ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の本性(1)

 
  楽山の本性(1)
 
 信者ブログを見たけれど 1(嘘、デマ、事実誤認)
 2020年09月02日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26110396.html
 抜粋です。
 
 
言論の自由については、何度も書いたが、言論の責任を負わない者に、言論の自由はないということです。楽山につては、自己愛、無反省、自己正当化、訂正不能、無責任であることが明らかとなっており、言論の自由を主張する資格はないものと判断しています。
 
無意味に長い記事です。HSのことがメインのようなので、抜粋して批判してゆきます。リンクは、大方、省略しています。
 
楽山の主張は、詭弁に満ちていて、まともに相手にすると病的な疲労がたまります。それが楽山の狙いでもあるのでしょう。批判者自らの精神衛生を考えなくてはなりません。楽山は、回りくどく、ときに、だらだらと長く書くのが好きなようです。読んでもらうことより、こんなに書ける自分だということに酔いたいのです。
 
批判によって、楽山を変えることは無理だと思います。それが異常人格というものです。それよりも、楽山に関わる人が減るように、楽山に近づかないように、一般読者に語りかける姿勢が大事です。そして、出来ることをする、という割り切りの心構えで、図太く続けることが大切です。
 

*印象操作
この要約の仕方だと、楽山は「好き勝手に言いたいだけの自由」を主張しているみたいだ。

好き勝手に言いたいだけの自由論は、悪魔の自由論であって、責任という言葉が一つもないところに、その特徴がある。今でもこの人物は、自由という言葉を使いたがりますが、権利としての自由ばかりを言って、責任を語る言葉がほとんど見受けられません。それを当初から指摘してあげてるんですけどね。わかっていないようです。
 」
楽山は、当初から、言論は自由としつつも、誹謗中傷はだめ、公益との合致が必要、相手の人権を尊重し、権利の濫用にならないように注意すべきだと書いている。
・★ 言論の自由について (言論の場の自由など) - 楽山日記

 
批判を誹謗中傷と同一に見る詭弁です。楽山の記事は、責任を負わないのだから、責任ある大人ではないということです。それは、つまり、公益に反すると言ってよいでしょう。何も得るものがなく、責任を負わず、精神疲労を与えるだけだからです。
 
人権尊重と、好き勝手や無責任を認めることとは違います。何度も書いたことですが、また、批判と誹謗中傷を同一視する詭弁を弄しています。学習能力がないからです。つまり、権利を乱用して、批判を無視し、返すときには、自己正当化の詭弁になる楽山です。
 

*投影
これは楽山よりも、LEO氏によく当てはまる。

自分の主張に都合の悪い情報は意図的に無視、スルーする、採用すれば自分の論が破綻するから。
なので、都合の悪い情報は、見ていても知らないふりをするんですよね。これ、まっとうな思考の出来ない自己中人間の、典型的な特徴なんですけどね。
 」
ブログ村騒動において、楽山は、基本的に、対立する両派の記事を紹介しつつ、自分の感想を書いていた。読者は両派の主張を読んだあとで、自分の考えをまとめることができて、楽山とは違う考えを持つのも自由だ。
一方、LEO氏は、一般論として事実関係をぼかして、名指しはせず、遠回しに相手を批判することが多い。批判対象の記事は紹介しない。批判コメントは削除対象になっている。読者はLEO氏の話だけを聞かされ、判断させられる。
反対意見は隠して、自分の言い分ばかりいいつのる自己中が誰かは、明らかだろう。

 
「ぼかして」「遠回し」というのは、楽山の、ボンヤリ言語として表れてきました。自分の言われそうなことを相手に向けるというのは、シャロームもやっていたことですが、楽山もやっています。偽牧師の偽善者シャロームとのつながりが深いことを示しています。
 

*被害者?
これだけを読むと、楽山だけが一方的に粘着していたみたいだ。

この人物以外では、そこまでしつこいのは他にいなかったので、きわめて特徴的なしつこさを持った粘着アンチなんですが、その悪質さとしつこさは事実あったのでね。
ここで晒しておこうと思います。蛇のようなしつこさで、まぁ気持ち悪いことこの上ない。
 」
でも実際には、楽山ばかりでなく、LEO氏も批判記事をたくさん書いている。

アンチという立場に立つうえでも、悪質であり、粘着質であり、懐疑主義であり、屁理屈、詭弁の輩であってみては、まともな信仰論など語れるはずもないので問題外のレベルなのですが、モノの考え方に置ける問題点、誤った事例のサンプルの一つではあるので、抽出できる要素があったらそれを一般化して、ときどき記事にすることが今後もあるかと思います。
 」
こんな風に、一般論という形で事実関係をぼかして、遠回しに批判するようなことを書き続けていながら、自分が反論されると、「粘着された」「ストーカーされた」というのだから、ズルい。
LEO氏はこんな風に、自分が相手にしたことは隠して、相手からされたことばかり強調して、さも自分が被害者であるかのように吹聴する癖がある。

 
「ぼかして」「遠回し」というのは、楽山の、ボンヤリ言語として表れてきました。ねちねち書いてくるのは、楽山がそういう体質だからです。また、そうやって、はぐらかし、同じことを言い、疲労を与えてくるのも、楽山の作為の狙いか、でなければ体質です。とても有害で危険です。
 

*デマ
これも事実誤認だ。

幸福の科学を退転して、旧来のキリスト教に信仰を変えたつもり、その上で、幸福の科学および総裁先生、それから私のような一信者のブログにまで執拗に絡んでくるストーカーアンチの正体はいかに?
 」
自分は改宗したつもりはない。だから、キリスト教的だと言われると、少々驚くのだ。

