ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

修正可能(改)

 
  修正可能(改)
 
 
信仰を語る上で
私が何度も強調してきたことに
修正可能ということがあります。
 
人生の学習を可能にすることであり
これは一般的にも
成長するためには必要なことです。
 
罪を認める、悔いる、
祈り、告白する、赦され癒される、
 
反省する、学習する、成長する、
ゆえに、修正可能であります。
 
これらが、個人の信仰において、
密かに起こり続けます。
 
とりわけ信仰については
これこそが神の恵みだと思っています。
むしろ
これだけが神の恵みなのかもしれません。
もちろん
人間に分からないところで
神の導きもあるでしょうけれど
人間が認識できる恵みとしては
唯一だろうとも思っています。
 
そして何よりも
悔い改めこそ他でもない修正なのです。
 
その機会が一生を通じて与えられていることは
あるとき間違えて
ふてくされて神のもとを去ったとしても
いつでも悔い改めることで
すなわち
苦難も罪も正直に告白することで
神のもとに戻ることが許されているということです。
 
悔いる必要も改める必要もないのは
唯一絶対の神だけであるのに
その神に対して
人が悔い改めをしなくてよいなどというのは
まさに人が神に成り上がろうとする背教
そして反逆に他ならないのです。
 
キリスト者になるとき
洗礼を受けるときには
私の経験から言うと
罪について殆ど分かっていなかったと思います。
教えられるから認めることにした概念のようなもので
やさしい神様、やさしいキリスト、
そのイメージで一生付き合うと決めただけなのです。
 
悟ったかのように思い込み
のぼせ上がり
預言者気取りになって
思考が誇大的になり
世界を相手に
それこそ天国から物を言いそうなほどの
有頂天の陶酔気分があったような気がします。
 
つまり
修正可能は
すなわち折々の悔い改めは
キリスト者になってからも
ますます必要になってくるということです。
 
神の民になったから完成ではなく
完全になるわけでもなく
目指すべきは
信仰者として人間としての成長であり
修正可能すなわち悔い改めは必要であり
その機会と
そうしなければいけない機会とが
必ず訪れてくるということです。
 
誰かの解釈を真理として
信じ込むことをしてはいけません。
 
自分の生きる力になることを
時々に受け取ってください。
たとえその後に人が外れることがあっても
神は
いつでも帰りうる道と機会を用意しておられるのです。
人間が勝手に固定してはいけません。
 
洗礼の機会も大事ですが
信仰を問われて受洗証明みたいな書類を
出してくるような人もいますから
洗礼という儀式は絶対ではないと言わざるを得ません。
 
それよりも
善悪問わず陰性の感情が激しくなるとき
怒り、憎しみ、恨み、
悲しみ、失望、絶望、
それらのときに祈りのうちに
慰めと癒しを得て
悔い改めて自らの信仰の姿勢を正してゆくことは
キリスト者の義務というより
神が誰にでも与えている恵みであり
はっきり言えば
洗礼の有無にかかわらず
そのときそこに信仰があるという証なのです。
 
全知全能の神はそれを見逃すことはないということです。
 
それが全知全能の恐るべき神でありながら
愛の神とも言われる所以であります。
 
救われる条件は
ただ神の前で
本気で精いっぱい正直であることだけであります。
 
全知なる神は
それ以上を人に求めることが無理だということを
すでにご存知の神であります。
 
 
(2018年11月25日、同日一部修正)
(2020年09月18日、一部修正)
 
折々(おりおり)
証(あかし)
 
 
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