ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の破綻1

 
  楽山の破綻1
 
 「ウソの国ー詩と宗教」を読んでみた 1
 2020年10月03日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26485053.html
 
 
楽山という個人カルト思想を、ずっと批判していますが、カルト集団かもしれません。
 
「>、<」だけの部分が楽山の文章です。今回は、引用されている私の過去の意見と、私の今回の意見は、それほど変わっていないので、特に区別していません。楽山は、批判返しのつもりでしょうが、嫌がらせでしかありません。
 
楽山は、記事の、驚くべき、無駄な長さだけで圧倒してきますが、自分が、いかに、できる人かを誇示したいようです。しかし、楽山は、思った通りの、破綻(はたん)を見せているだけです。
 

*ひさしぶり
LEO氏が、st氏の楽山批判を高評価していたので、試しに読んでみました。
ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12601206835.html 
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12562708980.html
(※このあたりで引用されている該当アンチの、幸福の科学への批判の浅はかさ・愚かさに唖然とすると思います)
・『アンチとのディベートは不毛だなぁと今更ながら振り返る』記事のその後 - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
以下に、自分なりの感想を書いてみます。
今回は、文字色を変えた方が見やすくなると思うので、次のように設定しておきます。
・青(st氏に、引用された楽山の文章)
・赤(st氏の文章)
・黒(今回の楽山の文章)

 
色分けは、こちらはしていません。
 
既に、破綻と嘘と偽善が明らかになっている楽山の記事について、時に今までもあったことだが、一度に無駄な文章をだらだらと書くことだけが、楽山の能力なのでしょうか。要点を書けない人のすることでしょう。
 
つまり、理解を得ようなどとは、全く考えていないからなのです。これだけ長い記事を見せられるほうは、たまったものではありません。しかも、中身は雑で粗くて、結局、空っぽなのです。理解と共感を求めて楽山日記を読んだ後には、疲労だけが残る習いであります。
 
読む人のこと、他者のこと、まるで考えないで、自己愛だけで書く楽山の特徴が表れています。今までも、長いだけの記事があり、一見、詳しいようで、実際は、疲れるだけ、という、同じことを繰り返す記事が目立っていました。記事のフォントが大きいのも、見栄に思えてきます。
 

*記事別
まずは、こちらの記事から。↓
・まとめ芝居(2)- ウソの国ー詩と宗教
本来なら、要点だけ引用し、コメントすれば十分でしょうが、今回は全文について感想を書きます。

 
つまり、そういう要点が不明なのが、楽山の文章です。
 
>*冒頭部
 
楽山の、いい加減な理路と、作為的な詭弁と、無反省のもたらす、乾いた垢のような嘘と詭弁と認識不足が、漏れてきます。
 

*知
知と聞くと、『知の原理』の冒頭で紹介されていたピンの話を思い出す。自分の通っていた支部ではこの影響を受けて、何か問題があると決まって「ピンは何か」という議論になったのだった。今でもこのピンの話はいい話だったと思う。
ただこれはアランのエッセーにある話を、大川隆法が紹介したものであるから、大川隆法というよりアランが偉かったということだろう。考えてみればこの話に限らず、大川隆法の話の中で、自分が感動したことの多くは、他者の受け売りであって、大川隆法自身が発見体得したものではないことが多い気がする。

 
困りますね。ピンは何か、と言いながら、いい話だったと、説明も解説も無しです。
 

当該記事の冒頭で示しているように、ここで想定している読者は、HS教義を知っている人です。したがって些末な説明ははぶいてます。あしからず。
ピンの話についてお知りたいなら、大川隆法の「知の原理」、アランの「幸福論」を読めば分かります。
幸福の科学の基本教義について - 楽山日記(LD)

 
楽山を批判するために、楽山が書いた記事の問題点だけを対象としています。楽山が「HS教義を知っている人」というなら、そう書くべきでした。記事は、一般読者に、公共に、公開されているのです。
 

