ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の背教の証拠(1)

 
  楽山の背教の証拠(1)
 
 改心とゆるし、どちらが先で、どちらが後か?
 2020年09月12日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26232181.html
 
 
リンクは、大方、省略します。記事も、一部省略します。消せるものなら、楽山も、省略したいところですが、極端な、宗教と信仰についての無理解として、自己愛性人格障害者としての楽山は、むごたらしいモデルにはなるのでしょう。
 

*つづき
前の記事で、「改心とゆるし」についても論点にしようと思いつつ、うっかり忘れてしまっていたので、稿を改めてここに書いておきたい。

 
引用書籍(写真省略)には
 


「彼らが改心するよりまえに、まず神もキリストも、これらの人を受け入れている」
「ゆるしが先で改心が後なのです。」
 」

 
と書いてあります。"売春婦" と "放蕩息子" に言及している本を、また悪用するつもりのようです。
 
ここは、だまされないために、重要なことがあります。
 
楽山やシャロームのような凶悪な詐欺的偽善者たちは、自らの正当化のために、あたかも知識であるかのように、赦しが先だと言い張ります。
 
それによって、シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などというトンデモ信条を吹聴していました。楽山はシャロームの味方をしました。
 
何でも、誰でも、悔いることもなく、告白もなく、赦されるような、何をやってもいいような、お気楽な信条を持つこと自体、楽山が、人間の常識的な知性も感性も持っていないことの証拠です。
 
このテーマは、既に、前に私が批判して否定していますが、楽山は、それを無視して、反論も弁明も出来ないのに、性懲りもなく、また同じことを言ってきます。
 
狙いは、時が経って、今なら、だまされて信じる人がいるだろうという企みでしょう。つまり、今回の記事は、楽山とシャロームが、キリスト信仰の敵であるという証拠になります。
 
ですから、楽山やシャロームと、赦されて救われた人々との違いを書いておきます。娼婦は、自らの低さを感じないではおれない女性たちです。放蕩息子は、独り立ちできずに傷心のうちにあります。どちらも罪の意識があることが、キリストの話においては前提となっています。
 
赦され救われた人々は、低さの自覚も、傷心も、罪の意識も、まるで無いところの、楽山とシャロームとは、全く違うということです。
 
楽山とシャロームという二人の、無反省、無責任、自己愛、自己満悦、人を下に見る態度、学習できずに繰り返す執拗さなどを見れば、彼らは、まるで、救いとは、関係ないどころか、救いを妨げようとしている背教者でしかありません。
 
今回のテーマの再掲によって、結局は、むしろ、楽山とシャロームの反キリストの偽善性が、際立ってくるのです。
 
排せつ物が人になり、文章になったような繰り言の、いちゃもんを、どうか、真に受けないでください。彼らは、反キリストなのです。彼らは、ただの罪人ではありません。自尊だけが過大で、人間力が、感受性が、理性が、節操が、まるで無い者たちなのです。
 
特に、楽山は、策士であり、嘘吐きであり、彼のどの言の、どこをとっても、神とキリストに憐れまれる心の要素が無く、それゆえに、ただただ、下等な詭弁で、同じことを繰り返すしかないのです。
 

*ゆるしが先で改心があと
まず自分が、このテーマに興味を持ったのは、『キリスト教がよくわかる本』(井上洋治著)にある一節を読んだことだった。
DSCN6473 ゆるしが先で、改心が後
ここでは、明確に「ゆるしが先で改心があと」と書いてある。例示されている聖書の場面もそのように読める。
これは自分には驚きだった。

 
楽山は、明確に、曲解しています。楽山とシャロームは、自らの悪意の罪と偽善を正当化することは出来ません。またしても、悔い改めをけがし、キリスト信仰をけがし、人をけがし、それによって、見るも無残な自らを、さらに、けがしてゆきます。この楽山の惨状が驚きです。
 

レ・ミゼラブル
それで、他にも同じような例はないかと思っていたところ、『レ・ミゼラブル』でも、「ゆるしが先で、改心はあと」という形が描かれていることに気がついた。

