ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の無感情

 
  楽山の無感情
 
 怒れない人(ツイッター
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25971554.html
 
 
楽山は、前にもまして、とても気色の悪い記事を書いてきました。
怒らないこと、怒れないこと、というのは幸いでしょうか。
 

ブックマークしておいたツイートを見返していたら、次のツイートがあった。
2020-08-20 (7)怒れない人
https://twitter.com/badassceo/status/1294464140715540480

 
怒らない人=他人に期待も興味もない人、と書いてあります。まさに、楽山であります。
 

自分で言うのも何だけども、自分にはここで指摘されているようなところは確かにあるように思う。ただ自分の場合は、怒らないというより、怒れないという色合いが濃い。

 
嘘です。怒らない人であってもなくても、まともな人であれば、楽山のような、ねちねち当てつけめいた、いやらしい記事を書くことはしないでしょう。
 
楽山は、怒れないのではなく、怒りが、怨念として溜まり、それを、ボンヤリ言語の婉曲表現で放出して、腹いせとしているような、陰険な人だということです。それ以上ではありません。
 
それと、自分のことを、色合いが濃い、などという表現しますかね・・。ふつう、色や、物事など、外から見たものについての表現のようですが。
 
特に、楽山は、自分を客観視など、全くできない人なので、不適切な印象が強くなります。このように、語彙の使い方が、自己中の無反省になると、ピント外れ~誤用になってくるのです。
 

たとえば、「義人無し、一人だに無し」という言葉が常に頭にあるせいか、正しくないことをする人がいたとしても、「まあ人なんてそんなもんだよな」と納得してしまうし、

 
聖書の言葉を「そんなもんだよ」で済ませてしまう楽山です。納得ではなく、浅はかな短絡的皮相の安易さが表れています。
 

人は生まれつきの性質と環境によって支配されていると思えば、「この人はそういう風にしか生きられないのだろうから文句を言ったところで仕方ない。出来ないことを求めたって無理だし、かわいそうだ」とこれまた納得してしまう。

 
全部、そのように理解しているなら、何も書かなくていいはずです。というより、書くことに恥ずかしさを覚えるはずです。
 
楽山に、恥の感情が見られたことはなく、今までの記事の流れの中で、字面の反省と謙虚は芝居だということが明らかになってきました。批判されても無視して、厚かましく自己を出して正当化してゆく姿勢は、納得ではなく、我執と、高等感情の鈍麻による、これも安易な短絡です。
 

ドーキンスの「利己的な遺伝子」を読んで以降、人が利己的であることに驚かなくなったというのもある。

 
これは、楽山が、本の中から、自分に都合の良い言葉を漁って拾ってきて、自己正当化に悪用しているだけなのです。利己を図るのは人間ですから、利己的な遺伝子の、"利己的" は、比喩的表現だと思いますが、それを、利己的な人と同じ扱いで語るのは、楽山の理路の破綻を示しています。ひどくなっています。
 

ひどく利己的な人がいたとしても、それはその人の心掛けの問題というより、そういう生存戦略によって生き延びてきたし、生き延びようとしてる遺伝子の故なんだろうし、このことはその人にはどうにも変えようがないんだろうと同情しておしまいとなる。

 
楽山は、しんみりした情緒や深い感情がないので他者に同情も共感も出来ないと思います。言い訳がましいことしか言えなくなっているようです。「同情しておしまい」というこのお気楽が、楽山の字面作文の短絡のエネルギーなのでしょう。
 
利己的な人に対して、"遺伝子の故"?だろうと同情するなんてのは、嘘だけでなく、短絡も甚だしく、異常です。楽山は、おしまいに近づいているのでしょうか。
 

そういえば釈尊も人は利己的なものだと喝破していたのだった。

どの方向に心を心で捜し求めてみても、自分よりさらに愛(いと)しいものはどこにも見いだされない。そのように、他人にとってもそれぞれの自己は愛しい。だから、(自分を愛するために)他人を傷つけてはならない。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-464.htm
 」

 
自己愛と、利己は、直感的に区別しなければならないと思います。どう使われているか、という常識が、楽山には無いということが分かるでしょう。自己愛は、多かれ少なかれ、誰にでもあります。利己は、利己主義と結びついて、いい意味に使われることは少ないだろうと思います。
 
楽山は、前にもありましたが、似て非なるものを、並べて同一のように扱い、それをもって、自己正当化を図っています。
 
自分を愛するために他人を傷つけてはならないという教えのようですが、楽山は、それで、自己中の利己主義を正当化できると思っているようです。人格破壊が進行してます。
 
楽山は、平気で人を無視して、平気で嘘をついて、平気で仲間ぼめをしている人で、釈尊の喝破とは、対極にあることに、平気で気づかないでいられて、さらに、自己正当化のために釈尊を悪用しています。どの宗教にとっても、有害であることは明らかです。
 