 
楽山は、自分教、自分信仰です。宗教を軽く見てバカにしているだけの病的ナルシストです。学者気取り、評論家気取り、読書家気取り、いろんな芝居をしてきました。真に受けないでください。いい気持になりたいだけの自己愛性人格障害だと思います。
 

*事実誤認
これだと、ブログ村騒動に、楽山が飛び入りしたみたいだ。

だいたい、当該信者同士の論争にまったく無関係のアンチが、何の必要があって出てくるのか。 
 」
でも実際には、楽山はそんなことはしていない。当事者のブログにはどこにも訪問せず、離れたところでひっそり騒動を眺め、自分のブログで感想を綴っていたくらいだ。
現実の支部で、信者同士のいさかいを見て、ガッカリしたことがあったので、まるでその再現のようなブログ村騒動を見ながら、いろいろと思うところがあったのだ。

 
楽山の与える精神疲労という毒を考えれば、楽山ブログは、見られることなく、綴られることもなくなること以外に解決はありません。
 
楽山の思うところが異常であり、詭弁だらけであり、それが他者に影響を与えることのないようにすることが批判の目的です。
 
詭弁だらけ、思いこみの曲解だらけで、無理解が著しく、ゆえに、無根拠に決めつけて、ぼかして、婉曲に語り、インテリぶりたいだけなのです。
 

*皮肉
これはたしかに、ヘンテコな理屈だ。
幸福の科学以外のことを書いたら、それは幸福の科学よりもそちらの方が良いと思っているから、それらを書くのだろう、なんていう屁理屈難癖が通ると思いますかね?みなさん。通らないでしょう?
 でも批判対象になっている記事を読めば、この要約はなんか違うのが分かるだろう。

マイコン解除のきっかけ(幸福の科学キリスト教) - 楽山日記
 」
ここでの意見は、たとえ話にするなら、HS信者で、般若心経の読誦を勧める人がいたら、「般若心経の一万倍の功徳がある正心法語があるのに、なんで般若心経をすすめるの? 正心法語より般若心経の方が功徳があると思ってるの?」という皮肉だ。

 
私の批判記事「楽山のマイコン
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12614304692.html
楽山が、キリスト教寄りのことを言うのは、嘘だと思います。
 

支部の思い出
余談ながら、自分が通っていた支部では、こんな考え方が主流だった。「HSの教えは、最も高度な真理だ。他所で説いているようなことは、すでにもっと高く、広く、深く説いている。HSの教えを学べば、他宗教の神髄も分かる。わざわざ他の本を読む必要はない」
だから他思想、他宗教の書物を読んでいると、咎められはしないが、「ご苦労様、ふふふ(笑)」ということにもなる。仏陀の法が説かれているときに、ずいぶん遠回りで無駄なことをしてるなあと。
こういう支部の空気を知っていれば、上の皮肉はすぐに分かるはずなのに、なぜ分からないのだろう。

 
楽山は、読解力がないと思います。都合の良いところを引用して、楽山の屁理屈に結びつけていることが多く、こんな本も読みました、という自慢でしかありません。やたら長い記事を書いても、本当の詳細についてや、心に響くことを、いっさい言えないことから分かります。
 

*認知の歪み
どうやらLEO氏は、間違っているのは相手であって、自分は違うと考えているらしい。

 
批判者は、その動機から、批判対象に対して、そう思うのが普通です。異常であるかのように言うのは、楽山の印象操作の詭弁です。何も反論になっていません。
 


あまり、かような批判をするのも、読んでいる人は読んで気持ちがいい記事ではないかもしれませんが、邪悪なものや、間違ったことを言いふらす人物に対しては、私としてはハッキリと切り返すことも大事という立場なので、あえて今回はここまで書いてみました。
 」
一般論というかたちで、事実関係をぼかして書く場合は間違いがあっても目立たないが、相手を特定して具体的に批判を加えようとすれば、間違いがあれば隠しようがなくなる。
お節介かもしれないが、LEO氏は、記憶、認知に不安定なところがあるようだし、後者ではなく、前者のスタイルで書いた方が無難だろうと思う。

 
むしろ、楽山が、楽山の記事のことを言っています。
 
結論を出さず、判断もいい加減で、どっちにも肯定も否定も伝えない、ぼかした言い方が正しいと思っている勘違い~妄想的人生観のようです。しかも責任も負わないなら、これは有害としか言えないことです。
 
そういう楽山の記事は、楽山の自己満悦のためだけに吹聴される無責任であり、恐ろしい疲労を与える害毒なので、公益に反しており、公共の福祉に反しており、精神衛生に反しており、止めさせなければいけません。逮捕されないなら、有害だという情報を広めるしかないのです。
 
楽山が記事を書くことは、関わる人間の知性を奪い、感情を鈍麻させ、人格を破壊する行為です。犯罪とは認められないでしょうから、楽山の記事に対応して批判を際限なく積み重ねることによって、敷衍(ふえん)してゆくしかないでしょう。
 
楽山は、反省せず、無視してきた分、学習による成長が欠けていて、記憶、認知に不安定なところがありますし、一般論も個別も、区別せずに、詭弁として利用してきました。人のことを言う資格はない思います。
 
極端なことを言えば、楽山については、強い人がそばにいて、楽山が言ったり書いたりし始めると、怒鳴り続けて、言えなくし、書けなくするのが、望ましいのです。
 
楽山は、自分が批判者より上という訂正不能の思い込みから、上から決めつけて批判者を能力の劣った者と見なして侮辱しています。
 
実際は、批判されたときに、批判を理解できず、弁明して理解させることもできず、的外れ応答と、悪口や侮辱をもって、聞く人、読む人に、屈辱と疲労を与えてくるだけなのが楽山です。今回は、そのことが、はっきり表れていると思います。どうか、まともに相手にしないでください。
 
 
(2020年09月06日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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