ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の無理の路

 
  楽山の無理の路
 
 『シルバー・バーチの霊訓(一)』
 アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳
 2020年08月11日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25843065.html
 
 
楽山は、だらだらと長い記事を書いてきました。内容は、殆ど空疎であります。自慢と、指摘しても執拗に、飾りのように貼りつけて文脈から浮いている謙虚芝居のトホホ言語と、整わない理路と、欠落した高等感情を見ることになります。
 

*シルバー・バーチの霊訓
最近、スピ系のツイートを見るようになったせいか、にわかにその方面への興味が復活してきたので、

 
以前から、楽山は、霊が分かるっぽい自覚だけの人です。人間について学ぶことを疎かにすると、人間離れ、現実離れして、楽山のようになるのでしょう。
 

『シルバー・バーチの霊訓(一)』を読んでみた。ものの考え方だとか、人はいかに生きるべきかという話には、思わずハッとさせられる箇所があって面白い。

 
人はいかに生きるべきかということを、霊訓?から学ぶのだそうです。自分で考えることはできないのでしょうか。一気に分かったことにしたい欲望なのでしょう。
 
スピリチュアル、即ち、霊から得たものだから悦んで信頼して、人からの言葉は信頼できないのかもしれません。怪しさのランキングが逆になっているようです。
 
恐らく、自分も霊能者という自覚があり、霊が分かるっぽいから、霊でないと信じない、になっているのかもしれません。努力をしたくない人間嫌いの特徴なのでしょう。
 

年を取って感性が鈍ったせいもあってか、

 
元は感性が鋭かったかのような書き方です。
 

今はもう霊がどうしたこうしたという話にはさほどリアリティは感じなくなったのだが、

 
昔は、霊がどうしたこうしたという話にリアリティを感じていたのでしょうか。気味の悪い人です。良心的なスピリチュアルは、人間を見ることを忘れないでしょうに、霊にばかりこだわってきた楽山には、良心も見られず、習い覚えた感性の名残も見られないのです。
 

人生論だとか、価値観の話には今でも心を動かされるというのはうれしい。
そんなわけで、今回の読書でハッとさせられた部分について書いておきたい。

 
楽山は、人生論と価値観とスピリチュアルが、同質になっているようです。怖いことです。
 

*ものごとには時期があるということ
まず本書では、霊的な思想を他人に押し付けてはいけないということが繰り返されているの印象的だ。

真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。
(『シルバー・バーチの霊訓(一)』アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳、潮文社、平成3年、p.55)
無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。
(同上、p.35)
 」
実をいえば、以前の自分はこのことが全然分かっておらず、とある新興宗教の影響を受けて、真理を受け入れない人がいると、下根だとみなしていたのだった。

 
(ネットより)
げ‐こん【下根】 の解説
《「根」は本来の性質の意》仏語。教えを受ける性質・能力が生まれつき劣っていること。仏道を修行する力の乏しいこと。また、その者。下機 (げき) 。下機根。→上根 →中根
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B8%8B%E6%A0%B9_%28%E3%81%92%E3%81%93%E3%82%93%29/
 
楽山は、自らの思想を押し付けるのではなく、もっと邪悪なほうを選んで、自らの思想を詭弁によって執拗に刷り込もうとしてきたのです。私のブログに、いっぱい書いてあります。
 
楽山は、今までの経過から、他者を下根と見なしていたが、自らに、下根を当てはめる、罪や偽善を当てはめる、ということがないようです。評論家気取りの文章で、他者を見下ろす姿勢は、今も変わりません。自己愛の傍証であります。
 

でもさすがに今はもういい年なので、

 
反省は、いい年だからする、というものではありません。若いときからの積み重ねであることが、全く分かっていないようで、相変わらず、いい加減なことしか言わない楽山です。
 
書けば書くほど、いたるところに、自己愛、慢心、いい加減さが、漏れ出てくる楽山です。
 

そんなことは思わず、シルバー・バーチと同じ考え方になってきている。霊的なことを受け入れない人がいたとしたら、その人にとってその時期が来ていないか、はたまたその人の個性に応じて他の方面での役割があるということなのだ。下根だとか、上根だとかとは別のことだ。

 
詭弁を弄してきたことに、何の反省もないほどに悪質な楽山です。しかも、責任逃れにシルバーバーチを利用しています。
 
時期が来ていない、個性に応じて、という言い方は、いい加減で、思いついた体のいいことを書いただけだと思います。楽山は、恐らく、真摯に反省することができない人だろうと思います。
 