・反省と許し(映画『レ・ミゼラブル』)- 楽山日記
 」
ライ麦畑でつかまえて』にも似た考え方が出ている。

・ユダは地獄に堕ちたのか? (『ライ麦畑でつかまえてサリンジャー)- 楽山日記
 」

 
レ・ミゼラブルに登場する司教は、ジャン・バルジャンの境遇を思いやったのかもしれません。決して、何をやっても赦されるという意味ではありません。楽山は、人間性のいちばん大事な共感と反省が出来ないために、言葉の表面を振り回して決めつけ、いちゃもんをつけているだけです。
 
もし、楽山が、盗みを働いたなら、有無を言わせず、詭弁の弁解や哀れみ芝居を見聞きする前に、直ちに、警察を呼んでください。
 
ユダに、憐れむべき点があるとすれば、それは後悔したことです。楽山には、後悔の念も罪悪感も羞恥心もありません。だから、恥を知らずに、また繰り言を並べて、恥を上塗りすることになるのです。
 

*カテキズム
カトリック教会のカテキズム』(2002年)ではどうかといえば、このテーマと関係がありそうな箇所を抜き書きするとこうなっている。

回心すれば神のゆるしが与えられると同時に、教会との和解がもたらされます。(1440)
回心は第一に神の恵みの働きであり、この恵によって心は神に向きを変えます。(1432)
この回心の努力は、単なる人間のわざではなく、恵みによって引き寄せ、働かされる「打ち砕かれた心」の動きであって、先にわたしたちを愛された神の慈愛にこたえるものです。(1428)
これを明らかにしているのが、三度キリストを否認した後の聖ペトロの回心です。はかりしれないあわれみを込めたイエスのまなざしを受けて、ペトロは痛悔の涙を流し、またキリストの復活の後には、キリストへの愛を三度告白します。(1729) [ 下線は筆者による ]
 」
回心が先で、ゆるしがあとであるような記述がある一方で、回心は人によるのでなくて神の恵みによるとしているところ、ペトロの回心の前にキリストのあわれみがあったとしているところは興味深い。
当該箇所(ルカ22.61-62)を読めば、キリストはたしかに、ペトロの裏切りを裁くことも、責めることもなく、人の弱さ悲しさをあわれむ目をしていたと思われる。

 
catechism カテキズム:
(ネットより)
1 《教会》教理問答書,公教要理;(一般に)問答式入門書[教科書]
2 一連の手きびしい質問
3 問答式教授
https://dictionary.goo.ne.jp/word/en/catechism/
 
言葉は、心を伝えるための暗号です。言葉ですべてを表せるわけではありません。ゆえに、喩えを用いたり、例示をしたりするわけです。楽山が、全く分かっていない点です。ゆえに、楽山は、言葉の字面の硬直した概念に執着するだけになっています。
 
楽山は、言葉に込められている心を読み取ることが出来ない障害があります。しかも、楽山は、その障害の自覚がないまま、自分は分かるんだ、出来るんだ、知っているんだ、という芝居をして我を張っているだけなのです。
 
ペテロは、悔いて、激しく泣きました。
 
楽山は、反省、トホホ、という言葉面を並べるだけでした。楽山のどこにも、悔いと反省の実(じつ)がないのです。今回、前と同じことを書いていることが証拠です。楽山は、訂正不能の慢心だけになっています。
 
恐ろしいことです。楽山は、自らと同じ高さで、聖人とも呼ばれるペテロとを、さらには、キリストの目さえも、決めつけで語っています。これは、排泄物と食べ物を同じテーブルに並べるようなものです。
 
キリストは、ペテロの、欠点も、罪も、辛さも、後悔も、見抜いたうえで憐れんでいるのです。
 
楽山は、キリストを、オートマチック赦免マシーンと見なしているだけです。
 
楽山は、キリストを、もはや人間ではない自身の、実にお粗末な表面屁理屈の対象物としているだけです。楽山は、慢心に酔って、心を育て損なって、信仰と思想の、けがらわしい障害物となっています。
 

