ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神学を悪用2

 
  神学を悪用2
 
   『神学部とは何か』佐藤優
   2019-10-05NEW !
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12532701498.html
   楽山日記(a)
 
 
去年の記事に加筆して載せています。楽山には、こういう前歴もあるということです。
 
神学は、聖書の解釈を主体として、文献的考察をするという点で、信仰の糧(かて)になりますが、神学が、興味本位の謎解きに、答えよう、答えられる、などと思ったら、カルトの思うつぼだということです。それを、企み、面白がっている者がいます。
 

タイトルを見て難しそうな本のようにも思えたが、サブタイトルに「非キリスト教徒にとっての神学入門」とあるし、シリーズ名は「シリーズ神学への船出」としているし、自分でも通読できそうだと思い直して読んでみた。結果はおもしろく読めた。おもしろくとは当然ながら、笑えたという意味ではなくて、宗教心や知的好奇心を刺激されたという意味合いではあるけれど、考えてみれば神学についての著者の本は前にも読んだことがあるけれども、そのときもおもしろかったし、けっこうな満足感があったのだった。

 
楽山には、浅はかな知的好奇心があると思いますが、そこには、反キリストというベースがあるので、キリスト教を揶揄する材料探になっているので、この記事の興味というのを真に受けてはいけないと思います。楽山は、冷やかし以上の関心など微塵も持っていないのです。
 
本を読んで知っているという見栄を張りたいのでしょう。信仰を知りたいのなら、聖書を読むべきです。しかし、今までの楽山の記事とコメントから、楽山の聖書の読み方は、まるで、信仰に沿ったものではありませんでした。今回も、悪口を言うために、しばしば、学問と学者の名をひけらかしているだけなのです。
 
今にしてみれば、楽山の、多数多様の読書は、全部、楽山自身を飾るという狙いがあったのだろうと思われます。キリスト信仰の何たるかを、まるで理解していないのに、キリスト教を、半ば、讃美するような芝居をしながら、本音としては、心から憎んでいたということが分かります。その分、分かっている自分?を誇示したいのでしょう。
 

著者の語りは、神学の入口を紹介しつつ、その奥深さを感じさせ、また個人的な体験、思索、感想を述べたりしていて、読み進むうちにもういい歳で宗教や思想に対する関心も薄れてきているはずの自分であっても妙に神学への興味を掻き立てられてしまう。他の人はどうか知らないが、自分に関してはそうなってしまう。

 
楽山の言う奥深さは、謎の深さであり、信仰の深さとは何の関係もないと思います。「宗教や思想に対する関心も薄れてきているはずの自分」と書いていますが、ならば、何故、今まで、キリスト教を馬鹿にしたようなことを書いてきたのでしょう。真っ当な興味は、薄れている、というより、全くないのだろうと思います。自尊を満たすための、悪意だけが、神学の本を読む意欲につながっているのでしょう。
 
信仰の深さは、謎ではないのです。信じている人、信じざるを得ない人にとっては、それが薄れることは、人生の破滅~死を意味することです。楽山は、元々、薄れていない信仰を、何も知らないので、このような暴言を吐いているのです。他者を大切にしない人の特徴です。神学への真の興味ではなく、ネタとしての興味だと思います。
 

巷では、コップの中の争いのようなことを神学論争と言ったりするむきはあるし、神学にはどうでもいいようなことを細かい屁理屈を言って喧々諤々の論争をするものだというようなマイナスイメージも一部にあろうし、実を言えば自分もそういう見方をしていたのではあるが、著者の本を読んでいるとそれは偏見だということがよく分かる。

 
コップどころか、小皿か手のひらで、キリスト教と神学を転がしているのが、楽山であります。楽山の、実は自分を高めるための、ごますりに惑わされないでください。
 
巷(ちまた)をどう捉えての発言でしょうか。巷では、「コップの中の争いのようなことを神学論争と言ったり」しているのでしょうか。「細かい屁理屈を言って喧々諤々の論争をするもの」・・こういう興味は、まさに、楽山の、分かりもしないのに、信仰を否定するために、学者の本を読む、そして、知ったかぶりで書く、という行動に表れているのです。
 

