ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の破綻2

 
  楽山の破綻2
 
 「ウソの国ー詩と宗教」を読んでみた 1
 2020年10月03日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26485053.html
 
 
むしろ、楽山の手によって、私の言葉が反芻されるのは、反省や訂正も含めて、私の批判を読んでもらうことにもなり、楽山の体質も表れるし、新しい批判も加筆できるので、望ましいことです。
 

*カルトを知らない人
この世において霊界では決して会うことはできない存在から高度な法を学ぶというのは有り難いことではあろうが、波長同通の法則からすれば本来の自分の霊格以上の教えは聞いても聞こえず、そうたやすく身につくものでもない。ましてや霊的知識の学びを自発的に求める者ならともかく、伝道と称してそれを欲しない者に無理強いしても仕方ない。それはカンニングの強要と同じくらいに間違ったことである。

 
カルトというのは、難しい言葉や言い方を好みます。偉大さを装うためです。そういう話を聞いていると、結局、教祖だが持っている能力という話になるでしょう。そこで、カルトの悪臭にも醜悪さにも気づかない者だけが、カルトに魂を売り渡す経過と結果になるのです。
 

カルトの中には難しい言葉を使いたがる団体もあるかもしれませんが、

 
個人としては、まさに、楽山その人です。評論家気取り、学者気取りと、何度も書いてきました。「波長同通の法則」「霊格」、この言葉は常識でしょうか、違います。
 

HSは基本的に平易で、分かり易く教えを説いています。
ですから、st氏の「カルトというのは、難しい言葉や言い方を好みます。偉大さを装うためです」というのは、HSには必ずしも当てはまりません。

 
HSは基本的に・・、と肯定して、私の言ったことには、必ずしも、・・と否定しています。少しでも、悪い印象を吹き込みたいのでしょう。見え見えですね。
 
例えば、"霊言" という言葉は、楽山の中では、すぐ分かる平易な言葉のようですが、多くの人にとっては、首をかしげる言葉です。つまり、そこから生まれる説教も含めて、理解しがたいことが多い、難しく、大仰な言葉なのです。
 
楽山は、HS批判をしながら、一方で、他の霊言を、多く、肯定的に引用しています。楽山にとっては、日常語なのでしょうか。一般とのズレが表れています。
 

ヨシュア氏は、st氏はカルトのことは知らない云々と書いてたと思いますが、これは当たってると思います。

 
ここで、キリスト教系カルトの、自称ヨシュアのことを出してくるというのは、よほど、味方が少ないから欲しいよ、ということでしょう。自分の言葉に、実感と説得力がない表れでしょう。
 

*自分の信者?
*反省
HSでは反省の前提として、正信…正しい信仰が必要だと説いていたと記憶している。たしか『真説・八正道』だったろうか。
自分の考えでは、これはHSの教えを基準にして判断することであり、教団に尽くす善き信者になるための反省ではあっても、善く生きる善き人になるための方法ではない。

 
楽山は、宗教と信仰を語るのに、自分の、字面しか見ないような思考を正しいということを前提としています。つまり、カルト教祖が、自分自身に変わっているだけです。楽山は、まさに、自分の善き信者になっているので、それは、全く、人間として善き人には成れない生き方なのです。
 

私がここで書いていることは、教祖の言葉はすべて正しいと信じ込み、その言いなりになるような妄信に陥ってはいけないということです。たとえ教祖の教えであっても、それが正しいかどうか、よく考えるべきだということです。自分の心を、すべて教団に明け渡してはいけないということです。自分の良心を大切にすべきだということです。

 
ここで、楽山は、HSが邪魔なので、自分は中立で正義の味方アピールをしているふうを装っていますが、ここでも、私がよく使うところの、良心、という言葉を使っています。楽山は、良心というものを、分かっていないと思います。邪悪を、良心という正義の言葉で帳消しにすることは出来ません。邪悪は、悔い、反省し、訂正する以外に道はないのです。
 

こういうことをいうと、HSからは、「それは自分を教祖にした自分教だ」という反論がありますが、st氏もこれと同じ論法をしています。こういうところが、st氏が、HS信者から高評価される所以でしょう。

 
誰でも、自分の発言は、その時は正しいと思っています。そして、必要があれば、ちゃんとその旨を言った上で、修正するのです。しかし、楽山には、その人間的な機能がないのです。美味しい言葉だけ並べて、そう見せかけているだけです。
 
楽山は、いつも企みだらけの自分信仰なのに、私を、偽牧師のシャロームみたいに自分信仰と同一視して、しかも、私をHSに近づける印象操作までしています。
 
これらの詭弁によって、やはり、上の、良心を大切にするという楽山の発言が、嘘だらけだと自ら明かしていることになります。楽山は知らないが、悪意は、臭(にお)ってくるものです。
 