*神の一面
ああそうだ。大川隆法の本…たしか『太陽のメッセージ』だったような気がするが、浜辺の足跡の話を読んで大いに感動したことがあった。守護霊がおぶってくれているという話で、こんな話ができる大川隆法はすごいと思ったものだった。でもそれからずいぶん経ってから、曽野綾子の『老いの才覚』で、これと同工異曲の詩が紹介されているのを読んで仰天させられたのだった。浜辺の足跡の話は大川隆法のオリジナルではなくて、キリスト教の方ではとても有名な詩だったのだ。こういうのはズルいと思う。(参考・浜辺の足跡 ・Footprints 『浜辺の足跡』 アデマール・デ・パロス)
仏陀再誕』にある草笛の音の話は、今でも好きだが、もしかしたらこれも仏教説話かなにかが元ネタになっているのかもしれぬ。

 
フットプリントの詩は、いつも助けてくれる神を描いている好い詩ですが、残念ながら、欠点として、戒める神と懲らしめる神への恐れを描いていません。その結果、カルトに、いいように利用されています。凶悪カルトの偽善者シャロームも引用していました。
 

神の愛をテーマにしたであろう詩について、懲らしめる神について触れていないのは欠点だというのは、いささか酷な批評です。
どれほどの言葉を重ねても、神のことは語りつくすことはできないでしょう。一編の詩であれば、テーマを絞らざるを得ないでしょうし、神の一側面が描かれていれば上出来だと思います。
またHSでは、神の愛を説くこともあれば、厳しい神罰を説くこともあります。カルトは、愛の神に限らず、戒める神、懲らしめる神も、マインドコントロールに利用するものです。

 
「どれほどの言葉を重ねても、神のことは語りつくすことはできないでしょう。」・・その神を、悪を放っておくから、おかしいなどと、小中学生レベルの疑問のまま、けなしていたのが、楽山です。
 
今になって、理解者であるかのように、白々しい世辞を言っています。これが、詐欺師の作為と悪意なのです。どうしても出てしまいます。
 
「神の一側面が描かれていれば上出来だと思います」・・一側面だけでは、ありがたや宗教に堕してしまう、というリスクが、楽山には理解できないようです。つまり、上出来だと無批判でいられるのは、楽山が部外者だから、また、キリスト教など、どうでもいいからです。
 
こともあろうに、神を、まるで子供の描いた絵を褒めるように、よしよしと撫でながら言っているような評価を与えている楽山の、いい加減さと無理解さが表れています。
 
クリスチャン芝居もするような詐欺的精神の持ち主である楽山の自己中が既に全開です。
 
楽山は、宗教批判も、対話芝居も、嘘偽りを、ただただ、自分を高めるためだけに利用してきました。最悪なのは、楽山なのです。
 

*ズレ
さて前置きはこれくらいにして本題に入ると、HSでは与える愛のためには知が必要だとしていたと記憶しているが、自分の経験からするとこれは違うように思う。
たとえば生かす愛の実践のために知を用いようとした場合、自己の内面をよくよく観察すれば、心に理想を描き、自分の影響力を行使して、相手をそれに近付けようとしていることに気が付くだろう。つまり、「Aはこうあるべきだ」として、現実のAが自らその方向に進むように誘導しようとしている。これはHS的には奪う愛だろう。愛に知を持ち込めば多かれ少なかれこういう落とし穴は避けられないと思う。

 
HSというカルトのことですから、愛のために知が必要というのも、奪う愛以前に、愛ではなく、思いこみや信じ込みから従順への誘導のことでしょう。
 
恐ろしいことですが、楽山は、「愛に知を持ちこめば・・落とし穴は避けられない」という結論に結び付けてきます。愛が偽物であれば、知?を持ちこむ話も、嘘なのです。
 
楽山の話は、愛と知を結び付け、カルトという前提もなく、知が誘導であり、ゆえに、愛の落とし穴は避けられない、などと、成り立たない話を前提にして語る、愛をおとしめる詭弁です。
 
カルトには、楽山やシャロームなどの易坊類がそうであるように、愛は成り立たず、信じ込ませる詭弁・誘導があるだけです。
 
HSについてはネットその他などから伝わってくる印象から書いています。批判というほどの体を、未だ為してはいないと思います。
 
楽山については、直接、記事を読んで、嘘、詭弁、無反省、無責任など、許容しがたいものがあるから、批判しています。
 

HSの教えと現実の人の愛についての話に対して、st氏はカルトの教えは間違いに違いないと決めつけた上で、ご自身の考える理想の愛について語っています。

 
楽山によれば、カルトの教えは間違いとは限らないのでしょうか。私は、HSについては、よく知りませんが、楽山が今まで引用してきた奇想天外なORの発言や主張についての私の感想から述べたわけです。
 