どうも自分は神学は嫌いだとばかり思っていたのだが、実際は興味があり、すきなのかしれない。本書を読んでいると、そこで紹介されている神学書の全てを読破することは無理にしても、なるだけ多くの神学書の概要を知りたいし、さらっとでも目をさらしておきたいという願望は持たないではいられなくなってくるから不思議だ。

 
楽山が好きなのは、キリスト教をけなすネタとしてだけだと思います。だから、不思議だとしか言えず、信仰に一歩も近づくことのないことのつぶやきに過ぎません。楽山は、皮だけの思想で悪口を言い続ける反キリストです。
 
楽山は、神学は謎解きや揶揄の材料として好きなのでしょう。無謀にも、いや、わざと企んで、神のみが知るような謎に関わった学者気取りの気分に浸りたいばかりに、自己顕示欲から、読書を続けているのです。もう一度言いますが、信仰の糧にならない神学は、何の意味もないのです。
 

ところで本書では、自分が前々から興味がある神義論絡みの話題も出てた。たとえば、「「そもそも、果たして悪は本当に存在するのか」という議論がある。「もし、悪がほんとうにあるなら、その悪を作ったのは誰なのか。神が悪を作ったということならば、その神はむしろ悪魔ではないのか」。これは神学や哲学の方で言うところの弁神論(神義論)の問題である。この問題もまだ解決がついていない。」(pp.132-133)などと…。この問い自体にも興味があるが、「まだ解決がついていない」というところも魅力的ではあり、ゾクゾクするほど興奮してしまう。

 
このように、本音は、神に対する「神はむしろ悪魔」という、けなし言葉に表れています。だから、ゾクゾクするのでしょう。こちらは、楽山の、遠回しの悪に、寒気がしてゾクゾクします。
 
都合の良いところしか受け取らないお粗末な思考と、全く信仰についての洞察力のない楽山の論理で、いつまでも、神の義を探ろうとすることの愚かさは、キリスト教否定のネタ探しに過ぎません。
 
既に書いたのですが、アドラー教の宣伝者である楽山は、気に入らないことは無視する、そして忘れる、というより、恐らく読んでもいないので、覚えてもいないのでしょう。
 
こういう、糧を受け取る姿勢ではなく、いじり、もてあそぶことに、専念して、ゾクゾクするほど興奮して、何の収穫も糧も提供できないことを、自己顕示してくるおぞましさです。
 
キリスト者において、聖書を読んで、神学的なことを聞いて、分からないところは、いっぱいあります。しかしながら、楽山は、分からない=次の機会に保留、ではなく、分からない=否定、となっているようです。
 
楽山の、自分は賢い読書家だから物が言えるんです!、という、根拠のない慢心がベースであり、このベースは信仰にはあってはならないものです。まことに、寒気のしてくるような、楽山の、見苦しい傲慢が表れているだけなのです。
 

また本書では、悪は実在するかどうかという議論については、「西方教会、あるいは欧米の一般的な理性が陥りやすいのは、「悪は善の欠如に過ぎない」という考え方である」(p.133)としている。この考え方は谷口雅春の本で読んだ記憶はある。本来は善のみが実在であって、悪は存在せず、それだから灯をともせば闇は消える云々と。これは上の考え方の谷口雅春流の表現だったのだろうか。

 
悪の存在も、その根深さも、知らないどころか、それは、楽山が持っているものであり、かつ、偽善であり、そして、その自覚は、皆無なのですが、このように、現に存在する自身の悪や偽善に目を向けず、一般則のような理屈だけを考えて、しかも、上から見下ろすように、批評家のように、全体を語ったつもりになる愚かさは、愚かな楽山に相応しいゾクゾクでしかありません。
 
楽山の、ゾクゾクは、悪魔への共感のようです。それは、そのまま、キリスト教への、救済を志す総ての宗教への、信仰への、悪魔的敵意なのです。楽山は、闇を抱え、闇を育てながら、闇が消えるようなすべての灯に、冷たい批評家気取りで、氷水をかけようとします。
 

