ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の作為と悪意(2)

 
  楽山の作為と悪意(2)
 
 「発言の場の自由について 
  ~アンチブログ「楽山日記」に対しての反論~」を読んでみた。
 2020年09月06日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26156774.html
 
 
(近況:台風の夜)
窓ガラスが揺れ、カーテンが揺れ、肌に伝わる空気圧が揺れておびえる。ふだんは聞いたことのない、コトコト、ココココ、何の音か分からないが、風によって何かが何かに衝突し振動し続けている音がしつこく響く、病気のように。そして、一瞬、複数の衝突音がまとめて轟き、部屋を壊しそう、息が止まり身が竦む。・・何とか無事でした。拝。
 
 
確か楽山は、最近、批判者から離れる、と言っていたと思いますが、ここでは、また、批判者に、膨大な疲労物質を投げてくるようです。リンク等、大方省略します。本文も、全部相手には出来ないので、省略しているところが結構あります。
 

*正義
これは楽山の考えというより、LEO氏の考えの要約になっている。

(当時このアンチは、邪教批判をすることは、世の中を正すために必要な批判であり、正義の言論である、と主張し、だから幸福の科学を批判する権利が自分にはある、といった主張をしていました。) 
 」
LEO氏の普段の主張は、邪悪、悪質な者たちを批判することは、「世の中をただすために必要な批判であり、正義の言論である」、だから自分は、批判するというようなものだろう。
でも自分の主張はこうだ。「人には正邪、善悪を判別することはできなかろう。自分を正義の立場におき、他を邪悪だとして批判するなんてできなかろう。 批判的言論について、それが正当な批判か、誹謗中傷かを区別するのはむずかしい。その区別には慎重であらねばならない。批判的言論を即、誹謗中傷と決めつけてはならない。人の口に戸はたてられない。批判を封じるなんてできないよ」というようなものだ。

 
楽山の、極めて幼稚な、言論の立場が、楽山の口から、また明らかになっています。「正邪、善悪を判別することはできなかろう」「批判的言論について、それが正当な批判か、誹謗中傷かを区別するのはむずかしい」・・出来ない、難しいから、しないというのが、楽山の主張でしょうか。
 
だったら、楽山も、何も言わないでください。邪魔だし、非常に迷惑です。楽山は、正義の味方にも、ヒーローにもなれません。楽山の自己中と無責任は、言論において害毒です。
 
また、ここでも、根拠のある批判と、誹謗中傷を、区別できない、楽山の欠陥を自ら表しています。楽山を、ふつうの言論者と思わないでください。楽山の病巣は、とても深いのです。
 

記事の最後のくだりなどを読めば、自分は正義だと思うばかりでなく、そうではないかもしれないという疑いも持てとしてるのも分かるはずだ。そもそも楽山は、「義人無し、一人だに無し」という考え方であるし、自分の批判は正義だ、自分には批判する権利があるなんて、単純に割り切った思考はしない。
他を邪悪として、正義の鉄槌をくだしたいのは、楽山ではなくて、LEO氏の方だ。LEO氏は、自身の姿を楽山に投影しすぎてる。

 
「義人無し、一人だに無し」という聖書の言葉を悪用しまくっている楽山です。この聖句を引用している楽山は、好き勝手に、宗教をもてあそんで、責任を負わないことの正当化に、この聖句を悪用しています。義人はいないのだから正しくなくても責任はない、という立場は存在しません。
 
反省と修正によって人間は学習し成長するのです。楽山は、それが出来ないので、成り立たない自己正当化を言い張っている常同反復人です。楽山の言葉一つも信用できない悪性が表れています。
 
義人でなくても、ふつうの健康な正常人なら、負える責任があります。後悔、反省、訂正、謝罪、などです。楽山は、義人でないから責任負えないの当たり前と、子供でも言わないようなことを言っているのです。
 
自分の不義について、楽山は、認めたことも、悔いたことも、反省したことも、楽山の記事にはないのです。ただ、"反省" ということを、同情を引くためのトホホ言語で字面だけを書いて、書けば反省したことになると満悦する始末でした。
 
人を責めるが、自分を責めて悔いて反省する心性を、徹底的に排除すると、楽山のような、未熟で半端で身勝手な、壊れた知性、すなわち痴性とでも言うべきものになるのでしょう。
 
今も止まない楽山の自己顕示欲は、病質者としての自己中と併せて、決して相手にしてはならない詐欺性の害毒です。真に受けてはいけません。やさしい言葉に、だまされないでください。
 

