ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

当たり前?(改)

 
  当たり前?(改)
 
   当たり前のこと
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41568495.html(ヤフー終了)
   http://mn266z.blog.jp/archives/20450441.html
   楽山のブログ記事。2019年08月17日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、いろいろ難しい専門用語を並べて学者気取りの記事を書いたりする一方で、今回のように、一年ほど前の記事ですが、小学校の道徳か、と思うようなことを書いたりもします。
 
そういう芝居がかったことをしながら、楽山は、去年の今回の記事を載せた頃、ヤフーブログで、真面目に書いたコメントなのに、都合が悪ければ未承認のままにして隠すという当たり前でないことをしていたのです。
 
自分に対するところの、恥ずかしい、未熟だ、当たり前すぎる、言って何になる、という直感が楽山にはないために、無反省に訂正不能に、自らの慢心を芝居がかって出してきます。
 
反省しないために、修正・学習・成長がなくなると、書く文章が障害を表すことになります。こういう人は、例えば読書をして、他者のことを褒めても、都合がよいと思う判断だけですから、成長に結び付きません。
 
その後、最近の記事などには、しばしば、ごまかすために、見せかけの、反省、トホホ、という言葉の字面を並べるようになりました。しかし、反省と書いた前後で、何も変わっていないのです。
 
そういう、反省と書いておけばいい、というような、気安い作為で、自らの自己愛性には気づかないで、今も、分かっているふうを装い続けています。どうしても我を張りたいだけなのです。
 
この一年余りで、記事の実質は、ますます思想の内容が乱暴になって何も改善されていない、という経過になり、ますます、実質のない文章であることを自ら証明してしまう始末です。
 
当時も批判しましたが、
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12508687175.html
今読んでも、楽山の、わざとらしい台詞が気持ち悪いので、改めて補足して再録しておきます。
 

当たり前のことを
当たり前に
できるようになりたい
と思う。

 
できるようになりたい、とは、当たり前にできていなかったことを認めるのでしょうか。
しかし、少しも変わっていないようです。
 

人と会ったら、
こんにちは、
と挨拶する。

 
挨拶するのですね、礼儀として。
普通の人でも、挨拶ですから、誠心誠意とは限りません。
しかし、楽山には、真実より、大事なことなのでしょうか。
大人に対しては、社交の世辞の勧めにしかなりません。
 

何かしてもらったら、
ありがとう
とお礼をする。

 
小学生向きだが、今までのことから、世辞は言っても、
してもらった・・という気持ちは、厚顔のおっさん、楽山にはないような気がします。
 

まずいことをしてしまったら、
すみません
と謝る。

 
これも、小学生レベルの説教のようです。まずいことを続けながら、楽山は、謝りもせず、訂正もせず、自己中を継続してしていて、その上で、こういうことを書いてくるという悪質であります。
 
楽山自らは無反省で訂正不能でいて、他者に対しては、上のようなことを言っています。基本的に、彼ら、楽山と偽善者シャロームは、本気で謝罪する気など微塵もない者たちです。
 

こういう当たり前のことを
当たり前にできてると、
自も他も、
余計なストレスなく、
平和に生きられるからいい。

 
当たり前のことを、当たり前にせずに、にもかかわらず、砕けた言葉をわざとらしく使って、当たり前のこととして勧めているのです。その狙いは、自らのカルト思想であり、自らを高めることであり、薄汚く、決して当たり前の精神ではないことばかりでした。
 
こういうやり方で、超常のことも吹聴して、気に入らないことを無視する一時的な気楽さを勧めて、結局、自己中を勧めて、ストレスを排除して、安穏に生きるのが楽山の楽なのです。実際は、人生の落伍者が、腹いせに見栄を張っているだけなのです。
 
楽山は、当たり前のことが出来ない人です。自分独りの、根拠のない多幸気分で書いています。社交の世辞以外には、謝罪も、その元となる反省も、罪悪感も、全く持っていないということを強調しておきます。決して関わらないでください。楽山は、思いやりの欠片もない冷血漢です。
 

