ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の縋りつく言葉

 
  楽山の縋りつく言葉
 
 「第九講 神智の探索」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年10月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26558323.html
 
 
既に、私の批判記事、特に3+4=7つの批判記事によって、楽山が、興奮することで、根拠のない決めつけによる罵詈雑言の機関銃の本性を持つことが証明されています。
 
にもかかわらず、楽山が、なおも、懲りずに、書いてくるのは、なぜでしょう。それこそ、楽山が、病質者であることの根拠であり、証拠なのです。
 

「第九講 神智の探索」を読了。例によって、内容をメモしておきたい。
「第十一章、十二章の研究」
「悪しき者は来世の生活を厭う、これ罪の罰を懼るるからである、故に悪しき者の望は死(絶滅)であるというのである」とは、ヨブが死を願うことに対する語。「ゾパルはヨブは罪人となし、愚者となし、また悪しき者」とみなしている。
「畢竟かの新説と称するもの、概ね旧説の焼き直したるに過ぎない」のであって、「ただ外衣と装飾とを異にせるのみであ」り、中身は変わらない。

 
悪しき者、というのが、楽山のような偽善者を意味するのか、救いの対象となる罪深い人を意味するのか、楽山は書いていません。楽山の、共感のない浅はかな言語では、書けないのかもしれません。ヨブは、信仰者であり、私たちであり、ヨブは、最後には、悔い改めて、救われました。
 

「彼らは自己の抱く思想、自己の信ずる教義、自己の選ぶ行動、悉く真正妥当にして最もよく真理に適えるものと做す。彼らは自己中心の徒である。自己のすべてが神に適い、神はいたくこれを賞でてすべてにおいて己の味方であるとなす。すなわち彼らは己を悉く棄てて神に随わんとするに非あらず、己を悉く立てて神をしてそれに随わしめんとする、否神がそれに随いおるとなすのである。これ最大の自己中心である。実は最も「神を怒ら」するものである。彼らの類は世に甚だ多く、しかして富み栄えかつ安らかである」

 
神を、自分の味方として決めつけることを戒めています。信仰者は、判断し、行動し、その裁きを神に委ねます。私は、できることをしているだけです。こういうことは、何度も書いてきたのに、楽山は、まるで分からないのです。
 
楽山は、分からないという自覚がなく、整っている自覚だけに思い上がり、部外者であるのに、偉そうに、神とキリスト教に、幼稚な軽口で、文句ばかり言ってきました。この楽山の語る宗教は、真実の欠片も含んではいません。
 

「すべての天然物は我らに神の測りがたき穎智を教う」
「神の著わせし書物に二つある、甲は聖書、乙は自然界(全宇宙)である。両者を知りて初て神を知るにおいて全い。自然研究の効大なりといわねばならない」

 
聖書と世界を知ることで、全知全能の神の存在を知り、神のもとで、人間としての知・情・意を知るという意味でしょうか。加えて、人間を深く知ろうと努めることで、楽山やシャロームのような反キリストの偽善者などとの区別も知るようになるのでしょう。
 

「天然を通じ人事に徴して神智神能の絶大を知るほか、なお一事を知らずしては、我らの神に関する知識、また救に関する知識は不充分である。なお一事とはすなわち罪の自覚である」
人は、自然によって神の力を、歴史によって神の智を、啓示によって神の心を教わる。
この講義録を読みつつ、以前、自然神学にまつわる論争について何かで読んだことがあるのを思い出したので、検索してみたら、次のページが出て来た。

 
楽山は、「罪の自覚」を知らないゆえに、「神に関する知識」を台無しにしているのです。
 
勘違いしないでください。自然を知れば神の力を知るわけではありません。歴史を知れば神の智を知るわけではありません。啓示は誰にでもあるものではありません。都合の良いところだけを引用する片落ちの安っぽい楽山にだまされないでください。
 
人間が知りうることは、神に比べて、ごくわずかであり、不完全なのです。楽山は、浅薄な知識と読書をもって、神を知ったつもりになっているのでしょう。このような楽山の真似をしていたら、元に戻れないピエロになって、元気ですと、高笑いし続けるだけになるでしょう。
 

