ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

苦難と救い

 
  苦難と救い
 
 
最も憎むべき災いというのは、広がる性質を持っています。つまり、しばしば広めようとする者たちがいます。
 
苦難は、人の試練であります。耐えられずに、力に走る人もいるでしょう。そういう時に力を発揮する人も出てくるかもしれないけど、
 
力なき人は、できることをして、祈るしかない。神の前には、正直さだけが大切です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
13:10
それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
13:11
そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12
おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
13:13
だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
13:14
こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
13:15
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。
13:16
しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
 (マタイ13:10-16、新約聖書
 
「持っている」とは、地上の財産のことではなく、天国の奥義に希望を寄せることであり、即ち、救いに至る信仰のことでしょう。天国の奥義を、私たち地上の人は、知りません。何故なら、それは神の奥義、即ち、神秘であるからです。
 
ただ、それに触れたと言いたくなるほど、心が動かされる時があります。その体験と想いが信仰を支えます。
 
知らない民もいて、聞かず、悟らず、神の秘密として、定まっているということでしょう。悔い改めによって、つまり、信仰によって、癒されることがないと書いてあります。癒されるとは何でしょう。
 
まちがっても完全になったと慢心することではないのです。キリストに共感することによって、安らぎと励ましと苦難に耐える勇気と力を与えられることです。
 
つまり、救い主イエス・キリストが、人の罪を背負って犠牲になることが、救いになるのは、逆に、聖書とともに、肉体を超えて、キリストが同伴することが、何よりも増して幸いであることを伝えています。福音の重要なところです。
 
人間に過ぎない、私たちでも、聖書によって、その幸いに触れて共感することが出来るからです。
 
対応する旧約、イザヤ書の聖句です。
 
 (イザヤ書、口語訳) 
6:9
主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、
『あなたがたはくりかえし聞くがよい、
しかし悟ってはならない。
あなたがたはくりかえし見るがよい、
しかしわかってはならない』と。
6:10
あなたはこの民の心を鈍くし、
その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。
これは彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟り、
悔い改めていやされることのないためである」。
6:11
そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。
主は言われた、
「町々は荒れすたれて、住む者もなく、
家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、
6:12
人々は主によって遠くへ移され、
荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、
こうなっている。
6:13
その中に十分の一の残る者があっても、
これもまた焼き滅ぼされる。
テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、
その切り株が残るように」。
聖なる種族はその切り株である。
 (イザヤ6:9-13、旧約聖書
 
人間が悟ることはないということを、既に、神は見抜いていて、聖書がそれを語っています。それは、そのまま、人間が、不完全な存在だということです。9節「ならない」は、戒めというよりも、罪深い人間の必然を表しているのかもしれません。
 
それは、神の計画であり、神の計画であるからこそ、救いも用意されているということなのでしょう。
 
10節「いやされることのないため」・・一見、意地悪なように見えますが、このように、神の計画として、救いを表しているということです。人間が勝手に決めることは出来ないということなのです。
 
つまり、私たち人間は、神に比べて劣る者であるから、決して気づかない神秘の計画がある、という、人とは違うところの、神の全知全能を伝えているのでしょう。それは、人が、神のみを頼みとするためでしょう。
 
神と人の違いを、明確に示しています。いかに、教理をいじくって、これが真理だ、神の意志だと言い張っても、神は絶対、人は相対、ということに、変わることはないのです。
 
したがって、恐らく、神は、不完全な人間をも救われるように、キリストを遣わされたのでしょう。何故なら、人間は、神に望まれ、神の民として祝福されるために存在しているからです。
 
この旧約の聖句の背景として、逆に、おごり高ぶる者たちが多くいて、神に逆らっている時代において、キリストは、犠牲になって殺される道を歩むことになります。
 
キリストによって、旧約は新約へと更新され、キリスト信仰が生まれました。
 
何だか、人間の有り様は、昔も今も、それほど変わっていないような気がします。
 
救われないぞ、という脅しでも呪いでもなく、いかに苦難の時代にも、その背後には、目には見えなくても、神の計画が進められている、という力強い讃美でもあるのです。
 
私たち人間には、見えないもの、知らないこと、分からないことが、たくさんありますが、神は、総てご存知の上で、ことを進めているということです。
 
このことは、そのまま、神と人の違いとして、厳然として、常にあり、いかなる時も、偽善者やカルトがやっているような、全て分かっているかのような宣伝など、空しいだけだということを伝えているのだろうと思います。
 
このように、聖書には、救いや恵みとは真逆のような、厳しい書き方をしているところもありますが、これは、カルトの、信じないと大変なことになりますよ、という脅しではなく、むしろ、厳しい文言を通して、逆説的に、強力な救いのもとにあることを表しているのです。
 
神と人の決定的な違いを弁える人には分かることです。
 
不完全な人間には神秘として隠されている神の力が、苦難の時には、耐え忍ぶ力として、勇気や努力とともに、人に及ぶことが示されているのでしょう。
 
信仰にケチをつけることを楽しみとしている反キリストや、大仰に偽りの讃美をしまくる背教の偽善者など、神に対しては何の意味もないということでもあります。
 
 
 一年前の記事より断片
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって祈る心得は、正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、やたらと正しい立場を売りに出していますが、
 
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた人間であります。そのような人間が、救いを求めるところは、豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすること、そのただ一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
(2020年09月12日)
 
 
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