ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の自滅の刃

 
  楽山の自滅の刃
 
 「鬼滅の刃」と「幸福の科学」(6)ザ・リバティWebの反応 
 2020年10月31日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26812652.html
 (一部省略)
 
 
何も求められていないのに、自己顕示欲だけで、正義の味方のつもりで、ここしばらくは、HS批判を書いている楽山です。恐らく、誰も認めていないのに、学者レベルで説教が出来ると思っているような筆致になっています。
 
いかなる記事を書いても、いかなるコメントを入れても、責任を負う気のないことが、既に、明らかになっている楽山の話など、本気ではないことが表れてくるだけす。どこまでも、策略で、文章をいじって乗り切るつもりのようですが、それを許してはいけないということだけが必然となるのです。
 
楽山は、断定はしていないから、責任問題は発生しない、などと書いて言い逃れしていますが、そんな勝手な屁理屈、公共の場で、楽山が成り立つと思っているなら、大人の世界を全く知らないということでしょう。
 
それに、断定よりも悪質な、印象操作や詭弁や嘘を使いまくって、刷り込もうとしてきたのですから、それが、今さら通るはずもないのです。
 
何の節操もなく書いて満悦し、あとは知らないよ、という無責任な楽山は、放置すれば、これからも変わらないで同じことを続けるのだから、どう考えても、見逃してはいけないと思います。
 

*リバティの見解
リバティを見たら、「鬼滅の刃」について次のように書いていた。

2020-10-31 (2)大切な精神は社会的不満を晴らす
・「鬼滅の刃」関連の鬼が出現 日本社会の底流に流れる価値観とは? | ザ・リバティWeb
 」
この部分に関しては、黒鬼の霊言の内容を紹介しているだけのようではあるけれども、記事全体としては、これこそが霊的真相であるという立場で書かれている。つまり、これはリバティ編集部の見解でもあるのだろう。
*信者への影響?
この記事を読んで思い出したのだが、これと似たことは、遠江秀年氏の動画のコメントにもあった。「鬼滅」はいじめられっ子の復讐を肯定する話だとか何とか。該当部分を貼ると、こんな感じ。

2020-10-31-06_40_36復讐肯定のストーリー2
・「鬼滅の刃」の黒鬼と、草津赤鬼の対決【大川隆法霊査】 - YouTube
 」
アニメを見ての感想は、人それぞれだろうから、どの感想が正しく、どの感想は間違っているとは言えないのだけども、さすがにこれには、いくら何でも…という気はする。

 
感想だから真偽は言えないようなことを書いていますが、神の存在を否定するような、いちゃもんを書いてきたことを忘れたのでしょうか。さらに、真偽を言わないのなら批判になりません。
 
「いくら何でも…」というのは、間違っている、というのが省略されているわけです。ぼかして書いて、真偽は言えないなどと言うのは、楽山においてだけ成り立つ、白々しい詭弁です。理路を弁えない嘘と偽善の言い逃れも、いい加減にしてほしいです。
 
真偽・正邪・理非を言うのが批判です。言わないのなら、書かないはずです。しかし、楽山は、「いくら何でも…」というボンヤリ言語で書いているわけです。楽山の、言わないが言います形式。
 

*作品全体のテーマ
思うに、「鬼滅の刃」では、改心前の鬼の考え方、反省を始めたときの鬼の独白、主人公の主張、鬼を憎む者たちの主張…等々、さまざまな考え方が提示されているので、作品全体のテーマはそれら全体を見極めたうえで考察するのが理想だろう。

 
「見極めたうえで」と、何も見極めが出来ない楽山が書いています。楽山は、アニメを、化け物の話としか受け取っておらず、そこに、人間の物語が表されていることにも気づかない様子であるのに、とやかく言ってくるのは、自分は特別で超常が分かるんだから、という虚無の自負なのでしょう。
 

でも、上にあるリバティなどの見解は、改心前の鬼の主張や、一部のキャラが口走ったようなこと、さらにはふと自分の心に浮かんだ思いなどを、作品全体のメッセージであるとしているようだし、これはあまりに一方的過ぎるのではなかろうか。

 
私が、楽山のことを、心が無い、人間性がない、と言ったものだから、今になって、心がどうこうと、言い訳めいたことを書いて、私の言ったことを否定したつもりのようです。しかし、前に言ったことを訂正したことはないのだから、一方的なのは、楽山で、また、白々しい嘘を吐いているのです。
 
