ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の外道

 
  楽山の外道
 
 『基督抹殺論』幸徳秋水
 2020年11月03日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26847088.html
 
 
楽山は、たとえるなら、耳無し放言、とでも言うべきでしょうか。聞かず、見ず、読まず、言いたいことだけは言ってくる。誰とも友人関係を築けない人だと思います。だから、だます以外ないのでしょう。不幸ですが、何よりも反省しない言論の繰り返しは、非常に、傍迷惑なのです。
 
楽山は、今回、幸徳秋水の本を読んだことにして、ほぼ肯定的に引用しています。
 
(ネットより)
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者無政府主義者である。
本名は、幸徳 傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件(幸徳事件)で処刑された12名の1人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E5%BE%B3%E7%A7%8B%E6%B0%B4
幸徳事件(こうとくじけん)は、大逆事件の一つであり、明科事件を発端に明治天皇の暗殺を計画したとして、全国の社会主義者無政府主義者を逮捕・起訴して死刑や禁固刑判決を下した政治的弾圧事件である[1]。一般に「大逆事件」と言われる際は、この幸徳事件を指す。幸徳秋水事件ともいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E5%BE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
特に、幸徳秋水が無罪だったという話ではないので、暗殺を企てた人を肯定しているわけです。以前は、A級戦犯の右翼の過激な思想家を肯定し、今度は、逆方向を支持しているのでしょうか。
 
いずれも、テーマとなる人は、犯罪がらみの、武力行使を辞さない人です。それを肯定的に引用しているわけです。楽山の、今はまだ隠し持っている犯罪性が垣間見られるのではないかと思います。
 
タイトルにもあるように、今回の標的は、キリスト教です。しばらく、やさしさ芝居をして、陰を潜めていましたが、今回、正体である凶暴さを、批判されたあげくの開き直りのように表しています。
 

*まえおき
 岩波文庫の『基督抹殺論』は、随分前に一度通読したことはあるのだが、十字架は元々は男根の象徴だったという主張には度肝を抜かれたので今でも覚えてはいるものの、他の話はほとんど忘れてしまったので改めて読んでみることにした。
*主張
というわけで、本書の全体をざっと読んでみたところでは、著者の主張はおよそ次のようなものである。
エスの生涯について書かれた四つの福音書には、それぞれ違うことが書いてある、たとえばイエスの系譜について、マタイ(1.1-17)とルカ(3.23-38)では数十代にわたって記しているが、そのうち重なるのは数名に過ぎず、ヨセフの父からして違っている、このような書物は果たして正しいことが書いてあると信頼できるものであろうか?

 
何度も書いてきたことですが、楽山の言う宗教の正しさというのは、史実としての辻褄が合うかどうか、という表層を舐めるだけの薄弱さなのです。心が分からないために、宗教から何も受け取れないサイコパス的人格は、そういう皮のような汚い思考だけで、とんがっているしかないのです。
 
4つの福音書の記述が異なっているのは、ほぼ周知のことです。それで、「正しいことが書いてあると信頼できるものであろうか?」などと、疑問を呈し、否定してくるのは、100%の辻褄でないと認めないということ、これは、元々、否定しているから持ってしまうスタンスです。
 
即ち、前から言ってきましたが、楽山が、元々、反キリストでしかないこと、ゆえに、楽山が書いたことのある祈りに似せたクリスチャン芝居は、大嘘であることを、楽山自身が、またしても、自分で証明しているということです。
 
信仰は、辻褄が合うから信じるのではありません。また、辻褄が合わないことを信じ込むことでもありません。
 
心に響くものがあるから、心に残り、忘れられなくなり、好きになり、希望を託すようになるのです。そういう人間の心を、楽山は、全く理解できないゆえに宗教には全く感受性がないばかりか、自覚がないまま、くどくどと魅力のない文章で言いたがる凶暴な自己中の病質者なのです。
 

信条や正典を決する会議では「彼等の信條を決し、經典の眞假を議するや、直ちに罵詈讒謗爭闘の大醜態を演じ、皇帝は議場の整理の爲めに遂に武力を用ゆるの已む可らざるに至り」(p.32 昭和29年)という混乱の極みにあったというが、このような会議において正しい結論を導き出すことは可能であったのだろうか?