*放蕩息子
同じくカテキズムには、放蕩息子のたとえについて、こう書いている。

回心と悔い改めの過程については、「放蕩息子」のたとえの中でイエスがみごとに描写しておられます。その中心は「いつくしみ深い父」です。その息子は誤った自由を渇望し、家を出、財産をたちまち使い果たした後に窮状に陥り、やむなく豚を世話しなければならなくなりました。そこで強い屈辱を感じましたが、さらに進んで、豚の食べるいなご豆で空腹を満たしたいとさえ考えるようになりました。ついに、失ったものについて反省、後悔して、父親の前で自分の過ちを認める決心をして、家に戻ります。父親は彼を寛大に迎え、大いに喜びます。このたとえには、回心と悔い改めの過程の特徴がよくあらわれています。りっぱな服や指輪や祝宴は、神のもとへ、また教会という家族の懐へと戻った人間の、清らかで、尊く、喜びに満ちた新しいいのちの象徴です。御父の愛の深さを知っておられるキリストのお心だけが、わたしたちにそのはかりしれないあわれみをかくも簡潔に、また美しく明らかになさることができたのです。(1439)
 」
このたとえ話(ルカ15.11-24)は、放蕩息子の視点から読めば、「反省→ゆるし」ということになっている。でも父の視点からみれば、はじめから最後まで、放蕩息子をゆるし、受け入れている。


楽山には、赦そうとか受け入れようとかいった心を起こさせるような、共感と憐れみの要素が、そっくり欠けています。この男には企みしかありません。人間の心が無いのです。赦しが先か、改心が先か、という硬直した問題にしてしまって、そこでしか、物が言えなくなっています。
 
実際には、思いやること、愛すること、ゆえに赦すこと、などが赦す側にあり、罪を悔いること、だから帰ってきたこと、愛すること、ゆえに改心すること、などが赦される側にあります。両方が呼応しないと、悔い改めによって赦される、という信仰は成り立ちません。
 
どっちが先かという時系列の問題ではないのです。絡み合う人間の情緒が、楽山に分からないだけなのです。だから、楽山は、何も言えなくなっているのを、苦し紛れに、恐ろしく単純化して、あちこち探して、自分に有利なような断片をもって誘導しようとする詭弁しか言えなくなっているのです。
 
深い人間の情緒と思慮が関わる問題を、楽山は、まるでちょっとしたクイズのように扱って、軽口で、信仰を扱っています。楽山に、致命的に、深い共感性と自省の心がないために、人間の深い問題を、短絡した机上の命題の是非にしてしまうのです。楽山の付けてくる難癖は、人間的視野の欠損による理路破綻の症状なのです。この人を相手にすれば、いつも、迷路で消耗するだけです。
 
罪と悔い改めと赦しの問題に、楽山が物を言う資格はありません。このように、信仰の問題を、自己愛だけの楽山が語れば語るほど、楽山の欠陥が明らかになるだけだということを、楽山は、気づく知性と感性がないから、人の言っていることが理解できず、もはや、言い張り続け、繰り返すことしか出来なくなっています。
 
楽山の記事というのは、真面目に引用しているように見せかけ、ちゃんと語っているつもりになりたくて、実際は、わざと混乱を招いて、楽山が否定されないように企んでいるだけです。
 
楽山の体質的な無反省は、自分の気づく能力を麻痺させて、学習できず成長できないゆえに、楽山自身をして、人に気づかれないためのごまかしの小細工に誘導させてきて、そして、ついには破壊的になる方向に誘導させてゆくということです。
 
だから、聖書を字面だけで見て、未形成か壊れたかの低劣な概念をつないで、話をでっち上げるしかなくなっています。今回さらに、明らかになったこととして、楽山を、人間と思ってはいけないということでしょう。おぞましいかぎりです。
 

このことは、父は放蕩息子が反省の弁を述べる前…(息子が反省したかどうか知らない状態)…において、息子の姿が見えるとすぐに駆け寄り、抱きしめていることでわかる。父は当初から息子の身を案じるばかりで、少しも裁くところがなく、まさに「いつくしみ深い父」である。
こうしてみると、この話は、どういう視点から見るかによって、回心が先とも、ゆるしが先とも解釈し得るようだ。 

 
前とか後とか、順序にこだわって、父親の思いやりを、命題のような「ゆるす」に当てはめても、何も語ったことにはなりません。心情とか、文脈とか、状況とか、流れとかが、楽山の思考からも感性からも、全く見られません。
 