さらに本書によれば、ギリシャ正教では上とは違った考え方をしていて、「「悪は悪であり、それが断固として実在しており、善の欠如などといったものではない」」(p.133)という考え方をするのだという。悪についてのとらえ方に微妙な差異があるという程度ではなくて、まったく正反対といえるほど違うというのは驚きでもあり、愉快でもある。

 
このように、善と悪について、楽山は、神と悪魔を対応させるのが大好きなようです。何故なら、こういう楽山の好きな話になれば、必ず、テーマが超常の霊の話になるからです。実際には、善と悪は、どちらも、人の産物に過ぎません。
 
このように、悪を持っている自分に気づかず、悪を自分外の者として謎解きの屁理屈バラエティとしてしか考えられないような人物は、信仰に百害あって一利ない存在です。
 
善も悪も、神の前に、決めつけることの出来ないものです。人間は、感知しうる時間も空間も限りがあり、その外には考察が及ばないからです。
 
ただ、自分のうちにある悪と、自分が被りそうな悪については、信仰生活の経験において、考える必要があります。そうして、精いっぱいの正直さを身につけ、また、楽山のような、詭弁の策略を弄する者には、決して近づかないだけの知恵を身につけるべきなのです。
 
はっきり言えることとして、楽山は、善と悪の問題を、超常の問題として語りますが、一方で、どこまでも、自分自身の問題として考えることが出来ないのです。
 

ちなみに、最近ななめ読みした『日本思想論争史』(今井淳、小沢富夫編)でも神義論について触れてあった。キリスト教が日本に伝えられた時に、日本人側では「全能にして愛なる神が世界を創造したのならば、なぜ人を苦しめる悪が存在するのか、完全なるものから悪が生じるのは非合理ではないか」(p.128)などという批判があり、これはキリスト教側からすればアウグスチヌスのころからの「弁神論の基本に関する難問」だったという。

 
楽山が、キリスト教をけなすときの決まり文句である、神がいるなら、なぜ悪があるのか、ということを、楽山自身が言っても整わないものだから、学者の名を借りて、無責任に言っています。
 
神の秘密を神秘と呼びます。当たり前のようですが、神はご自身の秘密を、理解力の不完全な人間に、いちいち、説明することなどないのです。楽山が、いくらこだわっても無駄なのです。
 
信仰の心を理解できないものだから、神学という学問の名に縋(すが)りついて、インテリ気取りを続けるしかない楽山は、このことによって、ただの理解力不足ではなく、悪意ある無理解であることを、自分で証明することになるのです。
 
気に入らないことは無視し、嫌われる不感不応を持ち、人の話を聞かないアドラー教宣伝者である楽山は、問題が解決することがなく、成長がないために、いつも、いつまでも、同じようなことを言ってきます。楽山にとって、いつまでも首をひねる問題だからです。そして、決して解決することはないのです。楽山が、それを解決したと思い込むときは、恐らく、恐ろしい罪を犯す時だと思います。
 

またこの議論とは少々切り口は違うが、同書によれば日本人側のキリスト教批判では次のようなものもあったという。「少年は「処女性」をもたないゆえに男色は罪ではないという主張」とか、「人妻を奪うことは罪としても、未婚の女性を犯すことは罪ではないとする考え」(p.127)とか、神は産めよ増やせよとしたならば子を得るために第二の女を持つことは罪にはならないだろう等々。

 
いずれも、聖書をネタにして、楽山が大好きそうな、人間の良心の直感で判断することを放棄したような、詭弁による謎かけです。いわゆる、いちゃもんです。楽山は、いちゃもん屋ですが、箔をつけるために、他者の口を借りて、けなし続けています。
 
実に、くだらないことを言っています。女色も男色も罪であり、女性を犯すことは罪なのです。ゆえに、罪なき人は、一人もいないのです。ゆえに、総ての人は、赦しが必要であり、神を恐れ、正直な祈りを捧げる必要があるのです。そこに、万民救済の必然があります。
 