私が、今のところ、直接のHS批判記事を書かないのは、よく知らない、つまり、情報不足だからです。それよりも、楽山の、無理解・無反省・無責任という悪辣さが、吐き気がするほど、伝わってきているからです。悪意を、よさそうに見せる偽善者である楽山が最悪なのです。
 
つまり、楽山のほうが、より悪性度の高い偽善者、無責任教師、言い換えれば、自己満悦したいから受けをよくする偽装をしているところの、自己中カルトだという判断です。
 

これは全然別の話です。大雑把に言えば、私が「Aはバツである」と書いたのに対して、st氏は「Bは☆なのだ」と主張しているようなものです。これでは話は噛み合わず、議論になりません。

 
楽山は、論理学でもかじったのでしょうか。時々、こういうABC的な書き方をしますが、意味不明です。情緒面での欠陥からは、独特の詭弁が生まれるのでしょう。それが通用することはないのです。
 
もし、一つが間違いだから、別のが正しい、という詭弁のことを言っているなら、私が言うことは、それまでの経過からの多くの根拠に基づいて、楽山の思考も情緒も、おかしいという主張だということです。
 
「話は噛み合わず、議論になりません」・・驚きです。議論をしていたつもりなのか。私は、批判に転じた時点から、楽山を議論対象とはしていません。だから、以前していたようなコメントを入れたりすることは、やめています。議論ではない。批判によって、楽山を糾弾しているのです。
 

また私がいっているのは、「愛をおとしめる詭弁」ではなく、人には、私心の無い、完全な愛を実践するのは無理だろうということです。愛を否定しているのではなく、人の不完全さの指摘です。

 
嘘です。何故ならば、楽山は、いつも、肯定だったり、否定だったり、いい加減な、その時々の主張を言ってきました。しかも、訂正をせずに、断定していないからと、責任を負わない態度が、既に明らかとなっています。今さら、何の正当化が出来るでしょう。こういう態度こそ、人の神経を逆なでし、人を疲労させるのです。
 
人の不完全というのは、私のブログの主張の主軸となる、私の主張です。ここで、楽山が、それを利用しています。同じ言葉を使えば、混乱を招く要因となりますが、楽山は、恐らく意図的なのでしょう。楽山は、そういう混乱因子でもあります。
 
これまでにも、反省などという言葉を、軽く使って批判をかわそうとしてきました。私が使っている言葉を、楽山が使って、「反省。トホホ」・・寒気がします。不完全、反省、いずれも、楽山の記事に、その実質が表れたことがないのです。
 
実際は、相変わらず、無理解、無反省、無責任が続いている状況で、楽山の文章は、ますます、その悪性度を増しています。楽山の発言の信用は、既に、とっくにゼロなのです。だから、改めるように、ではなく、止めるように言っているのです。読者に、近づかないように訴えているのです。
 

ある程度の内省力と信仰心がありさえすれば、自分がどんなに利他に尽くしているつもりであっても、心の奥に潜んでいる利己心に気づかないわけにはいかぬでしょうし、もし仮に真から利他に尽くせたときがあったとしても、それは神の働きによるものであって、自分の力によるものではないことが分かるでしょう。私の文章はこれを実感している人に向けて書いたものですが、残念ながら、st氏には全然伝わっていないようです。

 
そういう内容ではなかったと言うしかないでしょう。またしても、「真から利他に尽くせたときがあったとしても、それは神の働きによるもの」などと、歯の浮くようなセリフを書いています。
 
残念ながらではなく、当然のように、楽山の悪意と作為は、一時的に人をだますことは出来ても、結局、どこにも、誰にも、伝わりません。楽山は、下手な芝居をする大根役者、そして、中身は、大嘘吐きです。
 

*誤読? 歪曲?
またHSでは、知の世界より信の世界の方が広いとしていたと記憶している。「知ることと信じること」という論考だったろうか…。自分はこれは反対だと考える。人は知っていることしか信じることはできないのだ。

