ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信じるとは2

(再録+です。)
 
 
  信じるとは2
 
 
信じるとは
思いこむことではない
 
 思い込めば
 その人の頑なさに固まる
 その人の
 であり
 そこに神聖は排除されている
 
 私たちが自由意志をもって
 ときに神聖から顔を背けてしまうことは
 古今の人間の有り様が証明している
 
 排除を、また、排除から
 いちいち神聖は防がない、守らない
 自由な人として育つためだ
 
 都合の良いほうにばかり正当化してはいけない
 
仰ぐとは
いつも上を見ていることではない
 
 上を見たら下は見えない
 
 上ばかり見ていると上気して
 足ではなく足下をすくわれる
 
 上には届かない大きなものがあり
 下には届いてほしい小さなものがある
 
 思い上がり
 のぼせるという罪は
 
 上にあるのではなく
 上だけしか見ない人にある
 
言葉の微笑を
あざ笑いに変えないように
 
言葉の悲しみを
憎しみに変えないように
 
信じ仰ぐ心は
悲しみと癒しの微笑を知っています
 
 
信仰は、言葉で読んだり教えられたことではなく、そこから感じ取り、考える世界です。言葉だけ覚えても、心が動かなければ、人間は、新しくはなりません。大切なのは心の学習です。
 
聖書が神の言葉でも、読む私たちが持っているのは人の言葉です。つまり、不完全なのです。
 
言葉で習って、それを覚えて、思い込み信じ込むならば、人間の不完全性によって、言葉の意味の狭小化に支配されることになります。忘れないようにと言葉を覚えて、そのせいで、大事なことを忘れてしまうこともあるということです。
 
人間の言葉は、個人の心の中で、一つでありながら、時とともに、様々な意味を持ってゆきます。言葉を覚えても、そのことによって、心を疎かにすれば、信仰は、揺るがないどころか、思い込み信仰?のカルトと同じようなものになりうるということを考えてほしいと思います。
 
だから、キリスト信仰は、一気に悟りに至るような境地ではなく、折に触れて、自らを省みて、正直に祈り、新たな思考と感受性を経て、成長するべく、育(はぐく)んでゆくものなのです。精いっぱい、正直に祈ることが糧となって、それを助けるでしょう。
 
訪れた悲しみは、新しい心の成長を期待されて、神に、その時の人間の言葉をもって捧げられるためにあります。人間の関わるもの、特に信仰は、悲しみのうちに、最も多くの生きる糧を与えてくれるでしょう。
 
信仰は、不変の平安の境地ではなく、祈りとともに学習して成長する道であります。
 
 

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             悲しみの向こうに
 
 
(2019年10月21日)
(2020年10月21日、加筆して再録))
 
 
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