*的外れ
これは的外れな主張だ。

政府や企業や宗教を批判する自由と、おっしゃっているように、カテゴリ内にいようと、外にいようと、現に今でもこうして、批判を続けていらっしゃる。それがすでに、言論の自由の下にある、ということです。
したがって、カテゴリを追い出されて、強制移動させられたとしても、言論の自由が侵害されていることにはなりません。
 」
公権力が、アンチらの言論の自由を認めているのは分かりきった話だ。誰もそんなことは問題にしてはいない。
アンチらが問題にしていたのは、HSは批判的言論を許容できるかどうかということ。
これに対して、「自分たちはアンチの言論を認めないが、公権力は、アンチの言論の自由を認め、侵害していない」と返答したところで仕方がない。

 
楽山は、批判者、すなわち、アンチではありません。もっと特別の悪意を持って、人々を掻きまわす性癖に生きている人です。その自覚と病識は、楽山には無いので、人の言うことは聞かないで、成り立たない言い逃れを繰り返しています。殆ど廃液の垂れ流しのようなものです。
 
批判もまた、言論の自由です。したがって、言論の責任を負うことになります。それをいっさい負わないのが、HS批判をして、いい気になっている楽山です。自己批判が出来ない者に他者の批判をする資格はありません。
 

*たとえ話
これは全然ちがう話かと。

たとえば、週刊新潮の記者が、幸福の科学内で行われるご法話や霊言収録現場に乗り込んで、ここで批判させろ。どこで批判しようが俺の自由。
俺は、迷っている信者の目を覚ましたいのだから、ここで批判させてもらわなければ意味がない。ここで発言する自由があるはずだ。
などと言ったとして、通ると思うでしょうか? 通りませんね。けれどそれは当たり前の話です。
ブラック企業を批判するのに、社長が社員に訓示を垂れている場所に乗り込んで、ブラック企業批判をすることが許されていますか。それが言論の自由ですか?追い出されたら、言論の自由の侵害?そんなことはありませんね。
 」

 
押し入るのは、強制~暴力的でもありますから、現状では出来ないけれど、その必要があれば、事前に許可制で、出来るようにしたほうがよいのかもしれません。しかし、悪用される恐れもあるので、慎重に考えるべき法制度の問題です。
 
また、それとは別に、楽山のような詐欺的異常者の言論には、暴力に及ばない限り、強制力は行使できないでしょう。だから、楽山は、甘く見ているのです。だから、粘り強く、楽山批判を続けるしかないのです。
 
楽山が書いたら批判する、殆ど、モグラたたきですが、そういうやり方しかないでしょう。楽山は、偽善者である分、モグラより悪質です。批判によって叩くときは全力で叩くべきです。
 

当時の騒動の流れは、こうだろう。
ブログ村に「幸福の科学」カテゴリがあった。
・そこにアンチが来た。
・信者とアンチでもめた。アンチは他のカテゴリに移動されたりした。
・じきに、「幸福の科学 批判・告発」カテゴリが増設され、やがてアンチはそこに落ち着いた。
・「批判・告発」カテゴリができたなら、そっちに行こうかと、楽山日記は自発的に移動した。
これを現実にたとえたら、第三者の団体が、幸福の科学に興味ある人が集まる会場を用意し、信者が来、アンチが来てもめた。そこでもう一つアンチ部屋を用意して、両者を分けたということだろう。
批判者が、宗教教団とか、悪徳企業に乗り込んで行くのはおかしいというたとえ話はピント外れであるし、たとえ話がおかしいということは、物事の本質を理解できていないと言わざるを得ない。

 
物事の本質を理解しているつもりの楽山のようですが、楽山が言論の責任を理解していないのは、言論においては致命的なのです。このように、つまり、楽山は、既に、言論の本質を欠いており、言論者の資格がありません。
 
なのに、物事の本質をどうこう言うこと自体が、さらに不当なのです。楽山の言の、いたるところに、的外れが表れてきます。
 

どうやら言論の自由は、公益を目的としているために、「人を不快にさせてはならない」「人の心を傷つけてはならない」などの道徳に反してしまう場合があるようではある。
これはつまり、言論の自由は、他者を不快にさせ、個人間の道徳に反したからといって、まちがっているとは断定できないということである。

 
また、楽山の、醜い自己正当化です。婉曲的な書き方をボンヤリ言語と言います。そして、「言論の自由は、他者を不快にさせ、個人間の道徳に反したからといって、まちがっているとは断定できない」という言い方をしています。
 