総ては、父親が、思いやった結果であり、人間ならば共感できることです。それを悪用して、何をやっても赦される信仰を説いていたシャロームの味方をしたのが、この悪辣な楽山であります。
 
楽山の、うすぼんやりとした人格が、同様に鈍麻した自己中境地から、身の程も知らずに捏(こ)ねている屁理屈には、誰も共感を抱けるようなことは無いのです。
 
楽山は、聖書の話の前提となっている共感を持ち合わせないまま、教条の理屈の命題として、決めつけているわけです。この楽山のようになってしまったら、おしまい、という戒めとなり、決して真似をしてはいけない最悪の誤読の例であります。
 

*自分の考え
自分は、人には神のことは分からないと考えているので、「改心が先で、ゆるしがあと」とも、「ゆるしが先で、改心があと」とも、決めつけることはできない。ああかもしれない、こうかもしれないと可能性について考えをめぐらすくらいだ。

 
楽山は、何を、白々しいことを言っているのでしょう。シャロームに賛成して、後者を語っていたことを、なかったことにしようとしています。無反省と無責任になっているのが、その表れです。ここにおいて、楽山は、その最悪の嘘を吐いています。
 

ただ、キリストは十字架につけられ、嘲りを受けている時に、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23.34)と祈ったのであれば、罪の自覚がなく現在進行形で悪を為している人々をゆるしていたということであろうし、「ゆるしが先で、改心があと」という説には説得力があると思わないではいられないというのが正直な感想ではある。

 
どうして、そうなるのでしょう、その説明が何もありません。楽山は、キリストが、敵対するパリサイ人を受け容れて赦したとでも言いたいのでしょうか。
 
ゆるしが先だからと、楽山自身も、無責任、無反省のまま、詭弁を弄しても、どんな迷惑をかけても、赦されるんじゃ・・とでも言いたいのでしょうか。
 
だとすれば、楽山は、傍観していた者たちや、着物とくじ引きした者たちなどとも違って、無知による罪とは全然違って、ゆるされるんだからと、パリサイ人と同じように、キリストをあざけり、あざ笑い、キリスト信仰を、侮り、けなす者でありたいと言っているのです。実際、それに近いものを感じます。
 
これほど、おそましい非道があるでしょうか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)23:34
そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
 (ルカ23:34、新約聖書
 
キリストは、無知な人々のために、また、ご自身を策略によって捕らえて裁き殺す者たちが、あまりにも、神を知らない背教ぶりであるために、父なる神に、これで終わらないように、父なる神の裁きと計らいを、祈っているのです。キリストが、救い主であることのゆえんであります。
 
キリストが、個別に、あなたの罪はゆるされた、と言うときの赦しとは別のものであることは明らかでしょう。キリストが、パリサイ人に対して、個別に救うときのように、赦されたから立って進みなさい、あなたの信仰があなたを救った、などと言うでしょうか、断じて、否です。
 
楽山は、実に、宗教を幼稚な全か無の単純な命題としてしか考えておらず、そこに人間の血も涙も流れていないために、終始、曖昧な言い回しの中に、狂気を忍ばせるように、神もキリストも、宗教も信仰も、自分と同じように、いい加減なものだという印象を吹き込もうとしています。
 
これほどまでに、物わかりの悪い楽山ですから、私が、疲労するだけだから近づかないように言うのも、間違いではないと思います。悪意のROMのような人ですから、これからも、繰り返されることを覚悟していなければいけません。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)23:13
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
 (ルカ23:13、新約聖書
 
このように、キリストは、随所に、パリサイ人を、激しく批判しています。彼らの、何という有り様か、という悲惨さに、憐れみを、神に祈っても不思議ではありません。共感性のないものには、決して理解できないところなのです。
 
文脈がまるで読めず、都合の良いところだけを拾っては、いちゃもんをつけてくる楽山です。彼が、聖書の中の、前後の流れ、全体の思想の流れ、それぞれの、キリストの想いと、人々の想いなど、全く理解できない人であることが分かります。
 
 
(2020年09月13日、同日一部修正)
 
 
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