ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

どんでん返し

 
  どんでん返し?
 
 
信仰について救いについて
「どんでん返し」という言い方をする者がいたが
その意味は恐らく
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:12
だれでも自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるであろう。
 (マタイ23:12、新約聖書
 
といったような聖句から
この世での価値と神の定める価値は逆だ、
神の裁きにおいてはこの世の価値はひっくりかえる
という意味なのだろう。
どんでん返しが起こって救われる
という言い方をしていたようだが・・
 
しかし
今は低いが
神によって高くされる
と信じて疑わない者の心は
低いのか。
むしろ高ぶっているのではないか
 
今は低いという不遇の復讐を
神に約束されている気分ではないか。
 
ならばそれは
怨念に基づく信仰ではないか。
 
はたしてキリスト者
すべて救われるのだろうか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:30
多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。
 ・・・
20:16
あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
 ・・・
21:31
エスは言われた、
「よく聞きなさい。
取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
21:32
というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
 (マタイ19-21章より抜粋、新約聖書
 
神を信じていると言う人が救われる
というわけではないようです。
 
取税人や娼婦は戒律から
神に背く者たちとして
いつも低く見られて責められ軽蔑されて
高いとするための材料が何もなく
思い上がりようがなかったのだろう
ということを考えます。
 
彼らに整った信仰があっただろうか。
 
彼らは
罪を意識せざるを得ない立場しかないことによって
主の前に謙虚であり得たのだろう。
 
彼らが先に救われると
キリストは優先順位みたいに語っている。
 
神を信じるキリスト者が救われるのではないのだろうか。
この逆転した優先順位みたいなのは
いったい何なのだろう。
 
思い上がらないことだ
と言うのは簡単だが
態度と言葉だけ柔和に見せている人を見てきて
うんざりしている私から言えば
 
謙虚でありなさいと
思い上がってはいけませんと
高ぶる者は低くされるからです
などと、平然と、
思い上がった人が語ることもある。
 
私たちは、そういう偽善のリスクからも
自分自身を除外してはならないと思います。
 
どんでん返しを信じていたら
どんでん返しのどんでん返しが
起こったりするのではないだろうか・・
 
そもそも
整った信仰を保持すること自体が
人間には無理ではないのか。
 
整って保たれている信仰は
人の世界には存在しないのではないか
とさえ思います。
 
私たちは、私は、あとになるのか、先になるのか、
それよりもだいたい、神の国に行けるのか・・
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:42
無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。
 (ルカ10:42抜粋、新約聖書
 
それは分かっている、
こうだよと言う者を警戒してください。
 
私たちは、私は、分かってはいないのです・・
自分が何をしているのかさえ分からずにいるのです
・・何も整ってはいない・・
 
整っていないし保たれてもいない信仰には
何の救いがあるだろうと考えると
 
不安定であるがゆえに
折に触れて省みて
修正可能と更新を求めざるを得ない立場であり続けられるなら
その動態のエネルギーとでも言うべき何かは、
自分の信仰を得て守るのではなく、
いつも新鮮な信仰を求め続ける祈りと願いとして
人の年齢や状況にかかわらず成長を願う上で大切だろうと・・
 
そのためには、正しくあろうとする態度よりも、
一途に、神の前に、精いっぱい
正直であろうとすることだけではないか
とさえ思われる。
 
だからこそ、知能の高いものや知識の豊かな者といえど、
それゆえによく理解して救われるのではなく、
 
キリストは、
現実に置いて立ち直ることもできず、自らを救うこともできず、
ゆえに救いと癒しを求めて一途でしかありえなかった娼婦や取税人を
教理を理解したかではなく、砕かれた心の持ち主として、
救われるモデルのように高く評価したのではないかと思われます。
 
信仰に一途ということは、
熱心に教理を唱えることとは限らず、
一途でしかありえない人間であるかどうかであり、
そこには、能力とか善行とかを超えるような
いちばん大事なものがあるということでしょう。
 
どんでん返しとは
決して敬虔を装う世辞や根性で起こることではなく、
さらに、善行において起こる本質でもなく、
 
むしろ、どんでん返しが起こるのは、
救われそうにないかのように
何の資格も能力もなく
どうしようもない自覚において、
世間一般の常識を覆して救いがあり、
誰よりも
そういう自覚に至りやすいゆえに
娼婦や取税人が、無くてはならぬものに最も近く
一途であるという信仰の義になるのでしょう。
 
信仰が、知識や能力によるものではない
ということのモデルなのでしょう。
 
 
あえて、どんでん返しを信仰に当てはめるならば、それは、熱心に信じるから、何があっても最後には救われる、という意味ではありません。
 
強くなく正しくなく高くなく罪深くて低くても
祈りの正直さのみをもって救われるという意味です。
 
 

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              どんでん返し(画像)
 
 
(2015年10月30日)
(2020年09月25日、一部修正)
 
信仰を言葉にしようとするときに
いつも感じる不全感は、ある意味、それこそ
信仰を考える上でのヒントのような気もするのです。
 
 
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