、不思議に思ってその理由を問うてみたところ、皇族では「負けても知らなくても、悔しいとか恥ずかしいとは思わないのが、普通」(p.122 樋口)らしいことが分かったのだという。

 
楽山は、負けたり知らなかったりすることが恥ずかしいのでしょう。知っている、分かっている、と思わせる詭弁と嘘だけを、ずっと書き続けています。ことごとく批判されているのに、無視して書き続ければ、説明をしなくても、刷り込みのように、いつのまにか、自分も、有名人と肩を並べるインテリ評論家だと見てくれるじゃろ、とでも思っているのでしょうか。浅ましい。
 

この話はずっと記憶に残っていたものの、何の本で読んだのかは忘れてしまって、さっぱり思い出せずにいたのであるが、どうやら本書で読んだものだったらしい。長年のもやもやが解決できてよかった。こういうことがあると、やはり本は一度読んでおしまいにするのではなく、時々は読み返してみるものだとつくづく思う。神道のことは今回の再読でもやっぱりよく分からなかったのではあるが、それでもこの点について確認できたのは本当によかった。

 
そして、説明も根拠も書かないまま、ほめています。「長年のもやもやが解決できてよかった」「確認できたのは本当によかった」・・自分はインテリだと確認できてヨカッタさんなのです。完全に読者を無視している自慢だけの記事となっています。これだけ、有名人の名前を出して、何も説明せずに、自分を高めようとする人も、珍しいでしょう。恥というものを知らないからです。
 
 
 幸福の科学スピリチュアリズム
 2020年08月05日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25780112.html
 
 
浅薄な知識と、不感不応と、自己顕示の自慢という、楽山の腐った手口が、明らかになっています。
 

*共通点と相違点
「霊界からのメッセージ」氏のツイートを読んでいて思い出したのだが、幸福の科学(HS)も初期の頃は、スピリチュアリズム色が濃厚だったのだった。
サンポール氏の記事で、初期の教えを確認してみると、やっぱりそのようになっている。
・混ぜるな危険! ブログ・サンポール 『旧版・日蓮聖人の霊言』~幸福の科学・初期の教え
とはいえ、両者には大きな相違点もある。たとえば、スピリチュアリズムの方では、霊人の名前でなく、その教えの内容こそが重要なものになっていて、だからこそアメリカ先住民の無名の霊が、地上の欧米社会に向けてメッセージを送るという形になっていたりもするのだが、大川隆法による霊言の方はといえば、歴史上の偉人賢人など、有名人の名を冠したものばかりなのだ。この点については両者は正反対だといえる。

 
有名人?の名を冠しても、検証不能な超常のお告げですから、正反対かどうか分かるのでしょうか。あるいは、HSの傲慢を言っているのでしょうか。ならば、なぜ、HS批判として、そういう書き方をしないのでしょうか。自分を高めるのが目的だからなのです。
 
楽山は、字面だけで、一気に霊や超常に飛びたいだけなので、どちらも大好きなのでしょう。わざわざ字面だけ、難しい言葉を使ったり、複雑な言い方をして、自らの心霊主義を高めているだけなのです。楽山は、何の説明も出来ないカルトだから、説明不要の世界を2つ並べて違いが分かるふうを装っています。
 

もしかしたらHS側は、その理由として霊媒の能力を問題にするかもしれない。スピリチュアリズム霊媒たちは、霊的な認識力が充分でなかったために、霊言をする霊人の正体をつかみきれず、その名前も分からなかったが、大川隆法総裁は偉大な霊能者であって、霊的な認識力に優れ、霊言をする霊人がどのような存在であるかがはっきり分かるのだと。

 
霊媒という説明できない霊の話ばかりになっています。比較しているつもりなのでしょうか。正体をつかみきれるのでしょうか。超人?の呆れる話になって、楽山は饒舌になっています。中身、信頼度、説得力は、一貫してゼロです。
 