楽山を否定するための例として、楽山は、以前から、キリスト教を、超常の魔術のような捉え方しか出来ておらず、人間として考えることが出来ないために、それをもって、神がいるならなぜ悪を放置するのか、などと、楽山が神を試しているかのような考え方で、信じてもいないのに文句を言って、つまり、人間がいくら考えても答えようのないことをわざわざ言って、神の存在を否定しています。未熟過ぎる楽山です。恐らく、宗教嫌いからの悪意の嫌がらせだと思います。
 
楽山は、人間が、人間として、例えば、苦難を乗り越えるために、死の恐怖に打ち勝つために、神を必要とするところから、聖書に出会い、信仰が始まる、という、人間の生き方を、まるで理解できないのです。
 

鬼滅の刃」の悪役、脇役の台詞や考え方をもって、作品全体のテーマとするのは、HSの悪魔の霊言をもって、HS全体の主張だとみなすのと同じくらい不当なことであろうし、もうちょっと公平な視点で考えてみてはどうかと思う。

 
どういう意味でしょう。「鬼滅の刃」は悪役ばかりではないはずですが、ゆえに、悪役だけではいけないと言ってるつもりなのでしょうか。楽山は、正義を語りたいのでしょうか。
 
だとすれば、他者の意見を全く無視している楽山は、全く公平ではないわけです。楽山自身が、楽山自身の発言によって、斬られています。
 

作品に対する感想は、人によって違うのはが当たり前であるし、どういう感想を持つのも自由ではあろうが、公開の場で発言するなら単なるヘイトにはならないようにしたいものである。

 
公開の場で発言するなら、自分が斬られないようにするべきですが、楽山は、そもそも、どう斬られても、それを無視する超常自己中の無視に生きているので、痛みも不都合も感じないのです。
 

*個人的な感想
ちなみに自分は、「鬼滅の刃」のアニメを見て、コミック5巻まで読んだだけであるが、優しさこそが最も大切であること、でも強くなければ大切な人を守れないこと、たとえどんな相手であっても偏見、決めつけはよくないことなどを強く思い知らされた次第である。

 
ここで、楽山の、言葉の字面だけ一生懸命いじってくる楽山の自己正当化の言い訳です。やさしさ、強さ、守る、そして、決めつけはよくない、と言っています。楽山は、これらを全部否定した立場で、嘘と詭弁で、ごまかしながら、放言と軽口ばかり言ってきたのです。ここでも、言い訳と正当化に必死な精神の詐欺師です。楽山の書いたものが、楽山を否定しているのです。
 
優しさは見かけの丁寧語だけの偽善であり、あっさりと書いて、分かったことにしたいのでしょう。実際には、今まで、暴力的な無視の力をふるい続けてきたことを訂正しないで書いているわけですから、むしろ凶暴であります。楽山には、真の強さなどなく、誰も守ることは出来ないと思います。
 
自分を守ることが、不都合を無視しまくるだけなのに、どうして楽山が、人を守れるでしょう。
 
そして、キリスト教について、上にも、前にも、書いたところの、極めて幼稚な決めつけをして、いちゃもんをつけてきたのです。それら多くの今までの嘘と詭弁を、何も改めないまま、無反省で無責任のまま、言葉だけ、いじって正当化をしてくる楽山は、根腐れとしか言いようがないです。
 
楽山の嘘と詭弁の結果は、楽山の生き方の破壊という結果を招いて、驚き呆れるほどの病質となって表れ、今、続いているという表れです。
 

作中では、怖ろしい外見をした鬼が出てくるし、斬首、惨殺、人喰い場面などもあるので、グロい、気持ち悪い、怖いという感想を持つ人がいるのは理解できるけれども、あれほど強調されている優しさの大切さについて、HS信者で語る人はほとんどおらず、悪口を言う人ばかりなのには本当に驚かされる。