・「自然」を神学する | 教文館出版部
たぶん、自分が何かで読んだ論争は、この書評にある論争なのだろう。神学の知識のない自分にはちんぷんかんぷんであるが、せめてこの論争のさわりの部分だけでも理解できるようになりたいものである。

 
楽山は、また、自分だけの霊能者気取りと、恣意的な解釈と、曖昧な思考で、誰にとっても迷惑な自説を作る材料を漁っているようです。楽山は、自然を学べば自分は神を知ることが出来る、と言いたいのです。宗教と信仰を知らない満悦者の思い上がりは、恐ろしいものがあります。
 

著者が語る自己中心的な人々については、おそらくは、このような心理なのだろうと想像する。
正義という快楽
「正義」は危ないということはよく聞くことではあるが、こういう人たちは、罪なき者だけが石を投げよと言われれば、胸を張って石を投げそうだから怖い。でも自分にもそういうところはまったく無いと断言できないところはつらい。反省。

 
楽山は、自己を正義とする権化みたいな人です。衝撃を受けるべきところを、部分否定で「そういうところはまったく無いと断言できないところはつらい。反省。」とは、・・また、嘘を吐いています。このように、楽山の反省の言葉には、何の衝撃も活性も伴っていないことを覚えてください。
 
楽山が、今まで、宗教と思想に対して犯してきた罪悪は、無反省と無責任を本質としており、部分否定によって語られるようなものではありません。何度もバレているのに、今、またしても、書いてくることに、呆れます。
 
「胸を張って石を投げそうだから怖い」・・ではなく、いい加減な読書と幼稚な先入観から決めつけて、まさに、楽山は胸を張って石を投げてきたのです。
 
しかも、マンガ(絵は省略)の台詞を根拠にしています。マンガにも、大人が見るべきことが書いてあることは時としてありますが、楽山は、恐らく、宗教や思想の本を読むときにも、マンガを見るのと同じような目で見てきただけなのかもしれません。
 
(マンガの台詞)

「人が最も残虐になるときは『悪に染まった』ときではない!!」
「真偽どうあれ『正義の側に立った』と思ったときに人は加虐のブレーキが壊れるのだ!!」
「何せ『自分は正しい』という免罪符を手に入れてしまうのだからな!」
「正義という名の棍棒で悪と見なした者の頭を打ちのめす快楽に溺れてしまうものよ!」

 
楽山はマンガの台詞に縋りつきたいのでしょうか。しかし、このマンガの台詞は、絶対自己正当化が、殺人さえも快楽としてしまうような災いであることを表しています。
 
楽山は、こちらに当てはめたいのでしょうか。とんでもない。訂正不能の自己愛による自己正当化は、楽山のほうであり、改まることなく継続しており、これが、まさに、楽山に返ってゆくブーメランということです。
 
私は、キリスト者ですから、数えきれないくらい、罪の告白をして祈ってきました。しかし、楽山は、一度も非を認めたことがなく、指摘に対しては、嫌味や嘘や詭弁など悪い言葉を返してきただけです。
 
そして、言い逃れをするかのように、どこの文脈にも、記事の流れにも、実質のない、反省、トホホ、などの言葉面だけを並べて、薄っぺらな謙虚芝居をするだけでした。嘘の芝居だと何度も指摘してきたのに、楽山は、それが今も通用すると思っているのです。
 
楽山は、なお、自己正当化と自己満足を忘れない性癖をもって、丁寧語だけで正義の側に立って満悦し慢心し、元々自分無罪の立場に立って人の迷惑を考えず、ひたすら、良心を捨て、自我を拡張して、尊いものも、役に立つ教訓も、台無しにしてゆく病の性癖を改めないのです。生きる活性を持たないで同じことを繰り返すところは、ほとんど亡者のようです。
 
 

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                うそつき
 
 
(2020年10月12日、同日一部修正)
 
 
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