ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の粗雑な心理

 
  楽山の粗雑な心理
 
 素朴な真理(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月07日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26174749.html
 
 
今まで、欺き、虚言、決めつけ、無反省、無理解、等々を指摘されてきて、いっさい弁明できないという経過でありながら、平気で、素朴な真理と書いてくるのは、楽山が、自身の粗雑な心理によって、自らの悪と偽善を無視して、なおも、何かを教えたがる自己愛の惨劇に他なりません。恥ずかしいという高等感情が、楽山には無いのです。
 
素朴な真理、という言葉で、楽山が言いたいのは、素朴だから誰でも簡単に手に入るから、自分も真理を知っている、と言いたいがための詭弁なのです。真理を、草花のように、美化しているようで、実は、軽く見なして、自己正当化を図る詭弁であります。どうか、だまされないようにしてください。
 
楽山は、最早、詭弁以外、何も言えなくなっています。弁明が何も出来ないために、批判者を無視して、一般読者をターゲットに、詭弁でだまそうという詐欺師の企みです。このような下等な策略には、決して、だまされないようにしてほしいと思います。
 

*素朴な真理
これは自分にとっては、耳に痛い言葉だ。

本当に必要なのは単純で素朴な真理なのです。新しい大真理ではなく、驚異的な啓示でもなく、新しい神勅でもありません。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.86)
 」
以前、自分は、「新しい教えが説かれた」「旧来の思想、宗教すべてを統合する教えだ」「高級霊界からのメッセージ」「△△の霊言」というような新興宗教の宣伝文句を真に受けて、信じてしまったことがある。

 
楽山には、自分の耳に痛い話はしないという特徴があります。自己愛が勝っているために、殆ど本能のように、自分に都合の良い話しか出来ないのです。ゆえに、「自分にとっては、耳に痛い言葉だ」というのは、嘘です。こういう嘘を平気で言う人です。
 
霊が分かるっぽい、本もたくさん読んだ、という自分は特別の人という訂正不能の自覚が、書くたびに、楽山の文章に表れてきたのです。そして、それゆえに、侮辱や嫌がらせの攻撃を含めて、楽山の、自分への誇大妄想的有頂天は、とてもありえないような無反省のきれいごとを平気で書いてくる白々しさとなってきました。
 
こういうことを書くのは白々しい、という好ましい知性による気づきと自覚と、高等感情が、楽山には無いために、読者を舐めて、反省に見せかけたトホホ言語が、今も、通用すると思っているのです。
 

心の教えとは、難しい神学や哲学体系とはちがって、単純、素朴で、誰にでも理解できるものだとか、真理は永遠不変という話は知ってはいた。でもそれでも「新しい真理が説かれた」「高度な教えが説かれている」といわれれば興味を持たずにはいられなかったのだ。「いま、天上界の秘密が明かされる」「××事件の霊的真相を解明する」という話にも釣られてしまった。

 
永遠不変の真理を、自分という人間が得られると思うこと自体が、高慢不遜のベースがあることの証明であり、さらに反省も後悔も修正もせずに、書き続ける楽山には、真実は、いつまでも、見えてはこないと言えるでしょう。
 
また、今回も、言葉面だけの反省めいた記事ですが、その反省の質量は、今までの不祥事の悪質な積算とは、全く相容れない軽さであることを表しているだけです。
 
即ち、その場しのぎに、安いペンキを塗るように、気安く反省しましたと言われても、その粗雑な心理が、不正直を見せてくるだけなのです。
 
また、心の教えが誰にでも理解できるものと言っていますが、自己愛で傲慢になった者には、単純も素朴も理解できはしないのです。そういう経過しか表れていません。
 

でも、心の教えというものは、古典聖典を開けばいくらでも書いてあるし、日めくりカレンダーにあるような名言名句、ことわざなどでも十分であろうし、そこいらじゅうにあふれていて、改めて教えてもらわなければならないようなものではないのだ。ましてや、どこかの宗教団体だけが独占しているものでもない。

 
心の教えというものは、これで十分ということがない、という特徴があるのに、それを、楽山は、「十分であろう」などと、全く理解していないことが露呈しています。楽山においては、総ての概念が、風船のように軽くなります。実際には、風船は、そのまま、楽山の存在の軽さなのです。
 
聖典と、ことわざを、同じように並べていること、そこいらじゅうにあふれていて、教えてもらわなければならないようなものではない、などという、軽薄な見なしは、救いがたいもので、楽山の、自己愛と他者への見下しの野蛮さを表しているだけなのです。
 
人生を支えるのが目的で書かれた聖典と、場合によっては言えてるねという程度の軽いノリで頷くことわざとは、明らかに成立と存在の理由とプロセスが違います。これは常識と言ってよいでしょう。
 
しかし、この辺を全く弁えない楽山の言葉に対する認識の甘さと、軽さと、いい加減さは、目を覆わんばかりです。思慮というものが育っていない楽山の、粗雑な見なしは、災いです。
 