*言葉選び
たとえば、この場合の反省は次のような形になるだろう。
・自分は、エル・カンターレの教えに背かなかったか?
・自分は、エル・カンターレの教えを実践できたか?
こういう反省を繰り返していたら、善き信者になることはできるだろうが、万人が認める善き人になるのは難しいだろうことは明白だ。

 
楽山は、カルトの教祖中心を語りながら、万人が認める善き人になるのは難しいなどと言っていますが、万人が認める善き人などいません。楽山の高慢な楽天的誇大的な軽口が滑っています。楽山の、謙虚でないところが、あちこちに表れていますし、書けば書くほど、子供の洟(はな)垂れのように、さらに表れるでしょう。
 

ここでいう「万人が認める善き人」というのは、「すべての人が認める、一切の悪を持たない義人」という意味ではなく、「多くの人が認めるいい人」といった意味合いです。

 
楽山は、「万人」という言葉の意味が分かっていないことを自ら明かしています。「多く」と言い換えれば、どれほど多いのかが問題になるわけですが、ずっと、いつも、曖昧な言い方で責任逃れをしたい楽山にとっては重宝する言葉なのでしょう。
 
厳密に考えて言うべきだ、ということではなく、楽山は、「万人」のような、厳密に意味を限定してしまう大仰な言葉の使い方を知らないのだと思います。こういう言葉の未熟は、カルトにはしばしば見られることのような気がします。
 

私の言葉遣いにもまずいところはあるでしょうが、流れを無視して、こういう細かいところにツッコミを入れたところで、全体の主旨はさして影響されないから、あまり意味ないです。

 
楽山は、万人と断定して、いないはずの全き善人をいることにして、「万人」を「多くの」に言い換えて、主旨はさして影響されないと言っています。流れの中で、意味を変えてしまって、流れを、自ら乱していることに自覚がないようです。
 
そもそも、楽山の、心無い発言や記事に、全体の流れや、主旨などは、立てられないと思います。つまり、楽山の言に、そもそも、意味がないということです。
 

*神聖不可侵と反省
反省の前に、正信としてエル・カンターレ信仰をおけば、どんなに反省したところで、エル・カンターレ信仰自体は反省の対象にならず、それが正しいかどうか吟味することはできなくなる。反省とはすべてをその対象とするからこそ効果があるのであって、何かを神聖不可侵としてしまっては意味がなかろうと思う。

 
楽山は、カルト教祖などは全く神聖ではないのに、教祖を利用して、神聖不可侵のほうを否定しようとしています。白々しい詭弁です。
 
神聖は、元々、不可侵であり、知ることも、分かることも、見えることも、この地上では出来ない存在として、在って在るもの、という言い方をします。人間は、ただ、神のもとにある自覚をもって、正直に祈る暮らしの中で、神に対して劣る者としての謙虚さ、すなわち敬虔を学ぶのです。
 

HS界隈では、「大川隆法が神だとは信じない」というと、信者側からは「神を否定する発言だ。神を信じない無神論者だ」という非難が返ってきます。どうも信者の脳内では、「大川隆法が神だとは信じない」というのは、「神は信じない」という風に切り替えられるらしい。
st氏もこれと同じです。「大川隆法を絶対視してはいけない」という意見に対して、〈それは神を否定する発言だ。神は絶対の存在だ〉というようなことを返してきてます。こういう話のズレ方は、HS信者とst氏はそっくりです。

 
何のことでしょう。私の発言だというが、意味が分かりません。ORのことについて、私が何か言ったのでしょうか。いちゃもんに過ぎないと思います。
 
それは信仰対象の違い、そして、信条の違いなのです。こういうことも分からないでいるのか。楽山は、駄々ばかりのようです。
 

また、st氏の言葉に付き合って話したとしても、st氏が、「神聖は、元々、不可侵であり、知ることも、分かることも、見えることも、この地上では出来ない存在」と言った時点で、この議論は終わっています。

 
いやいや、この議論は、楽山との間では、一度も始まっていないのです。楽山は、キリスト教の神に、いちゃもんをつけるくらいですから、その神を理解できるはずもないのです。
 

人は、神聖を知ることも、分かることもできないのであれば、人には「これだ! これこそが神聖不可侵な存在だ!」という判断は決してできないことになります。だから私は、人が何かを神聖不可侵だと信じたとしても、その判断は正しいかどうか、よくよく吟味すべきだというのです。

 
私の発言のことを言っているようなので、キリスト教の神について申し上げると、人間に、神を吟味するなど出来ないから、神聖不可侵と言うしかないのです。楽山は、また、何を言っているのでしょう。本末転倒です。よくよく吟味?・・楽山は出来るというのでしょうか、笑止です。
 

私が言うのは、「神聖不可侵な存在を疑え! 否定しろ!」ではなく、「これこそ神聖不可侵な存在だ!」という自分の判断は正しいかどうか考え続けるべきだということです。

 
まさに、字面の屁理屈の世界に溺れている者の発言です。神聖を確認しようなどと言うことが、既に、間違っているということです。神についての判断が正しいかどうかなど、誰にも分かりません。だから、分からない御方を恐れながら信じる、他に希望がない、という信仰の生き方があるのです。
 