 
知っておれば、信じる必要はない、ということで、楽山は、宗教と信仰には、まるで関心を持てない人だということが明らかになっています。
 

私の書いたのは、「人は知っていることしか信じることはできない」です。「知っておれば、信じる必要はない」ではありません。
A「人は知っていることしか信じることはできない」
B「知っておれば、信じる必要はない」
Aを読んで、Bという意味だと受け取るというのは、どうかしてます。st氏は、昔から、この種の誤読、歪曲、捏造が多いです。気をつけてください。

 
知っていることは信じる必要はない、という言い方も出来ます。つまり、知っている、という言葉は、その前後関係で説明しなければ伝わらない曖昧な言い方です。そういうことを、楽山が、知っていないし、曖昧さを利用して、様々な詭弁を弄してきたのです。
 
そこには、自分の言ったことは、誰にとっても真理であり、区別するのは、読む側の責任だ、と言っているのと同じであり、楽山の無責任体質が表れているに過ぎません。いつも丁寧語で書きながら、それとは裏腹に、いつも上から、不都合を人のせいにして、人をバカにしてくる体質の表れです。
 

*またもや、ズレ
神、霊、あの世、宇宙人…などの観念、言葉を知ってから、それを信じる、信じないという選択が生じる。もう少し詳しく書けば、特定の観念、言葉を知ってから、それが現実かどうかの確認があり、その結果現実と確認できなかったものについて、信じるか、信じないかという選択が生じる。知の世界は、信の世界よりもずっと広いし、信の世界と不信の世界は同程度の広さを持つのだろう。信の世界はそれほど広いというわけでもない。

 
楽山は、知らないと気が済まず、偽りの知識と思考を振り回してきました。その体質が明らかになっています。全能の神を知ってから信じるというのは、最初から出来ないことです。
 
信仰は、神・キリストを信じるのであって、その材料は、自分が聖書を読んで、どう感じたかにかかっています。そして、聖書に感動した人は、キリストに希望を託すようになります。
 
楽山は、聖書を読んで、何も受け取らなかったのなら、知って信じる信仰どころか、感じて信じる信仰にも縁はないでしょう。知ってから信じる、というのを、神に当てはめる楽山の思い上がりの酷さが浮き彫りになっています。
 
現実において確認できなかったというのも、字面の知識にこだわっているからであり、感性も知性も、頭も心も、反省せず学習しない楽山においては、信仰に至る器と成っていないのでしょう。
 
楽山は、恐らく、目に見えるものと字面だけでは信仰は語れないことを、自己愛の自尊過大から認めたくないようですが、信仰を語れば、いつも、的外れになってきた理由を自ら表しているのです。
 
だから、自分の知の世界に悦に入るほど慢心し、はてしない神の世界を愛することも恐れることも出来なくなっています。カルト信者の多くは、そうなのかもしれません。
 

お尋ねしますが、st氏は、全能の神、キリストという言葉も、観念も知らず、聖書も全く読んだことのない状態で、全能の神、キリスト、聖書を信じることはできるでしょうか。無理でしょう。私が、信じるまえに、知る必要があるというのはそういうことです。
また、私の意見は、「人は、全能の神の全てを知り尽くしてからでなければ信じることはできない」というのではありません。「人は、『全能の神』という言葉、観念を知らないうちは、それを心に思い浮かべることも、思案すること、信じることもできないだろう」というものです。

 
言葉を知る、ということは、不完全ながら概念を得るということです。また、知る、ということは、深く知ることをも意味します。この辺の違いを、楽山は、緩んだ思考によって、持ち前の曖昧言語、ボンヤリ言語で刷り込もうとして破たんしてゆくのです。
 
「言葉も、観念も知らず」、というのは、不完全な概念さえも知らずに、ということでしょう。即ち、その言葉を未だ知らないわけですから、言論と理解以前の問題です。
 
楽山が、その意味で書いたのなら、それは、例えば、意識はある、体はある、というようなことで、それで、なければできない、と言っているわけですから、殆ど、肯定が当たり前のことだから、言論に持ち込むべき必要がない余計なことなのです。
 
