ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山のキリスト教いちゃもん

 
  楽山のキリスト教いちゃもん
 
 『キリスト教入門』島田裕巳
 2020年09月19日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26322155.html
 
 
字面だけにこだわる楽山という偽評論家は、どっちが先とか、他者の文章から、違っているとかの、いちゃもんをつけてきます。キリスト教を毛嫌いする偽善者である楽山が本性を表しています。
 
結果として、楽山のクリスチャン芝居が、全くの嘘であったことの証明となる楽山の自己主張であり、憂さ晴らしでもしているかのような、無責任と無反省の楽山の無駄口であります。
 
また、聖書の、人知など全く及ぶべくもない、途方もない謎に対して、心情を理解する能力の欠如、すなわち、共感性の欠如によって、楽山は、自ら、悪魔性の反キリストであることを証明するだけになるのです。
 

タイトルから、キリスト教の基本を教えてくれる本なのだろうと思ったのだが、実際に読んでみるとキリスト教の神秘性をはぎ取る内容になっていて驚いた。意表を突かれた気分。

 
楽山は、キリスト教の基本が、全く学習されていません。自己愛のために、その必要を感じる意志がなく、感性が育っていないのです。だから、批判されて、憂さ晴らしをするしかなくなるのです。
 
それにしても、驚くべきは、これだけ批判されても、平気で悪口を言ってくる性根だということです。自己愛性人格障害は、自慢好きと違って、訂正不能に自己中である為に、都合の悪いことを人のせいにし、信仰への無理解を聖書のせいにするのです。
 
そして、キリスト教を、インチキだと言いたいのでしょうが、インチキは、一貫して、楽山その人であります。深い情緒と共感を、聖書から受け取れないところの高等感情の体質的鈍麻は、多くのサイコパスに見られる特徴だと思います。
 
神秘性は、人間には分かりません。すなわち、神秘性は、信仰の中心ではありません。神秘性は、神に任されるしかないものです。必要な知性と感性を持たない楽山の、神に対して喧嘩を売っているような、悍(おぞ)ましい身の程知らずが明らかになっています。
 

たとえば著者は、福音書にあるイエスの言行は、後世の創作だということをほのめかすようなことを書いている。新約聖書にある文書は、成立順に並べれば、パウロ書簡、福音書使徒言行録、黙示録であり、パウロ書簡には一部例外を除いて、福音書にあるイエスの言行については触れられておらず、このことから福音書にあるイエスの言行とされるものは、パウロの活動していた期間には知られておらず、その後に広まったことが推定されるのだそうだ。

 
パウロの言葉からは、信仰への深い洞察と愛のメッセージが読み取れるのですが、それらを全く感知できない楽山は、どっちが先・・みたいな、しかも「だそうだ」という書き方の、楽山だけに通用?している無責任な屁理屈の世界で、論破でもしたつもりでしょうか。こだわる対象の設定が、既に、児戯であり、本質とは無縁のところで、ギャーギャー言ってるだけの楽山は、全くの問題外です。
 
何か書いても、笑い者となる楽山は、笑い者である自分に気づかない欠損を表すだけでしょう。信仰の本質に、全然、触れてこないあほらしさが、真顔で書いてくる無駄口には、いつもながら、うんざりします。恥を知らない人だから、これからも、ずっと続くのでしょう。
 

パウロの劇的な改心についても、これと同じ論法で否定されている。使徒言行録では、パウロの劇的な改心について書かれているが、それに先行するパウロの書簡ではそれほど大きくは語られていない。もし使徒言行録にある神秘体験が本当であれば、パウロの書簡でも大きく取り扱われているだろうに、実際はそうはなっていない。これはつまりパウロの神秘的で劇的な改心は、パウロの書簡が書かれた時よりも後になってからできた話だということを示しているのではないかと…。