*真理の独占?
 これは耳に痛い言葉だ。

人間はとかく自分のかかわった組織や団体にのみ霊力が顕現されているかに錯覚しがちですが、霊力というものは何ものによっても独占されるものではありません。
(同上、p.79)
 」
いつも書いている如く、かつて自分はとある新興宗教の信者だったのだが、その教団ではまるで自分たちが真理を専有しているかのように主張していたのだった。

 
楽山が、今、霊力を占有しているつもりがなく、本当に謙虚であったなら、批判を無視することはなかったでしょう。シャロームに無条件賛同もしなかったでしょう。またしても、邪悪な作為です。
 
楽山の、昔は専有、今は違う、という嘘を、楽山のしてきたことが否定しています。行為の履歴に、言論の嘘が表れる例でしょう。
 

教団の創成期のうちは、他にも真理にかなった教団はあるとして、他教団にも一定の敬意を払っていたのではあるが、じきに当教団の教えは最高、最大、最強であって、天上界の高級諸神霊も当教団に集結しているとして、まるで自分たちだけが真理を独占しているかのような主張をするようになり、自分はそういう教祖、教団の主張を信じて、他宗教を低く見ていたわけである。これは今となっては実に恥ずかしいし、自分史としてはまさに黒歴史である。とほほ。

 
ならば、キリスト教への、難癖、いちゃもん、一方で、ほめ言葉、そして、今、他宗教を低く見ていた、などと言う、ばらばらの反省は芝居でしかありません。黒歴史、とほほ、これも嘘、そのまま、謙虚芝居のトホホ言語です。そして、現在の自分を正当化する手口です。
 
楽山の言は、粘着して収まるところがないようで、このことが、楽山の、他者を見下ろす自己愛と自己顕示の無反省による訂正不能なのです。しかも、しつこく何度も、自分を出して、グリグリと押してくるように繰り返すのは、サディスティックな体質の表れなのでしょう。
 

*善と悪
これは勇気ある発言だ。

私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。
(同上、p.83)
 」
悪を捨てて善を取れ、闇から離れて光を求めよと説くのは、ある意味、楽である。これなら多くの人々が納得できる話であろうし、余計な波風も経たず、面倒がなくてよい。
でも、善と悪、光と闇、神の絶対性などについて思案すれば、ことはそう単純でないことはすぐわかるし、上のような考えに行き着くのも道理ではある。
こういうところは、シルバー・バーチの霊言は、単純な二元論を語るそこいらの新興宗教よりも、よほど思想的である。

 
善を勧め、悪を離れよ、というだけの説教は、はっきり言って、何も言っていないのと同じです。そこに、人間の闇の部分を考察しなければ、空疎で幼稚な説教であります。
 
しかしながら、楽山が単純ではないと言っても、楽山は、単純ではないところを一度も説明できたことがありません。逆説的な香りに、興味本位の原始反応で言っているだけなのです。
 
それが、自己愛からの自己顕示欲という、自分を否定できない者の宿命なのです。そして、実質を持った深さも示すことのないまま、資格も能力もなく、霊言を褒め讃えているのはカルト性です。
 

*愛と利己主義
 この言葉は、霊界における霊たちが、地上の人々の手助けをしたく思うのは、利己主義と言われればその通りかもしれないという流れからの発言である。

愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。
(同上、p.96)
 」
自分がこの種の考え方を知ったのは、マーク・トウェインの『人間とは何か』でだった。その中では人はどんなに世のため人のためと思って行動したところで、しょせん利己性からは逃れられないとしていた。
たとえば仮に、ある人物が人のために自分の命を捨てた場合、傍目には何の見返りも求めず、人のためにわが身を捨てた純粋な利他行為に見えたとしても、実際にはその出発点には自分の命を捨てでも人に尽くしたいという自己の願望があり、純粋な利他行為とは言えないという論法である。

 
利己主義というのは、ふつう、自分の利益だけを求めるものです。楽山は、命を捨てる、つまり、そこで、いっさいの、物質的精神的利益が終わる行為を、同じ利己主義と見なしたいようです。
 
利他の願望は、その人の願望だから利己主義と言いたのでしょうか。どういう理路なんでしょう。何でもかんでも利己主義にしたいのでしょうか。論法になっていない。
 
愛が我がままで自己中になりやすいとしても、利益や報酬を求めない行為であるならば、利己主義とは区別されるべきです。楽山の言うことは、成り立ちません。
 
恐らく、楽山は、深みのある高等感情を理解できないために、無償の愛を理解できず、ゆえに、利他ということが分からないのだと思います。
 

多くの新興宗教では、世のため人のために生きましょうということは言っても、その根底に潜んでいる利己心まで暴きたてることはないので、シルバー・バーチの霊言はここでも並の宗教よりよほど深いものがある。