経験と聖書から、日々の糧を求めるのが、キリスト信仰であり、キリスト者は、神聖ではないので、その信仰に、持てる知性と感性を注ぎ込むのです。どれだけ、神を確信しようとしても出来ないことこそ、キリスト信仰の原初なのです。
 
「・・だ!」などという確信は、人がいくら考えても、神聖かどうかの判断については、ありえないのです。神聖を決めつけることは、カルトへの道です。
 
訂正不能の無神経・無反省・無責任の楽山には分からないようです。楽山は、途方もない虚言を、発して、砂山を気づこうとし、判断しないのが正しいという人間性放棄の主張をしています。
 
それで、責任のない立場に立とうとしています。それは、そのまま、無責任という悪行なのです。なお、私のこの件についての発言は、キリストの名を付けたように、キリスト信仰者の立場からの発言です。
 

*HS用語
*発展
自分の記憶では、発展とは愛の拡大であり、より多くの人々を幸福にすることだと教わったように思う。これには、なるほどと共感できる。

 
発展を愛の拡大と言っているのは、どこで教わったのでしょう、HSなのでしょうか。楽山は、なるほどと共感できる、と書いています。HS独自の意味付けであろう"発展"という熟語、・・カルトを抜けきっていない証拠でしょう。
 

上に述べた通り、この記事は、HS教義をテーマとしており、それについてある程度知識のある人に向けて書かれたものですから、HS用語を使うのは当たり前です。

 
つまり、HSの "愛の拡大" に、「なるほどと共感できる」楽山は、"愛の拡大" が分かると言いたいのでしょうか。愛、そして、拡大、いずれも、とても即答できるような安易さを持たない言葉なのです。
 
楽山は、HSを批判するのではなかったでしょうか。HS用語を、なぜ、鵜呑みにするのでしょう。これは、つまり、HS要素を残したいということでしょうか。本当に批判者なのか。本当は、自分がリーダーになりたいのではないか、という疑いが生じます。
 

カルト批判には、外部の論理によって批判する方法もあれば、内部の論理によって批判する方法もありますが、ここで行っているのは後者であり、カルト教義および世界観の内において、その矛盾を暴くというものです。ですからカルト教義の用語を用いるのです。

 
カルト教義の用語を、まず、疑って考えなければ、批判にはならないのです。
 

こういう事情を察せず、HS用語を使うのは、マインドコントロールが抜けきっていないとか何とかいうということは、st氏はカルトも、マインドコントロールも何もご存じないことを自ら暴露しているということです。申し訳ないですけど、HS批判について、知ったかぶりをして、ちょろちょろしてくるst氏は、非常に邪魔です。

 
私は、一途に、楽山を批判しています。HSについては、楽山の書いてくる理路の破綻と詭弁を明らかにするために、読んで書いているわけです。
 
私が、楽山のことを言論の邪魔とか妨害とか言ったものだから、楽山も、私のことを邪魔と言ってきました。批判に答えられない楽山ですから、邪魔と感じるしかないのが成り行きですが、邪魔という言葉を返せばいいという問題ではないのです。字面の言葉だけ振り回す楽山は、そうしないではおれない窮迫性と強迫性と狂気か何かがあるのでしょう。
 
私は、無反省で無責任な楽山には、何に対しても批判をする資格はないと言っているのです。
 
無神経で、無理解で、無反省で、無責任で、不都合を感じないでいられる、不祥事に気づかないでいられる、という体質的な防衛機制は、主観的には、自己中心だから、苦痛が無くて、楽なのかもしれないが、それは、平安でもなく、平静でもなく、苦難に耐えるヒーローでもなく、論者として成り立ってもおらず、立場もなく、堂々としてもいないし、ただ、欠陥があって、鈍麻して、必要な感覚がない、というだけなのですから、言い訳がましく、さらに、その場しのぎの嘘を吐いて、卑怯にも逃げ回っているだけの体(てい)になっており、とても、見苦しくて、哀れで、悲惨なことなのです。
 

でも大川隆法の主張を聞いていると、信者数、公演回数、霊言回数、著作数の多さを繰り返し強調し、それらを増やすことをもってHSの発展と自分の偉大さの証明としているようだ。常々唯物論は間違いだと言ってはいても、この主張を見る限りはかなり唯物論的な思考、価値観によって発展をとらえているようでおかしい(笑)。

 
唯物論的、というより、俗物的と言うべきでしょう。
 

一般的にはそのような表現をするのでしょうが、記事のテーマの関係上、HS的に唯物論的だとか、この世的というような言い方をします。

 
楽山のテーマは、HS批判のはずですが、HS的に言うのだそうです。言語世界が、まだ染まったままです。HS用語の意味の真偽には無頓着なのでしょうか。
 
まだ続きます。(3)へ。
 
 
(2020年10月05日)
 
 
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