このように、楽山の言は、余計な惑わしにあふれています。まともに受け取ると疲れるのが必然となっています。ゆえに詭弁でしかないのです。言い訳も実に見苦しいです。
 
それと凄いのは、現実かどうかの確認をしないと、信じないのだそうです。楽山の世界では、一切の宗教は成り立たないという全否定になってしまいます。どうりで、楽山には何も通じないはずです。
 
この記事で、楽山には、常識的な理路が通じないことを確認し、併せて、できる範囲で、楽山のボンヤリ言語とトホホ言語を分析していきます。そこに、楽山の病巣と病理があるだろうと思います。言い逃れ、言い逃れ、言い逃れ、・・に終始して、唾を飛ばしている格好の楽山です。
 

ちなみに、近頃のHSでは、大川隆法は、エルカンターレという神の名を知らしめ、エルカンターレ信仰を打ち立てるために降臨したといっているようです。これはつまり、エルカンターレ信仰をはじめるには、まずその名と概念を知る必要があるということでしょう。信じる前に、知る必要があるということです。当然ながら、この「知る」は、「知り尽くす」ということではなく、もっと広い意味での「知る」です。

 
楽山の思考の大きな欠陥として、概念だけを知って、総てを語る、ということがあります。神という分析不可能な対象についても、概念、しかも、字面の先入観念をもって、神がいるのに悪があるのはおかしい、などと、いちゃもんをつけてきました。
 

*カルトに加担する人
最後にHSでは、霊的知識の大切さを説くが、この世では霊界も過去世も何も知らない状態で、いかに善く生きるかが課題とされているとすれば、いたずらに霊的知識を求めるのはおかしなことであるし、一種のカンニングと同じ不正行為となるだろう。

 
カルトは、その人が罰せられるだけの「カンニングと同じ不正行為」ではなく、他者を巻き込んで人格と人生を破壊してゆくところの、インチキで悪質な詐欺行為なのです。
 
テレビなどで見た、オウム真理教などのカルトの印象です。まだ、その後遺症が、集団として残っているようです。私が知っているつもりのキリスト教・キリスト信仰と、どこが違うのか、ということを中心に私のブログに書いてきたわけです。
 

カルトは布教活動に熱心なところが多いですから、「他者を巻き込んで~」というのはその通りではあります。
ただし、st氏は、そういうカルトを、間接的に応援していることを自覚すべきです。
HS信者のLEO氏は、st氏によって、自分の信仰の正しさを改めて確信し、信者仲間にむかって、stブログを宣伝しています。
この点において、st氏は無自覚ではあっても、カルト批判の無効化に力を貸しているわけであり、カルトの協力者です。

 
自分が批判されるのを避けるために、私がカルトを応援していると、カルトの協力者であると、いちゃもんをつけています。私は、直接に、楽山を批判しています。楽山が、正義の味方と勘違いされることの方が、害が大きいと考えるからです。
 
私は、上の方にも書きましたが、楽山を、誰にとっても、疲労の病原にしかならない偽善的自己中カルトだと判断しています。支持者が、今どれだけいるか知らないが、一人もいなくなることを願っています。
 
楽山が、いつも、丁寧語で、中立を装うのは、全くの芝居であり、本心は、スピリチュアルのリーダーにでも成りたいのではないかと思っています。
 
カルトが、夢物語のような理想だけなら、去ることも、それほど、困難ではないでしょう。しかし、間違って、体質的に自己愛性人格障害者がリーダーになるなら、日常が、刷り込みになります。
 
ある程度、長く付き合って、進行した状態では、もはや元に戻らないほどの障害を残すかもしれません。つまり、何も気づかないボンヤリ人格の楽山その人のような、廃人になってしまう恐れがあるから、批判を続けています。人間の心は、無防備であればあるほど、弱くなるということです。
 
楽山は、決して中立ではありません。慢心と、嘘と詭弁で、様々な気取りで、疲労と無力を与えて、インチキ解説を語るところの、無反省・無責任・無節操の、詐欺的カルトの萌芽以上の悪意なのです。
 
私のエディターで200行を超えたので、今日は、ここまでとします。
・・(2)、(3)へと、つづきます。
 
 
(2020年10月04日)
 
楽山の記事を批判するのには、無駄に時間と手間がかかるので、最近貼りつけている画像の用意は、しばらく出来ないと思います。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
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