ただし釈尊は人は利己的な生物だと認めつつ、それを自分だけがよければ他はどうでもいいという方向ではなく、利他の方向に導いているのはすごい。いわば利他的利己のすすめになっている。この辺りは進化心理学関連の本に書いてあったりすることと同じであろうし、2500年前にその域に到達していた釈尊はすごい。

 
楽山が「すごい」という感想で言っているのは、利他的利己?と呼んでいるようですが、要するに、正当には、主体的に自発的に他者を思いやる心ではないかと思います。楽山は、そこに感受性がないので、変な言葉遣いをして、どこまでも的外れ応答になってゆきます。
 
そして「進化心理学関連の本に書いてあったりする」などと、わざわざ、本と読書で、分かってるんだアピールをして見栄を張る始末です。読む前より酷くなる例でしょう。自省・内省・反省できない者の、増悪した醜態です。
 

自分は上に書いた理由などから、人の利己心に腹を立てることはあまりなくなり、それを現実として受け入れることはできるようになってきてはいるものの、釈迦が説いたようにそれを利他につなげることは残念ながらまだまだできていない。

 
自己中によって不都合を無視したために学習と成長がなく、それによって感情が鈍麻して、腹を立てることがなくなったのを、人格が出来ているかのように吹聴しています。それは、正常ではなく、病気なのです。それは、利他にはつながらないのです。
 
しかし、楽山は、メチャクチャな理路をもって、ゆくゆくは最近は利他も出来るようになった、などと書いてくるのではないかと思うと、背筋が寒くなります。
 

この辺りのことをもうちょっとできるようになって、怒れない人を脱却し、真に優しい人になりたいものである。

 
字面だけだと分かる言い方で「もうちょっとできるようになって」程度の自覚なのです。いや、それも嘘かもしれない。楽山が真に優しい人になる・・そこからは、どんどん外れてゆく方向です。
 
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25971633.html
 
 
書けば、根拠もなく、自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、責任を負わないまま自己正当化してくるので、中身を見ようとするだけで、疲労を与えてきます。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 

少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
https://twitter.com/CaIrx4KSwAxAIYO/status/1295284416194007040

 
ここに、神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、当然ながら、一方では、神を信じないで、霊格どころか、人格さえ最低の人もいるわけです。
 

宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。

 
宗教や思想以外にも病的人格によって人を自分より低く見て決めつけて書いてくる者もいます。そういう者は、理路も感性も無いので、そういう者に過小評価されることには何の意味もありません。評価そのものが、出来ない人なのです。
 

たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。

 
政治的な立ち位置を言っているようですが、楽山に立ち位置はありません。自らを過大評価しているだけの者には、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。
 
楽山の、しっかりしていない立ち位置は、何も信じないわけだから、結局、自己の判断を絶対とする自己中カルトに他なりません。
 

政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。

 
楽山は、いかなる思想も、中身を理解することも組み立てることも出来ない人なので、「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な、別のテーマです。
 
上の4つに先天的本能的な部分があるのではなく、これらの中身が定まってくる過程で、個人の体質も影響するのでしょうし、環境も影響するのでしょう。楽山は、字面だけで、言葉の意味を理解していないから、勝手にまとめて乱暴に扱っています。
 
楽山は、訂正不能の偏った固定観念の世界を堂々巡りして、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくるのです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、手垢で丸めた紙くずのように、並んでゆくという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、曖昧にして、ごまかしている詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。言論からは程遠いところに楽山の大好きな砂場があるということです。
 
無反省の自己中になると、公平などというのは最初に無視されていますから、字面の細工だけを振り回すようになります。その手段が、刷り込みと誘導のための丁寧語と、根拠のない婉曲のボンヤリ言語、そして、ときに、実のない反省や努力などの、書いておけばいいという自覚しかないところの芝居、即ち、トホホ言語なのです。
 
楽山は、私が言うところの人間の不完全性について、はっきり断定できることがない、ということを、あっちもこっちも一理あるという書き方をするのが正しいと言って、あたかも、それで真理を語ったかのような言い方をすることがあります。
 
しかし、不完全、断定できない、これは、真理ではなく、真理が分からないことに他なりません。それを、人間のできる範囲で求め続ける努力が必要なのは言うまでもありません。空疎な世辞のような受け容れ方で、仲良くするのは、薄っぺらな社交であり、真実の欠片にも近づくことはないのです。
 
つまり、楽山のように、ボンヤリ言語を結論として、正しいことを言ったつもりになるなら、それは、ただ、楽山が、真実の欠片にも近づく努力をしていないことを表しているのです。
 
つまり、楽山は、極めて未熟な理路の段階で、言えたつもりになる満悦への短絡傾向を体質として持っています。それは、他でもない、怠慢に過ぎないのです。
 
 
(2020年08月25日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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