でも百歩譲ってそれが事実だとしても、白人社会において有色人種の霊がメッセージを送るというシルバー・バーチの霊言と、日本社会において多くから尊敬されている偉人賢人の霊がメッセージを送るというHSの霊言とでは、その背景にある理念はまったく異なるということに変わりはない。

 
「百歩譲って事実だと」するそうです。そして、霊言の「背景にある理念」が、国によって、「まったく異なる」と言っています。何を根拠に?どう異なる?というのでしょう。文化が違うから、違うの当たり前じゃろ、とでも言うのでしょうか、どちらも、根拠のないことだから、最初から最後まで、何も説明できはしないのです。空疎すぎます。
 
こういう楽山のような者を受け容れて、一生、泡を吹き、地団駄を踏み続け、踊らされる人生になってよいわけはありません。楽山は、裸のインテリ気取り、王様気取り、ゆえに、決して関わり合いになってはいけません。人生は、思いのほか、短いのですから。
 

一方は被差別者による霊言であり、もう一方は権威者による霊言であるというちがいは、その背景にある意図、理念、精神がまったく異なることを示しているのであって、霊媒の能力の問題で済まされることではないのだ。

 
被差別者というのは、霊能者だから差別されたということでしょう。権威者というのは、だまし続けているということでしょう。真偽を語らないということは、信じているのでしょうか、楽山は、どう済ませるつもりでしょうか。うさんくさくて、鼻が曲がりそうです。
 

*教えの改変
サンポール氏は、HSの初期の教えを紹介した後で、それがどのように改変されたかも記事にまとめてくれている。「法子の部屋」氏の記事の転載とのことなので、資料をまとめてくれた「法子の部屋」氏にも感謝したい。

・混ぜるな危険! ブログ・サンポール 続 『旧版・日蓮聖人の霊言』 ~ 『法子の部屋』はんによる検証
 」
この記事を見れば、誰にも一目瞭然だろうが、『旧版・日蓮聖人の霊言』から削除されたのは、宗教とは距離をおき、権威主義偶像崇拝、他力信仰などには陥らず、内なる神を信じつつ、真理を学び、実践し、霊性の向上を目指すというスピリチュアリズム的な部分ばかりである。これらの教えは、教祖を崇拝し、教団の勢力拡大を目指す他力推奨型の宗教という現在の教団にとってはよほど都合が悪かったのだろう。

 
「内なる神を信じつつ、真理を学び、実践し、霊性の向上を目指す」・・さらに、うさんくさい話になってゆきます。超常ヒーロー~評論家気取りの楽山は、できそうにもない誇大的なことを自らに当てはめて、疲労と人格破壊を自他に与えるところの、エナジーバンパイアになっているだけなのです。
 

「方便の時代は終わった」の目的については、建前上は信者らが混乱しないように、教義を整理し、エル・カンターレ信仰に一本化したということになっていたかと思うが、結局のところ、その実態は教団運営に不都合なスピリチュアリズム的な教えとの決別であったのだ。このとき、スピリチュアリズム的な教えに賛同していた初期会員たちの中から多くの脱会者が出たというのも相応の理由があってのことだったのだ。

 
楽山が、なぜ、このようなことを書くかといえば、自分も、霊が分かるっぽいスピリチュアルだから、HSとは違うから、正しいんじゃ、と言いたいだけなのです。方便にならない嘘で企む楽山です。
 
霊が分かる証拠を、まるで持っていない楽山が、自分で選んで、スピリチュアルを弁護するのは、スピリチュアルにとっても迷惑な話になってゆくでしょう。
 
実際には、楽山は、すでに現実を遠く離れて、超常の霊の世界に逃げていることが、この記事にも表れています。楽山は、今まで書いてきたように、自己愛性によって、自己正当化、自己顕示して、自らを、賽の河原の石積みのように、結局は、壊しているだけなのです。
 