言論の自由は、通念的な道徳に反することもあるけれど、それは、相手が、既に、道徳に反する者であるときです。ここでは、楽山のことです。
 
疲労させ、傷つけて、無視して、反省しない、これは驚くべき反道徳なのです。まさに楽山のことです。そういうものを批判する言論の自由は、これからも、通念的な道徳を気にすることはないでしょう。まさに、楽山に対してであります。
 

自分の主張は、正当な言論であっても誰かを不愉快にさせてしまうことはあるのだから、誰かを不愉快にさせたからといって即、正当な言論ではないと結論付けることはできないということだ。ひらたくいえば、自分にとって不愉快な言論だからといって、それが間違いとは限らないということ。

 
そうして、楽山は、その詭弁と、無責任ぶりを、十分に発揮して、キリスト教をけがし、また、褒め、振り回し、結局、誰が読んでも疲労しか残らない記事を書いてきました。
 
そして、もっと悪いことには、楽山に好意的に接する人は、楽山の無責任、気に入らないことは無視する信条が、伝染するということです。
 
「誰かを不愉快にさせたからといって即、正当な言論ではないと結論付けることはできない」・・これが、楽山の、何を言っても、傷つけても、責任はないと正当化する屁理屈です。楽山は、恐ろしい自我を持っています。
 

でも、この要約だと、悪をただすためであれば、他人を不愉快にすることも正当化されるという風になっている。正しい目的のためなら、人を苦しめる手段をとってもよいのだと。
自分はそんなことは決して言わんよ。これはもう歪曲捏造の域に達してる。

 
個別の条件についての考察を無視した書き方です。不愉快にされ傷つけられた被害者は、詐欺師を糾弾する上で、道徳を普通に当てはめるでしょうか、否です。そこに楽山の甘さと、楽山の、やがて来る日没があるのです。
 

こんな悪意ある要約をして、記事へのリンクを貼らず、読者が元記事を確認できないようにしているのは、これはもう公正、正義には全く関心がない人だという結論を出さないでいるのは非常に困難だ。

 
責任感のある人同士なら、その時の主張で、ある程度の議論は可能です。人間は、発言を総て覚えているわけではないからです。
 
楽山は、理解力がないので、たぶん強迫性によって、リンクを貼りまくりますが、それをいちいち読まないだろうし、読者も読まないだろうと予想しているのでしょう。
 
楽山は、その時のリアルタイムの話において、利己を企むゆえに、その結果、もっとも雑であり、最も詭弁臭く、最も悪意が表れてくる人です。
 
ゆえに、継続する時間の中で、その時の言論も、あの時の言論も、楽山には成り立ったことはないのです。楽山は、リンクとかいっぱい貼ってくるけれど、それは、責任を取る気がないから、見かけ、厳密にやっていると見せかけたいだけなのでしょう。
 
そして、記事を、徒に長く書くのも、一種の攪乱戦術なのでしょう。そういう策だけは弄してくるというのは、詭弁家であることと符合しています。
 

*切り取り
またもや、LEO氏は自説に都合のよいところだけ切り取っている。

(追記注;このアンチは当時、幸福の科学カテゴリに登録できた方が、信者ブログの更新もわかるし、アンチの記事も同じ場所でわかるので、自分的には便利なのだみたいなことを言っていたと思いますが、自分勝手な自己都合の理由でしかなく、信者諸氏の迷惑などまるで考えていないことが、この言い分にも現れているのがわかるでしょう)
 」
ここでの文章は、自分の希望はこうだけども、信者の意見も理解するということだ。自分の希望ばかりを言っているわけではない。

2020-09-06私にとっては不便2
・ガンブロさんとUMAさん - 楽山日記
 」
毎度のことながら、LEO氏の記憶や要約は、とてつもなく適当で、歪曲捏造がひどい。しかも元記事のリンクを貼っていないから、読者はそのことに気づけないということにもなっている。いやはや…。

 
「とてつもなく適当で、歪曲捏造がひどい」と、楽山が決めつけてくるのは、リンクが貼っていないからとか言っていますが、相手の文章の欠点を自分に有利に利かせるという小細工だけはしてくる楽山ですから、そこに真実があるかどうかは、説明もなく、全く不明の、楽山の文章になります。
 
しかし、一方、楽山は、自分に都合の悪い、発言も、こちらの指摘も、いっさい無視することが出来る厚顔無恥を持っているということから、その悪性が明らかになってきました。
 

