ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

考える信仰

 
  考える信仰
 
 
宗教そして信仰は
客観性を失わせるように見えるかもしれない。
 
というのは
信仰を知らなければ
まず信仰については語れない。
信仰者であれば
信じているのだから客観的には語れない
というような理屈になる。
 
しかし
ここには大きな勘違いがある。
信仰が
超常から日常まで教えられたとおりに
信じ込むことだという勘違いである。
 
キリスト信仰の場合
教えられるのは大方言葉であり
そのまま信じこんでも信仰にはならない。
キリスト信仰において期待されるのは
不変の悟りではなく
即ち言葉を鵜呑みにすることではなく
考えることである。
 
考えることには感じることが必要であり
感受したことについて考えるわけだから
そこには
正直に感じてしまう疑いというものがある。
 
疑いを気合いで排除するのが信仰ではない。
それはカルトのやることである。
 
それを含めて考えることが信仰である。
したがってキリスト信仰が
人生を縛ることはなく
むしろ人生の知情意の活性を促進するからこそ
私は信じているのである。
 
キリスト信仰は
神を絶対とするが
神を人は詳細に知りえないので
神を信じるということは
人が自らを相対化することでなければ成り立たない。
 
したがって
人が教えられ覚えた言葉である信条を
絶対化することは
即ち信仰を絶対化することは
背教である。
 
信仰の相対性については
既に言われてきたことだが
何故か、絶対でなければ、絶対でなければと
思い込んでいる人が少なくない。
 
神の絶対を人が負えるかと聞かれて
負えると、また、負うべきと言う者は
少なくとも勘違いしているか
最悪の場合、背教者である。
 
人が信じる総てのものは
いつも絶対ではなく相対的である。
人は不完全で罪深いということを自覚しているなら
当たり前のことである。
 
そうでなければ
悔い改めの祈りなど意味がなくなるだろう。
 
私たちキリスト信仰者が
折に触れて正直に告白して
悔い改める
即ち祈りにおいて
神との関係を新しくしていただくのは
まさに私たちが
心貧しく不完全であることを
正直に認めて
神に憐れんでいただくためである。
 
自ら信仰を絶対として
神に対して讃美を豪語するような
偽善者になってはいけない。
 
私たちキリスト信仰者は
心の解放を受け取ったのだから
信仰についての疑問も含めて
よく感じ、よく考えて、折に触れて正直に祈り
反省し学習し成長することが期待されている。
 
 
ゆえに
楽山がボンヤリ言うような
またシャロームが豪語するような
信じ込むことが信仰であるという固定観念
全く信仰を知らない偽善者の言であり
この二人は信仰について
何も知らずに言い張っているだけである。
 
 
(2020年08月11日)
 
 
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