ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の垢々連連

 
  楽山の垢々連連
 
 映画『赤々煉恋』を見た。
 2020年11月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26913286.html
 (一部省略)(記事タイトルは当て字)
 
 
赤い色ではなく、楽山の垢が、股間に溜まっているようです。記事2つ批判。
 
自覚がないために性懲りもなく書き続けている楽山のような病質者の厄介は、こちらで批判を貼り付けてゆくしかありません。
 

*せきせきれんれん(ネタバレ注意)
 GYAO!で、『赤々煉恋』を公開していたので見てみた。

2020-11-06 (5)赤々煉恋
・赤々煉恋 | 映画 | 無料動画GYAO!
(2020年11月15日(日) 23:59まで)
 」
映画の終わり方については、どうにも納得できないものがあったが、コメント欄を読むと、主人公は最後には成仏しただろうという意見があって、ハッとさせられた。
そう言われてみれば、たしかに主人公は自分のあやまちを自覚し、素直に詫びて以降、いつもの場所にも、自室にも姿を見せなくなっている。とすると、成仏したというのは当たりかもしれぬ。これは納得。
本作は、派手なアクションや、大どんでん返しのような大仕掛けはなく、淡々としていて静かな作品なので、退屈に感じる人もいるかもしれないが、『管制塔』『麦子さんと』『好きだ、』などの雰囲気が好きな人であればおもしろく見ることができるのではないかと思う。またスピリチュアリズム的なことも描かれているので、その方面に関心がある人も楽しめるにちがいない。

 
楽山が「ハッとさせられ」るのは、超常的な言辞に出会った時だけです。ここでは「成仏」がそうなのでしょう。超常という、生きている誰も経験したことのないことにだけ、楽山は、興味を持ちます。
 
ゆえに、楽山には、現実における自分の欠点など考えてもみない性格が養われてきたのでしょう。いろんなところに、楽山の致命的な欠点が表れてきます。しかし、楽山は、不都合を総て無視する人格崩壊?で、乗りきって?いるのです。おぞましいかぎりです。
 
「自分のあやまちを自覚」せず、「素直に詫び」る気もなく、高ぶるだけで、「これは納得」などと言っている楽山が、また、おふざけの趣味で、宗教めいたホラー傾斜の記事を書いてきました。
 
楽山は、スピリチュアルを自認していて、霊が分かるっぽい?自覚でありながら、人の気持ちが全く分からない自己愛性パーソナリティ障害です。
 
無反省、無責任、無理解のまま、人に教えたり勧めたりする厚顔無恥は、いったい、どこから来るのでしょう。
 
変質者の楽山が、「楽しめるにちがいない」と言っても、共感性のない楽山の評価など、評論家気取りでしかなく、何を勧める資格もありません。楽山の楽しみは、ホラーや霊の話で、自分を高めた気分になることだけのようです。
 
鈍麻した情緒と、訂正不能の自己中で、冷静な思慮もなく、明確な意志もなく、欲望から短絡して思いついたことを書いてくるだけです。どうか、近づかないでください。関われば、失望くらいでは済まない疲労を与えられます。
 

*ストーリー
ちなみに映画のストーリーは、おおよそこんな流れになっている。
女子高生の樹里は、自殺して以降、霊となってこの世をさまよっている。他の霊とも、自分が見えて話ができる人とも会えないままに、何年もひとりぼっちで過ごしている。しかし自殺したことを後悔してはいないし、樹里のことでずっと苦しみ続けている実母にはいらついている。
そんな折、樹里はようやく自分に笑顔を向け、話ができる少女(リンゴちゃん)と出会い、それが切っ掛けとなり、実母の気持ちを理解し、自分のあやまちに気づくことになる。

 
嫌がらせのように性懲りもなく書いてくる楽山です。霊とかホラーの話のみに興味のある楽山です。そこから、真面目な宗教を、けなし、おとしめてきました。そして、発言の責任をいっさい負いません。何事もなかったかのように、記事を書く厚かましさ、それが、続いているだけです。
 