 
呆れるのは、楽山は、自らが、自己愛、自己中からの、無反省、訂正不能、という、少なくとも精神的な、利己主義者だということに、全く気づいていない、ということです。
 
自己愛性は、常に自己を高めようとする欲望によって酔っていますから、利己主義なのです。
 

ちなみに竹内均は、上の現実を承知した上で、利他的利己という生き方を推奨していた。人は利己的な生物だとしても、自分だけがよければ他人のことはどうでもよいというのではなくて、自も他も幸福になる道を目指そう、他を幸福にすることが結局は自分の幸福にもなるという考え方だったかと思う。
自分としては、見返りを求めない無償の愛を実践しようというのはいささか理想主義的に過ぎて現実離れしているし、他をかえりみずに利己的に過ぎれば結局は他だけでなく自分も傷つけるだけになろうし、この利他的利己という生き方が最も現実的であり無難な指針であると思う。

 
利他を理解していない楽山の言う利他的利己とは何でしょう。どこが現実的で、どこが無難なのでしょう。「過ぎれば」云々・・と言っていますが、どうやって過ぎたと分かるのでしょう。基準が書いてありません。とても大事な問題を、いい加減な結論で済ませて満悦している楽山です。
 
相反する意味を持つ言葉の字面を、よく考えもせず安易に合成しただけではないかと思われます。洞察のない者は、言葉を勝手に結びつけて満悦するという特徴があります。
 

*真理を押し付けないこと

これも自分には耳に痛い言葉だ。
自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。
[省略]
私どもは改宗を求める宣教師ではありません。真の福音、霊的実在についての良い知らせをおもちしているだけです。
(同上、p.118)
 」
とある宗教の信者だった自分は、教祖の伝道せよ、伝道せよ…という掛け声に従って、周囲の人々に宗教をすすめてばかりいたのだった。そんなに強引にすすめているつもりはなかったが、それでも周囲の人々からしたらさぞ迷惑なことだったろう。申し訳ないことをしたものだ。

 
改宗を勧める代わりに、楽山のやり方は、いちゃもんの詭弁によってキリスト教をおとしめる、という、実に嫌らしい手口です。決して関わらないでください。
 

でも今にして思えば、この教祖は、他人の心は変えられない、変えられるのは自分の心だけだと説きながら、伝道、伝道…と繰り返していたわけで、これはどうも矛盾しているように思える。

 
キリスト信仰の福音伝道は、良き訪れを伝えるという意味であり、変わるのは本人であります。つまり、楽山の「伝道、伝道…と繰り返」す、ということは、「変えられるのは自分の心だけ」と矛盾しないわけです。HSか何かの批判をしている体で、宗教全体を否定したい楽山の狡猾な婉曲表現でしょう。
 

他人の心は変えられないといいつつ、他人に信仰を持つように改心を迫れというのは、おかしな話だ。

 
伝道ならば、伝えることであり、迫ることはないのですから、矛盾ではありません。楽山は、言葉の勘違いが多くて、言っていることが、一般的な言論としては、的外れになってゆきます。
 
反省と学習を怠ってきた楽山は、気取りのために、いつも、言論の理路が、ふつう未満で、足りないと感じます。とても迷惑です。こういう人が、無反省と訂正不能になっているわけですから、及ぼす悪影響も計り知れなくなるので、批判を続けています。
 

他人の心は変えられないと承知しつつも、啓蒙活動も怠らないというのなら分からなくもない。でも他人の心は変えられないと説きつつも、大きな危機が迫っているとして、急いで人々に改心を迫れというのは無茶だし、終末論で煽るカルト臭が強烈にすぎる。

 
むしろ、脅しながらの、救われ妄想信条に、惑わされないことが大切です。楽山のような詭弁と刷り込みによって、霊が分かるっぽい自己愛を満たそうとする悪魔性も、カルトと同じような対処が必要になります。
 

この辺りのおかしさに気づけなかったのは、自分の子供時代には、ノストラダムスの大予言ブームがあり、終末論にさほどの違和感を感じなくなっていたことも原因の一つになっているのかもしれぬ。

 
今度は、ノストラダムスのせいにしています。本当に、自分の責任を認めない楽山です。くれぐれも、上のほうの、反省、トホホ、などと言う芝居に、だまされないでください。
 

*信仰者と無神論
前の記事で書いたように大川周明の『安楽の門』では、何を信じるかではなく、いかに信じるかが大切だとしていたが、シルバー・バーチも同じような発言をしている。

祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。
(同上、p.171)
 」
以前自分が信じていた、とある新興宗教では、無神論者や唯物論者は地獄に堕ちるとしているが、このシルバー・バーチの発言が真実であるとすると、ことはそれほど単純ではなさそうだ。