それと、「どこかの宗教団体だけが独占しているものでもない」という言い方で、楽山が言いたいのは、楽山の、自分が教えて何が悪い、という開き直りです。いつも、薄汚い狙いがあって物を言う楽山の言を、どうか真に受けないでください。無反省と無責任の楽山に、人を教える資格はありません。
 

今になって振り返ってみれば、新興宗教の宣伝文句に惑わされていた自分はつくづく愚かだったと思う。こんなことを書くと、「今だって、大して変わらんだろ」という厳しい意見もありそうだが、一応その後、新興宗教は退会したわけだし、その分だけは進歩したと思いたい。反省。

 
進歩したと思いたい、と言って、"反省"、という言葉を付けて反省になるでしょうか、否です。これは、自己満足に過ぎず、「新興宗教の宣伝文句に惑わされて」愚かだったと、被害者のように罪を他者に向けている時点で、また、その後の今に至る経過を見れば、反省になってなどいないのは明らかなのです。
 
楽山は、自分教という唯我独尊の境地を、いつも、出してきては、他者を上から見下ろしているだけでしたし、今も、そうなのです。人など簡単にだませるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山は、字面の辻褄合わせでは、軽さ、実感のなさ、嘘臭さが表れるだけだと、気づかないようです。無反省と無責任は、必然的に、学習しないことになり、成長しないことになります。その見本のような成り行きを進んでいるのが、楽山その人です。
 
楽山は、時々、この記事のような、今までのことを無視して、軽い調子の反省言葉を書いてきますが、それによって明らかになるのは、楽山が、いかに、軽佻浮薄に、まるで冗談か世間話のように、気安く言葉を並べる人であるかということです。反省は嘘です。信頼度はゼロです。
 
 
地上は、良心と、サイコパスの、闘いです。サイコパスというのは、良心を持たないために、自分の利益と快感だけを求めて、罪悪感も、責任感も、反省する心も、育っていない者たちです。笑いと憎しみだけが言動を支配し、共感と悲哀の情緒を持てないために、総ての不祥事を人のせいにして、自己愛性から反社会性を帯びてくる必然が生まれます。
 
 
 『奇跡との出会い。 心に寄り添う。3 』
 (幸福の科学ドキュメンタリー映画
 2020年09月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26187298.html
 
一見して、バラバラな感じで、楽山が書いている感想です。断片だけです。
「誠実な感じ」「信仰による安心感」「写真はどれもいい感じ」「インタビューに答えている人たちはみんな、人柄がよく、すごく善良にみえる」「想像していたより、ずっとよかった」「みなさん幸福でよかった」等々
・・逐一批判が出来ないような書き方です。その分、この楽山の書いた記事が、まとまった意見にも批判にも弁明にもなっていない、ということが分かります。
 

幸福でいる人に対して、宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだなと思う

 
これが、楽山の、宗教軽視~反宗教の意見なのでしょう。しかしながら、宗教問題について、誰が、傍からどうこう言っているというのでしょう。
 
どうこうと、何の参考にもならないことを言ってきたのは、また、批判がしにくい形で、今、余計なことを言っているのは、まさに、楽山その人だと思います。
 
幸福の科学HSの映画について、楽山は、大方、肯定的なことを書いています。HS批判をしていたのではないでしょうか。一貫性がないという楽山の特徴が表れています。
 
つまり、楽山にとっては、宗教など、自分が満悦するための材料に過ぎず、どうでもいいのです。反宗教は、宗教軽視ということなのでしょう。
 
つまり、楽山は、宗教を信じている人をバカにして、上から見下ろしているだけなのです。楽山は、宗教と信仰の深みを何も知らないし、知ろうともしない自己満の人です。
 
では、黙っておればよいのです。楽山が何かを言って、宗教が助かるわけでも、廃れるわけでもありません。ただ、うっとうしいだけで、疲労をもたらすだけで、邪魔になるだけであり、楽山の言は、ことごとく意味がないのです。
 

世の中には不思議なことはあるだろう。不思議なことがあっても不思議ではない

 
元々、霊が分かるっぽい自覚だけの楽山は、不思議に関心があり、不思議な話が大好きな子供に過ぎません。自己満悦の自己愛から、何でも一気に心霊が分かって知っているつもりの楽山は、自分を出したくて、宗教を論(あげつら)い、結局、茶化しているだけなのです。
 
宗教の不思議な話はもちろん、宗教の共感にあふれる話も、楽山には受け取る感性がないからでしょう。浅い先入観しか持たないでいて、元々、霊と超常趣味の楽山は、そういう幼稚な興味だけで、宗教に関わり、けなしたり、ほめたりします。
 
楽山は、宗教の字面が生んだ寄生虫のような存在です。楽山は、宗教にとって、ただただ傍迷惑なだけの存在です。楽山を相手にしないでください。楽山の、深みのない、丁寧語や、やさしげな言葉に、どうか、だまされないでください。
 
 
(2020年09月09日)
 
 
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