*まとめ
自分のイメージとしては、HSはスピリチュアリズムの要素が濃いと思っていたのだが、今回あらためて確認してみると、どうやらそれは間違いであって両者はまったくの別物であると結論付けざるを得ないようだ。
端的にいえば、初期HSはスピリチュアリズムと似た教えを説いており、同系統の運動に見えるところもあったが、実際にはその根本の精神はまったく異なっており、それだからHSは時が経つにつれて、スピリチュアリズム的な教えから離れ、典型的な教祖崇拝型の新興宗教という形におさまったということである。
スピリチュアリズムから離れた視点から見れば、HSは霊性進化論の一種ということであり、スピリチュアリズムの流れの中にあるように見えもするが、スピリチュアリズムの本流から見た場合は、HSは支流も支流であって、かなり道を逸れたものにすぎないのである。

 
楽山が、HSを教祖崇拝型の新興宗教と見なし、スピリチュアリズムを本流としていることを忘れないでください。私が言いたいのは、楽山は、スピリチュアルとして、何か深い洞察を書いたことは、一度もないということです。
 
この楽山が、前に、キリスト教について、ひやかし、いちゃもん、一方で、ほめ言葉など、でたらめなことを書いてきたのです。それが全部、嘘っぱちだったということを、記事は示しているのです。
 

*判断ミス
恥ずかしながら、自分はHS会員だったころ、日本のスピリチュアリズム界の大御所らが、HSに合流してこないことがどうにも納得できず、不思議でもあったのだった。なぜそういう人たちはHSの霊言を信じないのだろうかと。
でも当時の記憶を掘り起こしてみれば、自分もはじめにHSの霊言集を見つけた時は、即、バツ判定したのだった。「これは偽物だ。偉人賢人や、神の名を名乗る霊に本物がいるわけもない」「本を売るために、有名人の名前を利用するなんて酷い奴だ」といった具合である。

 
もはや、現実世界よりも、まとまりのないスピリチュアルの世界に、埋没したがる楽山なのです。浅はかな、楽山の底が、見え見えになっています。
 

でもそれにもかかわらず、後になって迂闊にも霊言集を手に取って読んでしまい、スピリチュアリズム的な箇所を見つけ、共感し、いいことが書いてあると判断し、ハマってしまったのだった。いわば、自ら進んで、木を見て森を見ない状態になってしまったのだ。霊言本のタイトルを見て偽物だと判断したときは、木を見ずとも森を見て正しく判断できていたのだが、その中身を読んでからは木を見て森を見ないようになり判断を間違えてしまった。

 
読解力と説明力のない楽山が、霊言集であれ、スピリチュアルであれ、「いいことが書いてある」、と言うのは、既に、楽山が、現実離れ、人間離れしている証拠です。
 
現実の心も、木も、森も、見ることのできないために、一気に、心霊の安易さに飛びついた楽山の、「間違えてしまった」というのは大嘘で、実際は、自己愛から、間違いに気づいた自分を高めようとしている、ということを見逃してはいけません。何を書いても、自己正当化につなげるのが、そして、それを暗示しないではおれないのが、半端な知能を持つ病的ナルシストなのです。
 

有名人の名を冠した「××の霊言」という本があった場合、ふつうの人なら、うさん臭さを感じて見向きもしないだろう。でも自分は心霊的な方面について生半可な知識と興味があったがゆえに、そのような本を読みふけってしまい、ハマってしまったわけである。自分のことながら、まったく愚かにも程があるというものだ。

 
いちばん、胡散臭いのは、楽山です。愚かさに気づくんですアピールをしながら、スピリチュアルを自分に当てはめようとしてきた楽山であることを見逃してはいけません。
 
何も、何ひとつも、楽山から、よいものは生まれません。今まで、自己正当化以外何もない、そういう記事だけだったからです。数々の、だまし言葉を経て、今は、超常大好き、現実大嫌いを、隠さなくなってきた楽山です。その話ばかりです。
 

