ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

いちゃもん(再録+)

 
  いちゃもん(再)
 
   とこしえの御座 (詩編9:8)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41564781.html
   楽山のブログ。
 
 
楽山は、まじめに読んでもいない聖書に苦情を言っています。
 

主は裁きのために御座を固く据え
とこしえに御座に着いておられる。
(詩編9:8)

 
詩篇9:7のようです。
 
 (詩篇、口語訳)
9:5
あなたはもろもろの国民を責め、
悪しき者を滅ぼし、
永久に彼らの名を消し去られました。
9:6
敵は絶えはてて、とこしえに滅び、
あなたが滅ぼされたもろもろの町は
その記憶さえ消えうせました。
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
9:10
み名を知る者はあなたに寄り頼みます。
主よ、あなたを尋ね求める者を
あなたは捨てられたことがないからです。
 (詩篇9:5-10、旧約聖書
 
このように、裁きと救いの聖句です。
しかし、楽山は、永遠にこだわっているようです。
 
聖書の文脈を読まないで、
気になった言葉だけで考えているようです。
 
そういう自分を反省することなく、
聖書に文句を言うのでしょうか。
 

以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。
でも近頃は、
そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、
ふっと気が遠くなるような心持ちがする。

 
けっこう好きだった・・という趣味では聖書は語れません。
圧倒されて・・というのは、どうやら、感動ではなく、
気味が悪いという気持ちに近いようです。
また、信仰を、おとしめるつもりでしょうか。
 

たとえば、とこしえという時間は、
宇宙の百倍の大きさの石があるとして、
一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、
すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。
そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、
あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。

 
聖書の、とこしえ、という言葉は、
物理的な時空で語れないのは当たり前のことでしょう。
 
楽山の、信仰に対する、いい加減なスタンスからは、
めまい、というのは、嘘だと思います。
また、信仰を、おとしめるつもりのようです。
 

また、人が永遠の命を得たとしたら、
そういう時間を生きることになるのだろうし、
これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。

 
足下がふらふら、怖い気がする、嘘だと思います。
信じるかどうかは、自由ですが、
信じてもいないのに、いちゃもんをつけるつもりのようです。
 

そんなわけで以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、
最近はどうも、そういうことは想像することさえ躊躇してしまう気分になってきている次第である。

 
とこしえ、永久、永遠、という言葉だけに、何らかの興味を持つ
という、少年の興味から、卒業しないまま、
想像できないから躊躇してしまうほど気分がよくないと言って
暗に、常識的想像では、信仰は成り立たないと言いたいのでしょうか。
 
このように、反信仰者は、暗に、ほのめかすことによって、
信仰をおとしめ、その印象を吹き込もうとするのです。
 
いい加減な読み方しかしてこなかった自分について、
何の反省もなく、軽口で言ってしまいます。
 
結局、何が言いたいのかが、わからないほど、
記事を、ボンヤリ言語の弊害で満たしています。
 
はっきり否定せず、肯定せず、しかし、
否定的な印象をすり込んでゆくのでしょうか。
この記事、書く必要が、どこにあったのでしょう。
 
そう感じるから、そう書いた、というのでしょうか。
そう感じたなら、そう書く前に、考えるべきです。
 
ふつうは、いい加減な読み方をしたという自覚があれば、
いちゃもんは、遠慮して、書かないものですが、
楽山は、自尊第一で自分の合理化の意味付けのために、
考える前に、自己中のクレームを書いてしまうのでしょう。
 
考えもなく、欲求のおもむくままにするのは、
欺いてばかりだったことがもたらす災いとして起こり得ます。
 
まっすぐ問題に取り組む姿勢をなくしてしまったからでしょう。
ピンと来なくなり、感動できなくなり、不快になるのです。
 
それは、すでに、心と理路の秩序を失っているところの、
シャロームの、讃美噴射とボロクソ節に表れているのです。
 
キリスト信仰は、教えられたことを鵜呑みにして、
同じことを唱えると褒められるカルトとは決定的に違います。
 
 
キリスト信仰は
訂正不能になった者たちには決して分からないのです。
彼らは既に分かったつもりでいるからです。
いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになっているからです。
 
 
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、
神の前に、分からないことを分からないと言う正直さが基本です。
 
 
(2019年08月13日)
 
 
補足:
 
楽山の、いちゃもんです。
聖書の短い聖句だけを引用して、前後の文脈など、お構いなしに、
はっきり言って、子供のような、いちゃもんをつけているに過ぎません。
 
「ふっと気が遠くなるような」「めまいがする」「ふらふらしてくる」
などと、山の上から景色を見ているような書き方をするのは、
聖書の伝えようとする意味を、分からないのではなく、
わざと、日常感覚の言葉を使って、的を外し、
読者を聖書的な意味への道から遠ざけようとする意図があるからでしょう。

 
つまり、上の去年の記事本文に書いてある言い方は、
キリスト教って、おかしいね、という、刷り込みであり、
この、ふざけた書き方によって、感想ではなく、作為の揶揄だと分かるのです。
 
楽山は、いつも、一見、ふつうに感想を述べているように見せかけます。 
一見、ふつうに見せる、これが、楽山のボンヤリ言語です。
 
しかし、実際は、反信仰、反宗教、反キリストの楽山の企みであり
ここでは、キリスト信仰の言葉を、あざ笑っているわけです。
 
キリスト信仰は
訂正不能になった者たちには決して分からないのです。
何故なら彼らは既に分かっているつもりでいるからです。
いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになっているからです。
 
正直に祈る心を持たない者は、自己顕示するしかないのでしょう。
しかし、聖句を、からかっても、何の解説にもならず、
意地悪にヘラヘラ笑っている姿をあらわにするしかないという例です。
大人の児戯は、醜いものです。
 
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、
神の前に、分からないことを分からないと言う正直さが基本です。
 
信仰者が
神の前に祈るとき必要なのは
そのとき精いっぱいの正直さだけです。
 
それしか神には通じないことを、楽山は知る由もなく
神聖を侮(あなど)り、低め、笑いながら、
結局、自分の高ぶりだけを表すことになるのです。
 
 
(2020年08月13日、補足、同日一部修正)
 
 
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