若い時は、
当たり前のことを
偽善だといって
毛嫌いしたり、

 
楽山は、当たり前のことを、偽善だと言ってきたのでしょうか。
それだけでなく、今、楽山の、この記事が、作為の偽善なのです。
 
当たり前のことは、当たり前であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。当たり前が、そのまま、真実というわけではなく、当たり前が、偽善と限るわけでもないのです。そういう弁えもないまま、言葉をいじって書けば書くほど、ごまかしと偽善の作為が、かえって表れてきます。
 
偽善の問題こそ、二千年前、既に、キリストが指摘して批判した大問題だということに、何も気づかない楽山です。
 

当たり前でないことを
屁理屈言って
正当化したり
することもあったけど、

 
屁理屈、かたより、ひいき、月並み、短絡、自己正当化、そして、詭弁と嘘くさい芝居による誘導、それが、楽山の言論の特徴です。
 

やっぱり
当たり前がいいな。
平凡、普通というのが、一番いい。

 
受け入れないでください。今までの経過から、楽山は、自身のことを言っているのではなく、他者がそうあれば《都合が》いいと言っているのです。
 
楽山は、平凡でも普通でも当たり前でもありません。嘘吐きの三文芝居の詭弁家です。
 
楽山の作為は、他者への、印象操作と、詭弁と、臭い説教と、誘導と、刷り込みです。
この点、シャロームと、よく似ています。そのことから、成りすましを疑っています。
 
今読んでみると、楽山は、なんだか、相田みつを・・の真似でもしているつもりなのでしょうか。
 
まことに身の程知らずであり、背筋の寒さと痒みとともに、表れているのは、呆れるほどの、浅はかさと、白々しさと、言葉の真実に対する安易さと軽視と、わざとらしさ以外にはありません。深みのない者が、その自覚もなく、自己顕示欲で真似をすると、こうなる、という例です。
 
 
   手厳しい(スピリチュアリズム、波長同通の法則)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41569715.html
 
 
楽山の宗教観が、当たり前でないことは、今までも、いっぱい表れてきましたが、今回も、その例に漏れないようです。超常の霊とかが大好きで、それを当たり前だと自分に当てはめて満悦し、本当に当たり前の現実の日常を疎かにして、その結果を、つまり現実の自らの人格の鈍麻と破綻を、シャロームと同じように、身に受けていることに気づかない楽山です。
 

マリアさんは、なかなかに手厳しい。
・ひさしぶりに訪問履歴を見たら
https://blogs.yahoo.co.jp/magtaranomaria/43322465.html
自分は聖書の話はよく分からないけど、
当該記事は、スピリチュアリズム的なので、
書いてあることは、まずまず分かります。

 
スピリチュアルというのも、人間とか心理とかを見て判断しているサイトもあるようですが、霊感の要素が思いこみといっしょに強くなる場合というのは、超常信仰?になり、ひどくなればカルトになるでしょう。楽山は、スピリチュアルが、分かるのだそうです。さりげなく言うことに本性は現れているようです。
 
ネットのカルトである自称マグダラ・マリアのことを言っているようです。前に批判したことがありますが、結局、神の正しさと、人の信仰による正しささえも、区別できない彼らを、私は、キリスト教とは思えないし、批判に対して罵詈雑言しか返せない人たちなので、今のところは、相手にしていません。
 

そういえば、
スピリチュアリズムでは、
類は類を呼ぶ
波長同通
というようなことを強調してると思うけど、
最近は、
このことを、
つくづくリアルに感じるようになってきた。

 
これは、言うまでもないことですが、物理学の波長ではなく、根拠を示せない、楽山の、超能力としての、霊的?な波長ということです。楽山は、リアルに、霊感の波長を感じると言っているのです。
 