ただ、罪を認めず悔い改めない偽善者だけが、救いを自ら拒むゆえに救いから外れる、ということが起こっているだけなのです。
 

なんだかトンデモに思える理屈もあるけれども、とあるブログでイエスの言葉について心の中で姦淫をしたら実際に姦淫したのと同じだというのは人妻に対するものであって未婚女性に対してはその限りではないというような解釈を読んだことがあるし、とすれば上の主張は現代でも真面目に受け止められる部分もないとはいえず、トンデモだと笑ってばかりもいられないのかもしれぬ。

 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27-28、新約聖書
 
 (マタイによる福音書、新共同訳)
05:27
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
05:28
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 (マタイ5:27-28、新約聖書
 
このように、口語訳に「女」と書いてあるところが、新共同訳では「他人の妻」と書かれています。これをもって、カルトの自称ヨシュアは、他人の妻だから守れる、守って完全になれるのです、と言っていました。
 
他人の妻だったら守れるでしょうか。情欲というのは湧いてくるものです。他人の妻だから湧かないようにしようと思って、湧かないように出来るでしょうか。否です。さらに、女性が、他人の妻かどうか、そういう衣装が決まっていない国で、いつも分かるのでしょうか。否であります。
 
これなら守るでしょ、という安易な訳だと思います。守れないなら、できるだけ・・という話にしかなりません。私は、この新共同訳のほうには反対です。つまり、キリストの教えを、安い道徳に貶めるものです。
 
この新共同訳は、罪なき者は一人もいないゆえに総ての人に悔い改めが必要だ、という、深い教えの意味への洞察を妨げる訳だと思います。
 
このことは、既に、情欲の聖句として、記事に書いたのですが、楽山の、お味方以外の他者を無視する体質は、覚えてもおらず、読んでもおらず、ゆえに学習も成長もなく、何故か、カルトである自称ヨシュアのブログの主張だけを真に受けて、ここに書いて、嫌がらせをしているのです。これが、楽山の訂正不能の体質だから、私は、厳しく批判しています。
 

どうも話が逸れたようなので、話を戻すと、自分が佐藤優の本を抵抗なく読めるのは、予定説に対する考え方がわりと近いためかもしれない。佐藤優はこう書いている。「私の場合は、もともと母体が日本キリスト教会というカルヴァン派の教団だったので、結局はカルヴァン的な発想から抜け出ることができない」(p.84)と。

 
(ネット)
予定説(預定説、よていせつ)は、聖書からジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教の神学思想。カルヴァンによれば、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E5%AE%9A%E8%AA%AC
 
自分が、どちらであるかは、人は知る由もありません。従って、人間にとって、予定説は、実際には、大きな意味を持ち得ないと思います。神を決めつけたがる人が重視するのでしょう。
 
楽山は、やたら、○○説と○○学が大好きです。それゆえに、実際は、字面を舐めただけであろう読書と著者の名前で、箔をつけたつもりで、自分を飾ります。これが楽山の学者気取りです。だまされてはいけません。楽山は、聖書も、本も、他者の意見も、満足に読み取ってなどいません。
 

自分はカルヴァンのことはよく知らないが、それでも予定説の概要は聞いたことはあるし、理があるとも思えるし、この辺りが佐藤優の本の読みやすさにつながっているような気がしないでもない。またついでに書くと、自分は小説がすきであるが、小説には通常、伏線というものがあって、偶然に見えし事柄も後になれば実は偶然ではなかったという展開になるのが当たり前であって、その背景には運命論、決定論みたいなものがあったりする。

 
「理がある」と言えば、かつ、そこに疑問や反対意見も書かなければ、賛同になるということも分かっていないのでしょうか。何かにつけて、その時その場の、思いつきと気分で書いています。
 
楽山は、理路が成り立たない人なのに、どういう理があると思うのでしょう。聖書の話であるのに、小説の話を持ってくるのは、分別のない楽山らしい身勝手と理路の拡散なのでしょう。聖書は、文学的側面を持っていても、信仰について、小説を並べて、比較できるようなものではありません。
 