 
人間が、神聖を決定し確定するなどということは、元々不可能なのです。神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在として聖書に描かれています。人間は、どの性質も持っていません。こういうことは何度も書いてきたのです。
 
しかし理解力のない楽山は、事実関係だけをもって、「正しい結論を導き出すことは可能であったのだろうか?」と、また、同じ疑問をむしかえし、かつ、平気で、人の意見を無視して、公共の場に滅裂な文章を載せてくるのです。無反省・無責任、無学習の、病質者、病的ナルシスト、サイコパスであると言ってよいでしょう。
 
楽山は、本当に、学習のできない人です。理解力が、決定的に不足しているからです。それは、自己愛性パーソナリティ障害で、自己を絶対としているからです。ブログでは、バランスのとれたインテリを気取っていますが、それに相応しい反省機能と修正機能を全く持っていないからです。
 

当時書き記されたものの中にイエスについて触れたものは一つも確認されていないが、福音書にあるような奇跡を起こした者について誰も何も書き残さなかったというのは不自然なことである、イエスについて書かれた文書が発見されたといっても、それは後の世で書きこまれたものだと判明しているし、時の権力者がイエスについて書かせないようにしたという推測は、イエス以外の救世主を名乗るものについて、いくらでも書き残されていることからすると説得力を持たない、はたしてイエスは実在したのであろうか?

 
今回は、人生の大切なことを受け取る上では特に問題にならない物や肉体への奇跡を、またしても、楽山は、否定することが宗教を否定することになるという訂正不能な因業を呈してきました。
 
人の話を受け取らないで、学習しないということは、このように、最悪の結果として、楽山のような頭がおかしくなってしまう人を作り出してしまうのです。人間の良きものを、本人が捨ててしまうと、このようになるという見本が、楽山です。
 

福音書には矛盾があり、イエスが実在した証拠はなくとも、キリスト教の道徳的価値については揺らがないという意見もあるが、記録によれば当時の人々はキリスト教徒は倫理的道徳的に問題があると考えていたのであり、これは外部の者に限らず、キリスト教内部でも議論になっていたことである、

 
このように、当時のキリスト教徒のことを、どういう根拠があるのか、何も根拠を示さないで、何も道理を通さないで、楽山は、道徳的に問題があるなどと言っています。
 
どのような集団や組織でも、内部の問題を抱えることはあります。しかし、楽山の書き方だと、キリスト教そのものに問題があるかのような書き方になっています。
 
そして、それを否定の根拠にしています。一部をもって全体を決めつける、という詭弁です。ここに、楽山の底知れない悪意があるのです。
 
いちばん見逃されているのは、それこそ、楽山の倫理的道徳的問題であって、これこそ、自分を見る眼を持たない楽山が、自分を棚に上げて、キリスト教をおとしめる姿なのです。だんだん、批判されて怒り興奮したのか、丁寧さの中に、凶暴さを隠さなくなってきた筆致だと思います。
 

禁欲も過ぎればその反動で余計に反社会的な行動に走ることもあるのだ、キリスト教以前にも倫理道徳は存在し、それに頼らなければ倫理的道徳的に生きられないということもあるまい云々。

 
楽山の宗教と信仰は、道徳でしかないということが、はっきりと分かります。大きな間違いですが、楽山は、妄想的に繰り返すでしょう。ゆえに、今後も、こういう楽山の言は、宗教と信仰を、一言も語ったことにはなりません。
 

著者はこのような主張を重ねた後、「基督敎徒が基督を以て史的人物となし、其傳記を以て史的事實となすは、迷妄なり、虚僞也。迷妄は進歩を礙げ、虚僞は世道を害す、斷して之を許す可らず。即ち彼れが假面を奪ひ、扮粧を剥ぎて、其實相實體を暴露し、之を世界歴史の上より抹殺し去ることを宣言す」(p.123)と結論している。

 
批判的引用でないので、楽山は、理解して同意しているという立場を装っています。分かっているなら、やさしい言葉で言い換えて解説するべきですが、怠慢で学習しない楽山は、しないし、できないのです。キリスト教を抹殺する言葉をあげて、悦楽に浸る楽山です。
 