スピリチュアリズムの、類は友を、いや、楽山は楽山が似ていると思い込んでいるスピリチュアルの人たちを、自分もだと、呼んでいるのです。そういうことを、楽山は、波長同通?で、リアルに感じるそうです。楽山の直観力の乏しさを考えれば、嘘だと思います。
 
楽山の話には、魔術的、超常的なことがメインになってきましたから、この発言は、楽山が感じていると言っている霊的超常的なことをリアルだと思っていると受け取っていいのでしょう。随所に、怪しさが漏れ出てくる楽山です。
 

霊界の話を持ち出すまでもなく、
この世を見回しただけでも、
人と人との関係において、
共通点があれば親しくなり、
共通点がなければ疎遠となるようなので。

 
結局、楽山は、気に入ったことは受け取り、気に入らないことは、考えもせず、原始反応として、無視すると言うことです。疎遠ではなく、無視であり、かつ、婉曲的に、当てつけや、嫌がらせだけはしてきます。楽山は、稀に見る、とても陰険な人です。
 
アドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていた楽山は、その教えであるところの、気に入らないことは無視する、ということを、ずっと字面のまま文字通りに実行してきた人です。
 
楽山は、無視することを、スルー、ここでは、疎遠、と言っているようだが、同じです。字面を変えても、言いたいことは言うが人の言うことは聞かない、という体質は変わらず、真実の追求において、有害でしかありません。
 
人付き合いについての終わりの2行を、始めの2行の霊界の話に、さりげなく関連付けてくるところが、怪しい楽山の、霊界の話を持ち出せる自分、という自覚と自尊を表しているようです。
 
霊界の話を持ち出すまでもなく、ということは、霊界の話を持ち出せば、いったい、どんなことを言い出すのか、霊能者を自負するのだろうか、と思われますから、近づかないのが一番です。
 
楽山は、今まで霊的能力について書いてきましたが、「心の理論」という記事では、発達心理学の初歩的な理路を理解しないで、仏様の心が分かる霊感の話に、勝手に改造していました。
 
私は、超常にばかり関心がゆくと、日常の配慮や感じ方が正常に学習されないという危惧をいだいています。シャロームや楽山には、如実に、それを感じています。しかも、自己中心で、訂正不能になるので、元の人間性へ戻れなくなってしまうようです。
 
そういう意味で、楽山ブログは、公害だと思います。
 
例えば、シャロームや楽山のような、人間の豊かな情感が欠けている人は、えてして、自分を改善することより、超常の助けや超能力を欲しがるようです。
 
そして、それが手に入るといったことに関心があり、実際は得られない、もどかしさから、一気に、あるいは、妄想的に、得ているという自覚と自尊を、超常趣味で満足させようとするのでしょう。
 
例えば、霊、霊的何々、神、奇跡、など、超常のことを分かる、あるいは、分かったつもりで語る人というのは、自分が、一般の人とは違った特別なの存在であると思いたい人でしょう。それゆえ、人間と人間性そして良心を疎かにしやすいのです。
 
 
上の2つの記事で、楽山の書いていることは、小学生なら騙(だま)せるだろう、というような、次元の低いことです。わざとらしい三文芝居です。
 
つまり、楽山は、当たり前でしょ?、当たり前ですよね、という誘導の詭弁で、刷り込んできています。考えることが好きな人は、作為の芝居と台詞の、幼稚な企みだと気づくことなのです。真に受ける人はいないと思いますが、くれぐれも、楽山には、近づかないでください。
 
私は、楽山がレスしないからとか構ってもらえないからとかいう理由で批判を続けているのではありません。楽山が、おかしなことを書き続けているから、批判の必然が生まれるということです。
 
私は、楽山の詭弁と偽善の罪状を、今は、資料化するために批判を重ねています。
 
 
(2019年08月20日)
(2020年08月20日、補足修正して再録)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp (更新、コメント不可)
http://st5402jp.livedoor.blog/ (移行スピードは速かった)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html