ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

罪と救い2

 
  罪と救い2
    去年の記事を修正再録。
 
 
人間は生きている限り罪を犯します。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:17
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
 (マタイ5:17、新約聖書
 
「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
 (マタイ5:28)
 
「悪人に手向かうな。
もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
 (マタイ5:39)
 
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
 (マタイ5:44)
 
情欲をいだくだけで罪だとキリストは言うのです。なぜ、こんなに厳しいのでしょうか。
 
できるだけ守って罪を犯さないようにしましょう、という安い意味ではありません。
 
キリストの教えを、緩い道徳でごまかしてはいけません。
 
キリストの教えは、罪を犯さず、立派な人間になるためではありません。
それは無理だからです。
 
神に救われるためであるが、神の前に人間は常に不完全な存在です。
 
ここから何が推し量られるでしょう。
 
悪意をいだくことは、傷つけ殺すのと同じ罪です。舌打ちをすることは、暴言を吐くのと同じ罪です。
嘘を吐くのは、人を騙す詐欺と同じ罪です。即ち、罪の心をいだくことは、既に、罪だということ。
 
罪についてキリストが厳しいのは、罪なき御方は、神のみであるからです。ゆえに、キリストは、罪ついての定義について、厳しいことを言っておられるのです。
 
とても厳しいと思われるほど、キリストが罪の定義について厳しいのは、
それに対する赦しと救いの寛容さが大きいからなのです。
 
そして、人間は、罪を隠して善人ぶる者が多いことを、主は知っておられます。
ゆえに、神の前に、罪を正直に告白する者だけが救われる、という考え方でしょう。
 
主イエスは、人が罪を犯すさまを、誰よりも敏感に感じ取っていたのでしょう。
 
人間は生きている限り罪を犯します。気づくこともあり、気づかないこともあります。
 
罪なき人は一人もいない。
 
即ち、立派に生きているつもりでも、気づかない罪があり、祈らなくていいということはなく、赦しが必要ないということもない、ということです。
 
ゆえに、総ての人は、正直に祈り、赦されることが必要だという意味なのです。
 
 
ブログで批判しているのですが、ネットには、学者気取りでキリスト教など宗教について語りながら、まるで神と対等に取引をしているかのような自惚れ屋で、デジタルの明確さもアナログの柔軟さも持ち合わせないで、理路が理解できず嘘と詭弁だらけになった幼稚な短絡だけで物を言うような、高慢だけが勝っている偽善者がいます。正直さの欠片もない、こういう人が、いちばん神に嫌われることになります。
 
 
主イエスは、その生涯において、
神を恐れず、罪を犯している人の醜さを、痛いほど知っておられました。
 
罪を犯していながら、罪などないかのように自らを飾って、
嘘でごまかす者がいることを知っておられました。
 
私たち人間は、自分の犯している罪の総てを知りえないのです。
 
私たち人間は、善かれ悪しかれ、自分の言動の影響を、
影響がなくなる時と所まで追うことは出来ません。
 
つまり人間が罪と思っている範囲には収まらないのが本当の罪なのです。
 
神が定めるところの、人間の罪のうち、
ほんの少しを守っただけで善人のつもりで、
いい気になってしまう人間。
 
神の教えを守って完全になる・・なんてことは人間には出来ません。
それが出来るなら、キリストが顕れる必要はなかったでしょう。
 
 まさに、楽山が言うようなつじつまの合う世界ならば、
 キリストは必要ないはずなのです。
 しかし、実際には、キリストが顕れたゆえに
 私のような者も、赦しと救いを信じているのです。
 
その罪性のゆえに、神に背き、人を貶める私たち。
その私たちが、悔いることさえしないならば、どうして救われ得るでしょう。
 
上の教えは、守れば救われるではなく、守れなければ救われないでもなく、
守れないであろう私たちが、既に、キリストの視野にはあるということです。
 
その上で、キリストは、救済の使命を、その公生涯すべてを通して表しておられます。
それは、聖書において救われた人々のように正直に乞い願うことであり、
私たちの場合、正直に、祈ることに他なりません。
 
神しか知らないことを、
知っているつもりになるのは大罪であります。
見える、守っている、分かっている、知っている、
このように思い、言い、心に決めつけることは神に対する大罪であります。
 
見えていない、守っていない、分かっていない、
そして、知らないでいる人間が、
生きてゆけるように、大罪だけは犯さないで済むように、
神は、計らいます。
 
神に救われるために、人間が出来ることは、
教えを完全に守ることではなく、それは既に不可能なのだから、
神に対して、正直に告白することだけなのです。
 
その正直さが、聖書の中の、救われた人々にはありました。
 
そして、
神に対して正直であろうとする者ならば、
人を平気でだますような有害で白々しい嘘は吐けなくなるだろう
ということを、
神は期待しておられるのかもしれません。
 
キリストの言う、律法の成就とは、このことなのです。
 
神は、行ないだけでなく、むしろ、人の心を見抜いておられます。
 
 

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               罪と救い
 
 
(2019年03月02日アップ、同日一部修正)
(2020年11月09日、加筆修正して再録、さらに修正)
 
 
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