ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

心の問題2

 
  心の問題2
 
   過去記事を修正加筆して再録します。
 
 
一応、シンプルな喩えなのですが、
信仰に限らなくてもいいようなところもあると思います。
 
蟻が紙の上を這っているとする。
蟻には紙の上の世界しか見えない。
 
蟻の能力はそこまでで
飛んだり跳ねたりもしないと仮定して
 
信仰が心の問題だというのは
このような場合にも少なくとも二通りの蟻がいるということ。
 
ある蟻Aは、
ずいぶん旅してきたが、どこを見ても神はいない。
神などどこにもいない、神など信じるなんて馬鹿げていると思う。
 
しかし別の蟻Bは、
ずいぶん旅してきたが、どこを見ても神はいない。
でも自分の見ている世界以外に
自分には分からないような
もっともっと広い世界があるのかもしれない。
自分には分からないけど、そこに神はいるのかもしれない。
そこから私を見ていて下さったら、
私が道を外れないように守ってくださったらなぁ・・と思う。
 
蟻Aは、
自分の狭い了見が世界だと思っている。
自分が把握しているだけの世界が全てだと思っている。
その狭い世界だけで、判断している。
自分の、知らない、分からない、見ることの出来ない世界を
考えることさえしないために
可能性としても希望としても
何かを受け取る必要を感じない。
 
つまり自分の能力を超えた存在を認められないのである。
これは、総ての自分信仰に共通する視野の狭小である。
 
蟻Bは、知らない世界があることを認めていて、
その世界へのあこがれを持てるのは
自分の世界と自分の存在の小ささを認めているからだ。
 
以上のことを、
科学めいた仮説のたとえ話だと思ったり
信仰と何の関係があるのだと思う人もいるかもしれないが、
 
これは、絶対と呼べる存在に対して
自分がいかに小さいかを
理屈よりも人生経験で学んでいる人でないと
実感にはならないということです。
 
前に書いたことがあります。
 
 人間の視野は
 その狭さを実感するとき最も広く
 その広さを人と比べて自慢するとき最も狭い。
 
つまり自分の外に別の視野を認められるかどうかであり、
感じたり知ったりすることの
出来ないことがある自分を知っているかということです。
 
信仰に必要なのは、優れた知性でも感性でもありません。
信仰に必要なのは、自らの知性と感性が不完全であるという自覚です。
それは同時に、全能の神に対して、人間であることの条件でもあるのです。
 
そして、聖書を読むと、神は人をご自身に似せて造り自由意志を与えたと書いてあり、神の民として人を愛することが書いてあり、神は、人を、そして人間であることを、大切に思っておられ、それゆえにこそ、人は、自分の個性である知性と感性を大事にするのが信仰です。
 
こう表せば、このことが論理的推測ではなく、感情的言い張りでもなく、人生経験と書いたように、全人格的な経験に、特に "心貧しい" としか言えないような不完全さの気づきに基づいていることが理解できるでしょう。こういう考えは世界観だけではなく、あらゆる人間関係に影響する問題なのです。
 
多くのブログを見ていて、学問、芸術、のみならず、生活と言葉について、ときどき、いいな、と思う感じ方に巡り合うことがあります。
 
小さいがゆえに、小さいことに気づく、小さいことに心が届く、ということがあり、そこには、人間の最も興味深く、最も愛すべき要素があると感じます。あやかりたいと、いつも、思うところであります。
 
信仰は、知っている者が、知らない者に教える、という関係ではなく、総てを知ってはいない、知らない世界や知らないことがある、という自覚と共感であります。
 
その自覚が、全知全能に対する恐れと弁えになり、
その共感が、不全なる人間同士の愛のベースになるからです。
 
 
 しかしながら
 悪の存在などの辻褄だけを考えて
 神がいるならおかしいじゃないかみたいなことを言って
 さも、知識人であるかのように慢心する者は、
 自分を至上とする観念の奴隷となっていて、
 自分が通念的に理解できるもの以外の存在を認めようとしないことが多いのです。
 だから、その者は、実際は、普通ではなく、
 精神の貧困なベースの上にあぐらをかいているのでしょう。
 
(※ 聖書の「心貧しい」、と、心や精神の貧困を、混同しないようにしてください。
 心貧しい、というのは、余計な先入観がないということです。
 精神の貧困というのは、余計な先入観しかないということです。)
 
 見えるものであるか、または、証明されるものでないと、信じないというのは、
 それこそ変な話なのです。
 見えるものや、証明されるものは、信じる必要はないのですから。
 
 また一方で
 何の理由も切っ掛けもなく、夢物語を信じるというのも、おかしな話なのです。
 信じるに至る動機がないで信じ込んでしまうなら、その人の世界は
 現実離れしてゆき、人間離れしてゆき、おとぎ話になってゆきます。
 おとぎ話では、現実を生きられません。
 さらに、超能力や霊やホラーの話になることもあります。
 これらは、自分信仰やカルトの入り口なのです。
 
 信仰の話のプロセスを間違えると、不可知の共有や不完全の共感に至らず、
 逆に文句を言い、否定的な考えを無遠慮に広めようとするのです。
 ときとして宗教への関心や興味がカルト発生の素地にもなりうるということです。
 
 共感をはじめとして、思いやり、恥ずかしさ、罪悪感、などを持てないような
 人間的な情緒面に問題のある人に多いと思います。
 
 
信仰は、神とキリストを対象として考えて、矛盾がなく辻褄が合うとか、都合がよいとか、何でも叶えられるからとか、超常とか夢とかも自由だからとか、文化的な趣味みたいに、好みで信じるものではありません。
 
信仰に至る、ということは、必ず、何かを恵まれているという体験から起こります。そして、その賜物は、とても、人間的なもので、冷たくなく、涸れることもない、泉のようなものです。
 
それは、現実に生きて、耐えられないときの、癒しや救いの言葉、孤独からの解放、温もりと潤い、など、言葉では尽くせない体験があり、既に恵みをいただいているから、信仰から離れることなどしないし、人間から離れることもないのです。
 
神からの恵みは、一人の人間にとって、いつも溢れているわけではありません。分からなくなることもあるでしょう。希望は、持ちましょうと言って持てるものでもないですから、困ったときは、余計なことをあれこれ考えずに、何よりも、その日一日を生きて、過ごしてください。
 
喜びの時も悲しみの時もそのまま人に居座ることはなく、必ず過ぎてゆきます。全部、すっきり嫌なことがなくなるわけではなくても、残った問題については、また改めて、考える機会があるでしょう。
 
信仰者においては、折に触れて、気取りもなく、飾りもなく、護教の強迫さえもなく、
(護教の強迫症は、神経症的であると同時に、信仰自慢にもなってしまいます)
 
疑問も、悲しみも苦しみも、ただ正直に、神様に告白して祈ることが、何より大切なことです。
 
 

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              喜びも悲しみも
 
 
(2019年09月30日)
(2020年10月19日、一部修正加筆して再録)
 
 
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