*第一印象を忘れないこと
巷では、「よく知りもしないくせに知ってるようなことを言うな」という考え方があるし、HS信者もこれと同様に、批判者に対して「HSを批判するなら、HSの本をすべて読破してからにすべきだ」と言ったりするけれども、どうも自分の上のような経験からすると、宗教に関しては、少々の知識があるよりも、さほどの知識も興味もない一般人の方がよほど正確に判断できていることが多いようだ。

 
楽山の字面の知識よりも、大切なのは心であります。しかし、楽山は、心にだけは、見向きもしないで、霊という超常に執拗にこだわり、中身のない言を並べてきました。「一般人の方がよほど正確に判断できていることが多い」と言うなら、楽山には、黙っていなさいと言いたいのです。
 

少々理屈を言えば、宗教というものはカルトであろうがなかろうが、宗教である限りは、その教えの中には多少はマインド・コントロール的な要素が含まれているものであるし、もしその教えを学んだ後で判断するとすれば、それは若干のマインド・コントロールを受けた上でのものになってしまい、本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた結論を出してしまう恐れがあるということだ。

 
本来の宗教にマインドコントロールは含まれていてはいけません。それは洗脳ですから、カルトの特徴なのです。いかなる宗教もカルトも洗脳・マインドコントロールが含まれることがありますが、それは、全くの不祥事なのです。
 
またしても、楽山は、偽善カルトだけあって、含まれているのが当たり前のような、いい加減なことを言っています。マインドコントロールを狙っているのは、まさに、楽山です。
 
考える宗教と、思考停止のカルトを一緒にして、「宗教というものはカルトであろうがなかろうが、宗教である限りは」「多少はマインド・コントロール的な要素が含まれている」と言っている楽山の言は、全くの悪意の詭弁であります。
 
「若干のマインド・コントロールを受けた上でのもの」「本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた結論を出してしまう恐れがある」などと言って、宗教をカルトと同様に見て、巻き添えにしたがる楽山こそが、最も危険なカルト煽動者なのです。
 
ゆえに、楽山は、言論の世界から、一日も早く消えてほしい邪悪なエナジーバンパイアです。
 

物事を判断する際には、その中身をよく調べ、吟味した後にすべきだという考え方もあれば、第一印象などの直観こそが大事だという考え方もあり、そのどちらが正しい判断方法であるのかはそう易々とは決められないのではあるが、それでもやはりこの件に関しては、自分は一番初めの印象、直観をこそもっと信じるべきであったとつくづく思う。

 
「易々とは決められない」と言いながら、「自分は一番初めの印象、直観をこそもっと信じるべきであった」というほうを勧めてくる楽山の狡猾な刷り込みの詭弁にだまされないでください。底まで腐っている楽山だからこそ、出てくる悪質な誘導です。
 

人ははじめは奇異なものに感じたものであっても、じきに慣れるものであるし、宗教もこれと同じではじめは気味が悪いと思っても、じきに慣れてしまい何ともなくなってしまったりもするものだ。だからこそ、その宗教をはじめて知った時に、どう感じたのかは大切であるし、これこそが本来の自分の判断であるとして記憶にとどめ、決して忘れないということが大事なのだ。

 
宗教は慣れるものではありません。反省し祈り学習し成長するものです。今までも、繰り返された楽山の宗教蔑視と、おとしめの詭弁であります。根腐れの遠吠えです。
 
「はじめて知った時に、どう感じたのか」が大切で、それが「本来の自分の判断であるとして記憶にとどめ、決して忘れない」という楽山の破滅の様式です。その通り、破滅しつつあるわけです。そうではなく、その後の学習によって、深まってゆくのが宗教と信仰です。
 
カルト的な詭弁以外のことを、楽山は、何も言えなくなっています。
 
 
(2020年08月07日)
 
 
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