ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の醜態

 
  楽山の醜態
 
 「第十講 再生の欲求」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年10月17日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26648833.html
 
 
本を読んだつもりで、聖書を読まず、何かを伝えようとする努力を全くしない楽山の、自己満足のための感想文です。"節"を書いても、"章"を書かず、"節"がヨブ記のなのか、本のなのかさえ書いてありません。逐一批判が出来ないようにするための細工でしょうか。

説明し理解を助けようという気が全くないなら、書かないことです。伝えるための読解力もないのに、訂正不能の自尊だけで、ますます、亡者のように見苦しさを露呈してゆく楽山です。
 
楽山は、信仰の「し」の字も、いろはも知らず、本を見ては、都合の良い言葉面を漁り、読んだことを誇るためだけに書いているのです。こちらは、楽山が、良識がないために、何も読み取っていないことを指摘してゆきます。
 
意地になって、オレは出来るんだ!、こんなの読んだんだぞ!、とでも言いたいのでしょうか。聖書も読まないで、説明もしないで、本だけ読んだことにして、キリスト教について、何か言えると思っているのでしょうか。
 
自己顕示欲は、ここまで醜くなるという見本です。
 
気取りのためだけのメモは、とりわけ信仰という敬虔の源泉においては、邪魔になるだけで、何も良いものをもたらしはしないのです。
 

「第十講 再生の欲求」を読了。その内容を抜き書き、およびメモしてみる。

 
読了は、楽山の自己満足に過ぎません。自分のためのメモならば、なぜ、公開して人に見せようとするのでしょう。中身のないことがバレているのに、形骸だけを自慢して、何になるのでしょう。つまり、キリスト教に対する嫌がらせだけのために書いているということです。
 
大部分が、著者の言葉であり、読んだからメモしたというだけで、自分の言葉で書けない楽山の、実質のない文章です。
 
こういう人は、人を利用するが、人に返す良きものを持ちません。
 

クロムウェルの如き、ナポレオンの如き人類中の最強者といえども、実は弱き女の産みし弱き人の子たるに過ぎない。彼らの生涯は明かにこの事を示している」
「四節の「誰か清き物を汚れたる物の中より出し得る者あらん」は、女より生れし人の到底清くあり得ぬを説いたのである」

 
14章のことでしょうか。
 
 (ヨブ記、口語訳)
14:1
女から生れる人は
日が短く、悩みに満ちている。
14:2
彼は花のように咲き出て枯れ、
影のように飛び去って、とどまらない。
14:3
あなたはこのような者にさえ目を開き、
あなたの前に引き出して、さばかれるであろうか。
14:4
だれが汚れたもののうちから清いものを
出すことができようか、ひとりもない。
 (ヨブ14:1-4、旧約聖書
 
1-2節は、人間の非永遠性、つまり不完全性を表しているようです。神の厳しい仕打ちを、こんな自分を裁くのかと、清くないのはご承知のはずと、訴えているのでしょうか。
 

「植物に再生あるに比して人にこれなきを歎き、あるいはこれあるを望む。これインド、スカンデナビヤ等の各国の古文学に共通せる思想である」。しかし、ヨブはこれを嘆くだけでなく、植物でさえ枯れ果てたかのような状態になってもいずれ若芽を吹き、再生するのであれば、ましてや人であるならば…と希望を抱くのだという。

 
楽山が言いたいのは、神に抗議するヨブを利用して、またしても、いちゃもんをつけることだけなのです。植物でさえ再生することを言っていますが、人間も、個は死んでも、命はつないでゆくでしょう。楽山は、個人として、原始的な生物のようにヌルヌルと再生したいのでしょうか。
 
個人が再生するのかどうか、人が、いくら考えても答えは見つからないでしょう。ふつうは、それをもって、この疑問を卒業するのですが、楽山は、それをもって、キリスト教を揶揄してくるような人であります。それで、何か学術的なことを語ったつもりなのでしょう。笑止です。
 
超常の霊が分かるっぽい自覚と自尊の楽山は、死んでも再生するのでないと気が済まないのでしょうか。それを、神をおとしめる根拠にするとは、いったい、どういう根性で生きているのでしょう。
 

「「かくの如く人も寝ね臥してまた起きず、天の尽くるまで目覚めず睡眠を醒まさざるなり」とは、死後陰府における生活を描いたもので、陰府の生活は忘却睡眠を特徴とすとユダヤ人は考えていたのである。「天の尽くるまで」は永久にの意である。天は永久に尽きずとの思想より出でた句である」

 
 (ヨブ記、口語訳)
14:12
人は伏して寝、また起きず、
天のつきるまで、目ざめず、
その眠りからさまされない。
 (ヨブ14:12、旧約聖書
 
天の尽きるまでという永久は、神の持ち物です。人は、永遠、永久、など、想像することも出来ないと思います。楽山は、真実追求のヒントになるような想像など出来たことがないのに、ありふれた先入観によって、超常を知ったかぶりで語ってきました。
 

14-17節について、「これキリスト以前に生まれし摯実なる心霊の来世探究史として、見逃すべからざる箇所である」という。

 
 (ヨブ記、口語訳)
14:14
人がもし死ねば、また生きるでしょうか。
わたしはわが服役の諸日の間、
わが解放の来るまで待つでしょう。
14:15
あなたがお呼びになるとき、
わたしは答えるでしょう。
あなたはみ手のわざを顧みられるでしょう。
14:16
その時あなたはわたしの歩みを数え、
わたしの罪を見のがされるでしょう。
14:17
わたしのとがは袋の中に封じられ、
あなたはわたしの罪を塗りかくされるでしょう。
 (ヨブ14:14-17、旧約聖書
 