ところで、LEO氏はここでも楽山は自分の記事を後から書き換えたというのであろうか。もしそうであれば、こちらはそれでもかまわん。楽山日記の読者であれば、楽山は自分の希望を述べることはあっても、それを他人に命令、強要することはなく、他人が何をしたところで、「まあ、それも仕方がない」として何でも受容するタイプだとわかると思うので。
わざわざ「私は我意を通そうとしたりはしません」と改めて主張しなければならない必要性は感じない。

 
「楽山は自分の希望を述べることはあっても、それを他人に命令、強要することはなく」「我意を通そうとしたりはしません」ということを、当たり前に正当であるかのように書いています。この、いい加減さが、楽山の無責任の本質となっています。
 
希望を述べれば、相手は希望を受け取るのですから、その希望が欺きであったなら、だましたことになります。つまり、責任は必ずついてくるということです。
 
我意を通さないと言っていますが、受け取ることを望んで発言するのですから、やはり、責任は生じます。こういうことは当たり前のことなのですが、楽山は、学ぶことがないようです。
 
強要はしない、というのは、楽山は都合が悪くなると逃げるということです。無視して、書くときには、言い訳や弁解の、逃げ口上を言いまくるということです。
 
自分の意見を通す気がないなら、言わなければいいのです。実際には、侮辱でも何でも言ってきたのですから、これは、楽山の嘘か、でなければ障害の症状です。
 
責任を負わないのなら、楽山は、今後、何も言わないでください。
 

*怨恨
これは屈折してる。

↓ この悪質アンチの心理分析として、以下の記事が関連内容として有効かと思うので、リンクを貼っておきます。
ほとんど誰にも顧みられない閑散ブログゆえに、信者からの批判を浴びないのをいいことに、図々しくも好き放題の戯言を10年近く垂れ流し続けているので、問題点を以下に指摘し、悪い見本としての分析をしておきたいと思います。
 」

 
「図々しく」「好き放題」「戯言」・・楽山の特徴と言っていいでしょう。
 

楽山日記のような閑散ブログは相手にしないというのであれば、当たり前の思考と行動だ。でもLEO氏みたいに、楽山日記のような閑散ブログは相手にする必要なしと繰り返しつつも、無視できず、いくつも批判記事を出さないではいられないというのは、おかしい。

 
「おかしい」としか言えない楽山です。批判記事は、批判の動機があれば書くのです。楽山を愛しているわけでも、執着しているわけでもないのです。むしろ逆に、楽山の執拗な記事に、こちらが、おかしいと思うから、閑散ブログであろうがなかろうが、批判を書くのです。
 

大方、過去に楽山から痛いところを突かれたことを恨んで、とるにたらない過疎ブログと捨てることができず、粘着してるということなのだろうが、そういうことはLEO氏の楽山批判を読めば、誰でもすぐ見当がつくということは指摘しておきたい。

 
自分に向けられた批判を平気で無視できる楽山は、「とるにたらない過疎ブログ」というような侮辱だけはしてきます。これ、上の方に書いているような「希望を述べ」ているだけでしょうか、否です。「何でも受容するタイプだとわかる」でしょうか、否です。
 
楽山は、言論の中身は空疎なのに、あざ笑いとともに人を軽視し侮辱しないではおれない体質なのです。ここに、楽山という病質者の本質を見ることが出来ます。
 

LEO氏はきちんとしたことを書いているつもりであろうが、傍から見れば、怒り、憎しみ、偏見、差別、悪口、高慢、裁き心…などが満ちていて、読むに堪えない文章になっているので…。文は人なりというけれど、文章を見ればその人物が分かるというのは本当だよ。〈了〉

 
楽山には、あざ笑い、侮蔑、自己愛、自己中心、自己顕示欲、理解力と読解力の欠如、根底に誰にも相手してもらえなかったことへの怨念、高慢、慢心、霊能者気取り、インテリ気取り、学者気取り、紳士気取り、柔和気取り、などが満ちています。到底、全部は書き切れません。
 
しかして、その真の体質は、嘘吐きで無反省で、何も成り立ったことのない異常人格なのです。
 
楽山について、自説は成り立たない。言い訳も成り立たない。侮辱しても無駄。総て、責任を負わない無反省と、自己愛、そして、自己中の、因業だと思います。
 
楽山の言は、腐ったメンマのようなものでしょう。張りもなく、真の栄養も味もないから、食べると、腹も、胸も、心も、壊されることになります。
 
文章を見ればその人物が分かることがあります。
 
 
(2020年09月08日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
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