佐藤優はさらに次のようなことも書いている。「人間誰しも、人生で一番最初に触れた世界観的な思想、つまり生き死にの原理を説く思想の刷り込みからは抜け出せないというのが、私の結論である。私の場合は、結局それはカルヴァン派的なキリスト教だったのだ」(p.84)と。
ここも自分にはよく分かる心持ちがする。自分は日本的な無宗教で育ったせいか、その後いろいろな宗教、思想、価値観に触れて一時的に別のものにかぶれてしまったとしても、結局は生まれながらの日本的な無宗教に戻り、それ以外の学びや知識はみな生まれながらの日本的無宗教を補強強化することに活用されるという結果に終わっているようにも思えるので…。これについては良いとか悪いとかいろいろな正邪善悪の判断は有り得るだろうけれども、どうもその判断に関わらず、自分の場合はただそのようになる以外にはないようではある。

 
「日本的」と「無宗教」を、何の考えもなく結びつけています。「日本的な無宗教」とは何でしょう。この決めつけで、人生を捧げたすべての日本の宗教人を侮辱しています。楽山は、日本的とは言えない無分別です。
 
楽山は、宗教は、先入観だと、刷り込んでいます。私が、洗礼を受けたのは、高校のときです。つまり、信仰は、信じても、必ず、のちに、現実において、その考えを、反省し、深めなければいけません。何も深めないで、いつまでも幼稚な文句を言っている楽山のようになってはいけません。
 
挙句の果てに、楽山は、カルト臭いアドラー教の宣伝をしていたのです。恐らく今も、本心では変わっていないと思います。宗教より、自分を信じ仰げとでも言いたいのでしょうか。
 
ふつうは、話し合いを進めてゆくと、理解が深まってゆき、相違点も明らかになってゆくものです。大雑把な話から、ポイントが絞られてゆくからかもしれません。しかし、楽山の話は、進めば進むほど、ポイントが行方不明になってゆきます。
 
つまり、楽山の言は、どんなに進んでも、霧か煙のようなものです。しかも、楽山には、不明な点をはっきりさせるどころか、ますます見えなくして、自分だけ満足して悦に入るのです。どこまでも、暫定的な結論さえ出ないまま、上から語る楽山の慢心だけが増長してゆくという迷路が、楽山だけの自己満足のワールドです。
 
楽山は、日本的無宗教だと言っていますが、大嘘です。アドラー教かぶれの、気に入らないことを無視し、嫌われても平気で、不感不応で、悪意ある姿勢は、今までも、この記事にも表れています。恐らく体質的なところも大きいでしょう。
 
楽山は、無反省と無責任を信条とするカルトと言ってよいと思います。
 
楽山は、良いとか悪いとかをこれから考える段階ではなく、既に、今となっては持続する判断として、悪であり、邪悪であり、もっと悪質な、偽善であります。根拠は、今までの記事と今回のの記事に書いてきました。
 
楽山は、決して、キリスト教の知識が未熟なだけの求道者ではありません。楽山は、書けば、書いただけ、信じるということや愛についての不感不応と無理解が表れ、また、悪意に基づく策略的な偏向と詭弁が、さらに明らかになるでしょう。シャロームと同様、決して近づいてはいけない人です。
 
私は、神学者ではないし、聖職者でもないし、模範的なキリスト者でもないので、学問的なことや、解釈について、詳しいわけではありません。
 
しかし、楽山が、悔いることもなく、罪悪感もなく、知識だけでなく思考も分別もなく、神学者の名前を挙げたり、信仰など全く分かりもしないのに、神学用語を書いてくるところなどの、自己顕示欲の強さには、アドラー教の理不尽な宣伝者であること含めて、強い反感と、甚だしい気色の悪さを感じるので、できる限り厳しく批判することにしています。
 
 

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              おおうそ
 
 
(2019年10月12日)
(2020年10月15日、加筆して再録)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
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