 
楽山は、人間としての共感性が欠けているために、本当の優しさを知らないので、ごく単純に "優しさ" としか書けないのでしょう。
 
「あれほど強調されている」優しさを、楽山は知らないからこそ、人の意見を無視するという、人間離れ技が出来るのでしょう。また、正義の味方を気取っています。
 
そして、キリスト教に対して、こちらが何を言っても、徹底した無理解によって、悪口が減らず口になっていったのです。何を言っても無駄な人なので、楽山を相手にしてはいけません。私は、読者に向けて、楽山に関わる人が出てこないように、批判記事を書いているだけです。
 
さらに、楽山の減らず口は、本や、アニメや、マンガや、映画や、思想などにも及んでいて、身の程を知らず、状況を弁えず、自分の好みと都合だけで、曲解しながら、フンフンと鼻でも鳴らすようなノリで、書き続けて、いかに無反省が人格破壊を来たすかという症例のようになっている有り様です。
 

HSに批判的な自分がこんなことを書くと、「アンチが『鬼滅の刃』を擁護している。これはつまり、アンチと『鬼滅の刃』の背後には、同じものが潜んでいるということだ。アンチは『鬼滅の刃』に波長同通している」と言う信者が出てきそうではあるが、自分は、不当に貶められているものがあれば、それを弁護しないではいられない性質なので、言うべきことは言っておきたいと思う。

 
楽山が自分のことを「弁護しないではいられない性質」などと言っています。露骨な開き直りです。いくら正義の味方を気取っても、いくら善人を気取っても、いくら自慢しても、楽山の人格そのものが、気取りだけであることは、既に、約1年半の経過で明らかなのです。
 
「自分は、不当に貶められているものがあれば、それを弁護しないではいられない性質」・・・楽山は、今、ここで、このような、恐ろしい嘘を吐きました。
 
後悔の情がなく、反省せず、責任を負わず、ゆえに、自分が不当に、人と公共を、貶めていることに気づかず、そこを改めようとしない楽山のような者は、他者を弁護する資格はないのです。
 
最小限の自分の言論の責任さえも自覚できない楽山には、言論の自由も許されるべきではなく、大人に成り損なった者として、直ちに退散するべきなのです。
 
しかし、約1年半の批判にもかかわらず、楽山は、恐るべき厚かましさのみをもって、批判を無視し、詭弁と虚言の勝手な言い張りを続けていますから、こちらとしても、逐一、批判を当ててゆくしかないというのが現状です。
 
何度も書いてきたことですが、楽山の信頼度は、ゼロです。
 
どんなに、自分が、つまらない人間で、そのために堕落しても、楽山のようにだけはなりたくないし、また、誰にも、なってほしくないと強く思います。
 
 

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                             凶暴
 
 
※ 
告白:
 私は、少なくとも、自分の惨(みじめ)めさを認めています。それを、祈りにおいて、告白もしています。私が、私の体質や性格ゆえに惨めになり、ときに、他者の心無い発言ゆえに惨めになったことを認めています。私は、なお、私の罪の総てを知りえないけれど、惨めさには、私の罪や失敗も含まれていることを知っています。
 ですから、私は、強がる実質としての能力もないけれど、強がる必要も感じていません。ましてや、自分を飾ったり、嘘を吐いたりして高く見せかける必要など、罪深いだけで、何の価値もないことを知っています。
 信仰において、知るということは、そのような、人間の、何よりも、自分の罪と不完全についてであって、決して、神を知っているから高くなるとか言ったことではありません。
 神の前に、人間が見せられること、そして、人間が見せるべきこというのは、神に対する正直さであって、決して、自分の信仰の厚さや熱さではないのです。ここは、楽山やシャロームが、180度、勘違いしているところです。
 
感慨:
 人間の思慮というのは、人間としての経験と共感によるものであって、超常にこだわることとは何の関係もありません。
 超常のことを語るのは、想像、空想、願望、そして、せいぜい仮説に過ぎません。聖書の話も、受け取って益となることは、神そしてキリストと、登場する人間のかかわりに表れています。聖書の超常の奇跡は、その史実性を含めて人間の手に負えることではないのです。
 超常のフィクションを見るとき、娯楽以上に大切なことは、登場する人物の人間性が表れているところです。人間離れしたところに、人間にとって娯楽以上に大切なものは、表れてきません。趣味として楽しむならよいけれど、そこに、こだわれば、こだわるほど、楽山やシャロームのように、自己中心の空想~妄想家になってゆくだけなのです。
 
 
(2020年11月03日、同日一部修正)
 
 
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