*事実と信仰
巻末の解説によると、本書は、出版当時には相当評判となり、キリスト教側からは著者はキリスト教の基礎知識に欠けるだとか、独断に満ちているなどの反論があったというが、自分のような門外漢からすると、イエスが実在した証拠がないこと、四つの福音書には矛盾した記述があることなどからすると、これらは事実かどうかの問題ではなく、信じるか信じないかというは信仰問題であろうし、後者については各人が自分の心に問うて決めることであり、他人がとやかく言うことではないのだろうとは思う。

 
だったら、信仰者でもないのに、何を分かっていないのに、わざわざ書いてくるな、ということなのです。とやかく言っているのは、楽山その人であります。
 

信者からすれば信仰は事実であろうから、人それぞれの自由では済まされないことではあろうが、非信者にとってはそのように結論付ける他はないのだから仕方がない。

 
非信仰者の意見を決めつけるとは、なんて恣意的で凶暴なんでしょう。信仰は真実として受け取るべきものですが、楽山は、ここで、楽山がこだわるところの史実すなわち歴史上の事実と混同させるために、"事実" という言い方をしています。
 
上のほうでは「事実かどうかの問題ではなく」と書いておきながら、ここでは「信仰は事実」という書き方をしています。誰も納得させられない楽山の言論不全でしょう。今までも、ずっと、そうだったのです。しかも、責任は一切負わないのですから、病質としか言いようがないのです。
 
今回のは、今まで以上に露骨な決めつけによる否定で、挑発的威嚇的でもあり、恐怖と言ってもいいでしょう。何を言っても、受け取らず、反省も訂正もない、楽山は、異常者ぶりが、だんだん酷くなるようです。
 
言論は、責任感があって修正可能な人の自由と権利です。楽山は、一方的で、責任を負わないホラーですから、言論の自由はありません。なのに、とやかく言ってきて切りのない恐怖の楽山です。
 

信者とそれ以外とでは、何を事実とするかにおいて大きな隔たりがあり、これがために宗教に起因する揉め事は後を絶たないのだろうけれども、

 
また歴史の事実みたいに「事実」と言っています。刷り込みが、だんだん煽りのようになって、繰り返されている楽山です。決して真に受けないでください。決して近づかないでください。
 
>この問題は信仰と事実とを区別することができない限りは解決されることはないだろうし、
 
過去の、それも大昔の、歴史の事実つまり史実かどうかは、確定することはありません。信仰は、聖書が伝える人間の心についての記述が受け取る切っ掛けとなります。それが、分からない楽山は、凶暴なリピートクレーマーです。
 

次々に新しい宗教が生れ、いくつもの新しい信仰が発生している以上、この問題はますます混迷を深め、やっかいなものになっていく以外にはありそうもない。著者は基督を抹殺して議論を終了させたつもりではあろうが、なかなかそう簡単には決着はつくまいと思う。

 
これは、何なんでしょう。そして、この記事は何なんでしょう。問答無用の反キリストぶりを発揮して、さんざん、いちゃもん付けて、ボロクソに言っておきながら、最後に、高みから眺めて「決着はつくまい」で、第三者気取りの責任回避とか?・・真剣味が、まるでない。卑怯というのは、こういうやり方を言うのでしょう。
 
いちばん偉そうなことを言っているのは、楽山、即ち、いちばんの外道であります。
 
 
楽山は、言ってみれば、"不通" なのです。つまり、誰とも、心を通わせることが出来ない人だと思います。今まで書いてきたことや、楽山の態度など、見ていると、とても、友人になろうとは思わないし、楽山が、誰かの友人になれるとも思えないのです。
 
私にも、友人と呼べる人はいません。孤独と言ってよいでしょう。しかし、人の心は、書かれていることを見れば、不十分ながら、少しは伝わってくるものです。そのことが、ささやかな共感や興味につながることはあります。ブログを始めて、よかったと思える理由です。
 
だから、私は、自分を白々しく偽ってまで、人に受け入れられようなどとは思いません。
 
 

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                 げどう
 
 
(2020年11月04日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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