人が心霊を探求して、得られるのは想像の仮説だけです。仮説を超えて分かるっぽいと思うようになったら、楽山のような無反省の訂正不能の自己愛を来たす最悪性の病気になります。
 

「欲求には正しきあり悪しきあり、来世の欲求の如きは正かつ善なる者である。必しも自己のためにのみ来世を望むにあらず、神の義の完全なる顕照を熱望する時、自己を離れて人に深刻痛切なる来世希求が起るのである」
「ヨブのこの欲求は人類全体の欲求である」

 
楽山は、いつも、自己のためだけの、現世を生きていて、かつ、自己のためだけに、来世など超常を面白がって、何の真剣味もなく、いじくって自分を高めて、遊びたいだけなのです。しかし、誰も、楽山を高いと思ってはくれない、という幻滅から、恨みをいだくのでしょう。
 

18節以降について、「これ死者は陰府にありてこの世の成行を感知し得ず、半醒半眠の中にただ自己の痛苦否運を感ずるのみとの、時代信念を背景として読むべき箇処である。げに痛切悲愁なる魂の呻きである」という。
信仰というものは、「初より全光明を一時に望むべきものではない。まず懐疑の暗雲に閉じこめられて天地晦冥の間に時々光明の閃光に接し、その光明次第に増すと反比例して暗雲徐々として去り、遂に全光明に接するに至るのである」。これは自己の信仰についてだけでなく、伝道においても同様である。

 
 (ヨブ記、口語訳)
14:18
しかし山は倒れてくずれ、
岩もその所から移される。
14:19
水は石をうがち、
大水は地のちりを洗い去る。
このようにあなたは人の望みを断たれる。
14:20
あなたはながく彼に勝って、彼を去り行かせ、
彼の顔かたちを変らせて追いやられる。
14:21
彼の子らは尊くなっても、彼はそれを知らない、
卑しくなっても、それを悟らない。
14:22
ただおのが身に痛みを覚え、
おのれのために嘆くのみである」。
 (ヨブ14:18-22、旧約聖書
 
痛苦否運、痛切悲愁、魂の呻き、懐疑の暗雲に耐えたのち、全光明に達するのだそうですが、まあ、この通りなら、生きた心地はしませんし、だいたい、陰府のことを言っているような超常の想像の仮説だと思ったほうがいいでしょう。
 
こういう超常の想像の仮説をもって、キリスト教を否定するのは、楽山のような、想像から気安く、こう書いてあるじゃないかと、文句を言いかねない無節操な者たちです。
 
望みを断たれ、痛みを覚え、嘆くのみ、という、彼とは、あなたとは、誰のことでしょう。人のことを言っているのでしょうか。この人称の変化は、勉強不足の私には分かりません。
 
「あなたは人の望みを断たれる」・・「断たれる」は受け身ではなく、敬語だとすれば、「あなた」は神で「彼」は人を指しているようです。
 

「来世の希望は奈落ならくの縁ふちに咲く花なり」
「患難は人生最上の恵みである」

 
かなりM的です。有名人だからといって、真に受けないで、豪語には気をつけてください。
 

講演の冒頭にある女についての話は、極端かつ過激なものであり、時代を感じさせるものがある。いま、政治家、宗教者、教育者などが、公開の場でこのような発言をしたら、抗議が殺到しそうだ。

 
まさか、こちらで上に引用したヨブ記14章1-2節のことではないでしょうね。
 
「女から生れる人は
日が短く、悩みに満ちている。
彼は花のように咲き出て枯れ、
影のように飛び去って、とどまらない。」
 
これは、女についての話ではなく、女から生まれる人の話です。
 

14節の「人は死んでも生きるのだろうか」については、『旧約聖書 ヨブ記』(関根正雄訳、岩波文庫)の注釈によれば、死後の生は有り得るかどうかというよりも、「死後も神とともに生きうるのだろうか」という問いとのことである。人は死後は陰府で生きると考えているので、死後の生の有無は問題とならず、ただ神とともに生きられるかが切実な問題になっているのだと…。信仰のある人からしたら、これは本当に深い悩みであろうと想像する。

 
「人は死後は陰府で生きると考えている」でしょうか。考えられるでしょうか。死後「神とともに生きられるか」は、切実な問題でしょうか。深い悩みでしょうか。
 
楽山は、とても気安く、「本当に深い悩みであろうと想像する」と書いて終わっています。「本当に深い」は、世辞だと思ったほうがよいです。
 
楽山は、生きることも、信仰も、真剣に考えたことはないと思います。あるいは、正気で信じているなんて大変ですね(笑)・・みたいに、あざ笑っているのかもしれません。
 
信仰者は、神と共に生きる信仰を考え学ぶことによって安らぎと癒しと救いに触れています。楽山は、考えもせず、学びもせず、無反省に、無責任に、言い放って終わるだけです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
22:32
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。
 (マタイ22:32、新約聖書
 
信仰は、来世を、こうだと保証するものではありません。信仰は、来世を、神に任せて、地上を生きてゆくためにあるのです。世々の聖徒たちや預言者も、そうでした。
 
買い物でもするように、取引のように、すぐ味わえる魔法だけを欲しがって、信仰に一歩も近づけない楽山のような、それでも言い返しては醜態をさらす者に、どうか、惑わされないように、決して近づかないようにしてください。
 
楽山は、共感性がないために、深く感じたり考えたりすることが出来ず、ゆえに、表すことが出来ないのです。だから、本を読んでも、批判されても、何も感じ取ることがなく、それゆえに、自己愛だけで、また、いちゃもんをつけて、減らず口を叩いて、それで、まともで正常なことを言ったつもりでいるのです。
 
 

     f:id:stdsts:20201017235531p:plain

              しゅうたい
 
 
(2020年10月18日)

(2020年10月19日、一部修正)

(2020年10月22日、一部修正)
 
 
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