ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー心理学(再録)

 
  アドラー心理学(再録)
 
楽山は、アドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていました。
去年の今ごろ書いた、私のこの記事は、楽山をモデルとしています。
実に、よく当てはまるからです。
 
 アドラー心理学(2)2019-08-24 00:01:46
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12510892257.html
 
 
ネットでの読み書きで判断したことを書いておきます。
 
表に出ているのは、アドラー心理学
という19世紀から20世紀に生きていた心理学者の名をとった心理学のことらしいです。
 
ネットで言われているアドラー心理学を、私は、アドラー教と呼んで、カルトとして批判しています。人格破壊につながるからです。
 
気に入らないことは無視しましょう、という教えがあります。
教えている段階で既に学問ではなく宗教です。
 
気に入らないことを無視するとどうなるか。
 
議論、さらには、真面目な話し合いが、成り立たなくなります。何故なら、こちらが言ったことの中で
気に入ったことだけ覚えていて、気に入らないことを無視しているから覚えていません。少なくとも話題が公平ではなく、好みによって取捨選択されて、偏ります。
 
ゆえに自分の都合だけに合わせて反論するが、全体の流れを考えていないので、力不足以上に、偏った言い分を通して、ちゃんと反論したつもりになる自己満足を愛する一種のナルシシズムとも言えるでしょう。
 
自己肯定感の勧めが流行っているので、アドラー教が受け入れられて広まる可能性を危惧しています。
 
こちらが言ったことの中で、都合の良いところだけしか話題にせずに、あとは、なかったことにしてしまうという乱暴な考え方です。
 
議論は、また、真面目な話し合いは、社交のお付き合いとは違うので、気に入らないことも、つまり不都合なことも、流れの中で話題となる必然があります。それらをすり合わせて、暫定的な結論や合意を見出すために進めてゆくのが議論や話し合いの進行ですが、それが出来なくなるわけですから、先ず、そのとき、議論も話し合いも成り立たなくなります。
 
残っているのは、社交のお付き合いだけになり、世辞、つまり、褒めたり、いたわりの言葉だけになるわけです。ということは、話が進まないし、結論も出ないのです。テーマについて深めることも掘り下げることも出来なくなります。
 
やさしいお人柄ですね、感謝、とかの、世辞の褒め合いにしかならないでしょう。
 
それがアドラー教徒の本心かというと、同意しているわけではなく、既に否定された異なる意見を、別の機会には、また執拗に書いてきます。否定されたことを無視して忘れているからです。そして、こちらの意見は聞かないで無視するわけです。言うには言うが、聞かない態度なのです。話はしても、真面目な話し合いは成り立ちません。疲労物質と喩えました。
 
話し合いが成り立たない、話が進まない、結論が期待できない、ということは、話し合いの相手にとっては、どこまでも実りのない疲労物質です。本人はどうなるでしょう。
 
自分の言いたいことを言い、他者の言うことが不快ならば聞かないで無視する、ということは、自分の言いたいことだけが蓄積されてゆきます。考える筋道が自分の都合と言う単方向に限られてゆき、視野が狭くなり、単純な短絡や詭弁が増えてきて、ワンパターンの思考が思路を占めてゆき、同じことを繰り返すだけの思慮の浅い人間になり、少しでも複雑な問題については、もはや、合意を共有することが出来なくなります。
 
つまり、結論が単純な、お決まりの話題に、短絡してゆく思路なのです。話し合い、人間同士の交流、特に、議論を、放棄することなのです。
 
アドラー教に従うと、不快な思いをしないで済むという主張ですが、その分、周りを、実に、不愉快にしてしまうわけです。不快を感じなくなる、ということは、不快な問題に対して乗り越えるすべを学習しませんから、不快に対する処し方や凌ぎ方を得ることもありません。不快は、総て無視、という無理を通す信念は、自他に対する圧力として蓄積されます。
 
原始的な逃避である無視を専らとすれば、複雑な感情の機微を経験せず、単純な快感だけになり、思いやり、気遣い、相手の身になる、共感、などが出来なくなり、結局は、感情、特に高等感情が鈍麻してゆくのです。表情が乏しく、ぼんやりして、躍動感のない人間になるでしょう。
 
思路の停滞と欠陥、感情の鈍麻と平坦化が現れ、進行します。
不活発なのに、物わかりが悪く、柔軟性がなく、自己主張だけが執拗な人間になるでしょう。
それを隠して自己正当化をするために、曖昧な表現が目立つことになり、その書き方が、バランスのとれた柔和さや中立なのだという勘違いが固定して常態化してゆきます。
 
自分勝手で、議論が苦手で、自分の言いたいことだけ言って、人の言うことは聞かない、という自己中心で、話が分からない人というのは、昔からいます。話の理路が分からず、整わない人です。そういう人が、話し合いの中で、不愉快にならないための、心理学風味の合理化をしているという便法かもしれません。しかし、間違っていると思います。しかも、それを万能のように信じ込むことから、とても迷惑なカルト信仰になってしまいます。
 
よくアドラーサイトを見てみると、結局は、
どうにでもなれ、自分が気にしなければ自分は楽なんだから、それでいいんだ、
という言い分になっているようです。自己中心絶対教と言ってよいでしょう。
 
それは、社会で生きる上で、他者の迷惑になるわけですが、
そういうことも、お構いなしだということです。
悪の勧めと言ってよいのです。勧めている人の気が知れない。
この国と社会に乱れと不和と争いを起こしたいのでしょうか。
 
 
誰でも、心を病みそうなほど、また、思い煩うほどには、考えても仕方のないことです。そういうときには、話し合いを保留し、思考を保留すればよいのです。
 
つまり、そのとき、結論に至らなくても、保留することで、捨てていない分だけ、何らかの記憶として残り、別の機会には対応できる可能性が残るようにすれば、視野を失わずに済むでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:34、新約聖書
 
思いわずらうことなんて一生なくなる、とは書いてありません。
 
生きていることには、一日一日があり、明日があるのです。
今日のうちに、明日や先のことまで苦しまなくてよい、という教えです。
 
未知の明日が与えられるのに、一生を決めつけてはいけない、という教えでもあります。
信仰は、いつも安穏でいられる境地ではなく、未知は未知として、
人間らしい意志と思慮と情感をもって、耐え忍びながら、学習と成長を期する賜物です。
 
それが面倒臭くてしないか、できずに、短絡して無視してしまうことを生き方の万能薬としてしまうのが、アドラー心理学というよりアドラー教カルトなのです。
気に入らないことを無視して、自己中心の安穏を得て生きることは何の意味を持つでしょう。自己中心は、身勝手ですから、いつか必ず衝突します。まるで、今、せっせと、火薬を、ため込んでいるようなものなのです。
 
 
楽山は、アドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていました。
去年の今ごろ書いた、私のこの記事は、楽山をモデルとしています。
実に、よく当てはまるからです。
 
忘れないうちに再録しておきます。
これからも繰り返し載せることになりそうです。
 
 
(2019年08月24日)
(2020年08月24日、再録)
 
 
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