 
奇跡のような記述についての史実性は、私は分かりませんし、弁明する立場など、ありません。誰も分からないと思います。しかし、厳然たる必然として、パウロは、サウロという名のパリサイ人つまり迫害者だったところから、パウロという名の使徒になったのですから、改心しなかったということは、全く成り立たないのであります。
 
どこまでも、聖書の神秘にだけこだわって、いちばん大事なことについて、全く何も書けない楽山の、ズルズルの垢のように汚い宗教思想が、また、駄々漏れしています。資格のない者というのは、こういう者のことを言います。今回も、自己愛妄想に支配されている楽山の修正不能の悲惨を見ています。
 

著者はこの他にも、キリスト教マーケティングイノベーションだとか、パウロの顧客創造などと言って、企業経営の観点からキリスト教を論じたり、日本のキリスト教では預言者と予言者を区別するが、英語では両者は区別せず、どちらもProphetということになっているだとか、日本では「聖母マリア」と呼んで、マリアの母性が強調されるが、海外では「処女マリア」として処女で身ごもったことが強調されているとして、日本のキリスト教は、元々のキリスト教とは違っているかのように語っているのだから驚かされる。

 
「日本のキリスト教は、元々のキリスト教とは違っている」・・楽山は、ここが言いたいのでしょう。しかも「強調されて」「驚かされる」と、わめきたいのでしょう。本質を外れて、しかも、理路が整っていないので、醜さだけをまき散らして見せる結果になっているのは楽山のほうです。よく書けるものです、傍観しているだけで、こんな寄せ集めの、批判にも何にもならない嘘っぱち。
 
反キリストは、キリスト教とキリスト信仰を批判するのではなく、いちゃもんをつけて、おとしめることだけを考えています。だから、子供のように、違う、違う、と言い続けるのでしょう。違っているのは、良心も常識もない楽山のほうです。
 

本書の冒頭において、著者は、キリスト教の入門書は多くあるが、大抵は、キリスト信者による布教を目的とした本ばかりなので、キリスト信者ではない者による客観性を保った入門書を書いてみようと試みたとしているが、全体を通読してみると、著者の真意ははたしてこの通りのものであったのかどうかという疑念を抱かないではいられず、それを払拭するのは難しい。私見ながら、本書は「キリスト教入門」ではなくて、「キリスト教の正体」だとか、「キリスト教の現実」とでも題すべきものだと思う。

 
宗教書に、客観性を保つ書などありません。まだ言ってるという感じです。客観的に語れないから、共感と良心が必要なのです。人間に必要な信仰は、そこにしかありません。といっても、楽山には、分からないのでしょうけれど。
 
キリスト教の正体」「キリスト教の現実」と言っているのは、キリスト教の本質を全く知らないし知ろうともしない楽山なのですから、どれだけ背伸びして、本を読んだつもりでも、読書家を気取っても、的も定まらず、説得力もなく、駄々をこねる子供が、小便をまき散らして大人を困らせている体にしかならないのです。
 
今回も、呆れるような程度の低さで、宗教?に見せかけた楽山の記事に、誰も、頷くことのないように願います。あちこち、いちゃもんをつけては、嫌われてゆく運命なのでしょうか。病質者の定めを感じます。楽山が覚悟しているとは思えませんが。
 
良心も常識もない楽山は分からないのでしょうね。書けば書くほど、下種(ゲス)ぶりが明らかになること。楽山は、早く宗教から手をひいて、醜いものばかり見せるのをやめてほしいものです。
 
言論をしたい人に、的外れで無駄な時間を使わせないように。心の弱い人に、下種の臭いを移さないように。誰も無意味に疲れさせることのないように。
 
どうか、楽山の記事やコメントから、何かを受け取ろうなどと思わないでください。決して関わることのないようにしてください。特異な欠格者である楽山が伝染する、いかなる、いちゃもんについても、楽山はまるで責任を取らない人ですから、決して近づかないでください。

 

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渡る先のない者


 
 
(2020年09月20日)
 
 
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