 
まず、楽山が書いているような「〝選ばれし者〟の一人になったと信じている」なら、その人は信仰者ではないということです。
 
「とある新興宗教では、無神論者や唯物論者は地獄に堕ちる」・・無神論者や唯物論者は、地獄を信じているのでしょうか。腹いせのような言葉です。言うだけ無意味なことのように思われます。
 
そして、楽山は、単純ではなさそうだ、という言い方しか出来ません。それも、そのはずで、楽山は、他者の意見を字面だけ利用して、心を受け取ることが出来ないのです。楽山にとっては、自他の総ての言論が、霊が分かるっぽい次元の、遊びごとに過ぎないのだろうと思います。
 

特定の宗教を信じ込んでしまうと、この宗教を信じる者は救われるが、この宗教を信じず、否定する無神論者や唯物論者は地獄に堕ちると思いたくなることもあろうが、それは公平ではないし、スピリチュアリズム的な真理にかなったものの見方でもないのだ。

 
まだ地獄のことを言っています。公平ではない、というのは、単純すぎる言葉です。スピリチャアル的な真理、という言葉は、信じる者だけの不思議言葉です。この二つをあっさり並べてしまうところに、楽山の、いい加減さが、また、表れています。説明と根拠が無さすぎるのです。
 

そういえば、とある国民作家は、高僧とされる僧侶と幾人もあったことがあるが、そういう人々よりもむしろこの道ウン十年という職人さんの方が立派な人格を持っていると感じることが多い云々と言っていたそうだ。

 
とある国民作家とは誰なのでしょう、楽山は書かないのです。そして、高僧という言葉で宗教を代表させ、職人さんのほうが立派な人格と、例示の印象による刷り込みの手口です。汚らしい。説明と根拠が無さすぎるのは、楽山が、説明も、根拠の提示も、できないからです。ずっとそうでした。
 

人の霊性というものは、信仰、思想、主義、職業、立場などの表面的なことだけでは分からないものであるし、それだけで分かったつもりになるのは差別主義者くらいのものなのだろう。

 
楽山は、表面的なことに、信仰と思想を含めていますが、どうでしょう。また、職業というのは浮いているように感じます。これらが表面的だと言いたいのでしょうか。それとも、これらの表面的な部分を指して言いたいのでしょうか。
 
理路が、言葉の選択が、曖昧で、いい加減で、書いときゃいい、という表面しか持たないのは、楽山のほうです。冷静に書いているように見せかけていますが、こういう理路は、乱暴者の特徴なのです。
 
共通の理解があるわけでもないのに、楽山は、何をもって、表面的と言えるのでしょうか。何も説明がありません。思いついた言葉を、また原始反応で、よく考えもせず、貼り付けて、言い得たと満悦するのでしょうか。
 
一方、楽山という人について言えば、確かに、自己愛のために、表面的にしか受け取っていないと思います。ゆえに、そういう表面だけで、あるいは、表面という言葉の字面を書くだけで、分かったつもりになり、何やら気取りになるのが、ずっと、楽山の特徴です。
 
本当の信仰者は、分かったと決めつけることなく、人の話を聞きます。むしろ、聞きたいので、ネットを巡ったりもします。そして、切り捨てることなく考えてみます。その上で、分からないことと分かることを分けてゆくのが考える信仰です。
 
もちろん、百害あって一利なしの、楽山やシャロームなどの悪意ある詭弁は、見るたびに、良きものは何も伝わってこないし、無駄に疲れるだけなので、ある段階で、まともに相手にしてはいけないと判断することになります。
 
「差別主義者」とは、どういう差別の意味で、楽山は書いたのでしょう。差別されたと言いたいのでしょうか、何かの種類の人物を指しているのでしょうか、特定の人物を指しているのでしょうか。
 
楽山は、説明もなく書いて、丁寧語を使っているだけで、自らを、丁寧な人のつもりでいるのです。
 
説明はしない、あるいは、できないのに、そういう者が、「分かったつもりになる」のは傲慢だから、批判され、否定され、退けられるのです。そういう楽山に近づいてはいけません。
 
何を言われても、何も返せないのに、高慢な自己愛ゆえに、なおも居座って、そこから、見下ろしながら、まともなつもりで、ひどい文章を書いて公表し、ごまかしに、トホホ言語で、謙虚芝居をするのが楽山です。
 
 
相手が、例えば、コメントの遣り取りなど、具体的にいるかどうかにかかわらず、
 
自分が書いていることの説得力を意識するとき、その文章には、双方向への努力が生まれています。
 
自分の言い分を書くだけなら、説得力を意識せず、その文章は、単方向の自己満足にしかなりません。
 
 
(2020年08月12日、同日一部修正)
 
 
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