*見どころ
自分にとっての見どころは、次の箇所だった。
樹里は、活発で、明るく、利他的な性格で、人のために犠牲になるのもいとわないのだったが、友達との約束を守れず、裏切ってしまったことから、家にひきこもるようになっていくところ。自分の中の利己心に気づき憂鬱にとらわれるのは漱石の『こころ』における先生に似ている。

 
楽山には、憂鬱は分からないし、体験もないと思います。それ以前に、悲しみが分からないし、体験もないと思います。体験しているのは、笑いと怒りだけでしょう。
 
だから、人を傷つけるようなことを平気で書いてきます。だから、楽山のことは、人間らしい "人" からは除外して考えるべきです。生まれ育った頃には、既に、心が無い人格異常が現れ、今も、それが続いているために、罪悪感と羞恥心が欠如しているのです。不都合の一切を、人のせいにして、悔いることがありません。
 

母親から信じているといわれたとき、樹里が荒れるところ。自分は信じるに値しないと思い込むほど追い詰められていたのだろうか。
母親に対して冷笑的だった樹里が、母親と同じ立場に立たされたことで、その気持ちを理解したところ。ここは泣ける。
樹里が成仏したあとも、母親も、友達も、樹里のことを思い続けているところ。のこされた者の気持ちが切ない。
この他にも印象的な場面は多くあるし、本作はなかなかの名作だと思う。

 
人の気持ちの分からない楽山が書いています。「泣ける」という言葉を書いても、恐らく、泣ける心を持っておらず、泣いたこともないと思います。根底にある感情は、怨念だと思います。
 
共感性のない楽山に、名作を判定する資格はありません。言葉だけ、気持ちを理解、泣ける、切ない、印象的、なかなかの名作、などと並べてきますが、褒め言葉並べておけばいいじゃろという作為の、精神の詐欺師であり、霊が分かるっぽい?から高いところにいて人を見下ろしている偽宗教家の成れの果てです。
 
この記事のように、乾いたポテチのような字面だけが並んでいるような精神の人です。
 
 
 「エル」の意味とは?(『基督抹殺論』幸徳秋水著)
 2020年11月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26912980.html
 (一部省略)
 
 
楽山の股間でしょうか。卑怯で、陰湿で、猥褻で、品位のない宗教観、総て、今までの楽山日記からの文脈を合わせて考えれば、表れてしまうものです。
 

*エル
「エル」とは神という意味だと聞いたことがあったが、幸徳秋水の本では次のように書いていた。

セミチック諸国民が男根の石像若くは木像を beth-El(神の宮の義)と呼び、或は単に EL(神其者の義)と呼ぶは、此の粗朴真率の精神よりせる者也。
(『基督抹殺論』幸徳秋水著〈岩波文庫〉、岩波書店、昭和29年、p.68)[旧字は新字に改めた]
念のため、別のところでも調べてみたが、同じことが書いてあった。
2020-11-05 (0)男根の石像若くは木像
・基督抹殺論 - 国立国会図書館デジタルコレクション(42/82)
 」

 
楽山が、ここで、宗教と下のことを書いてくるのは、決して宗教に興味があるからではなく、楽山のホラー好みと違って、現実の宗教を、股間で貶めたいだけなのです。この記事から想像される楽山の笑う顔こそ、見たくもない不潔な下ネタであります。
 

以前はこういう話は全然受け付けられなかったし、かなまら祭は珍妙なものに感じたものだったが、よく考えてみれば古代人は新たな生命を生み出す神秘的な力を持つ部分を神聖視し、神として礼拝したという話には一理あるのかもしれない。

 
神秘を知らないのに、触れたこともないのに、"神秘的" という言葉を使うわけですから、楽山が、どれほど、下種な意味で使っているかということです。毛ほどの "一理" もない楽山です。
 

神といえば天にあるイメージがあったが、実際には地上における生殖活動に起源を有するのだとしたら、なんとも皮肉な話ではある。これは、「一説によると…」という話に過ぎないとは思うが、覚えておいて損はなさそうだ。

 
このように、神に男根を見る楽山です。快楽山でしかないのです。宗教を、悪戯に、性的要素に結び付けて、"皮肉な話" と言って済ませていることから明らかです。
 
真剣に真実を追求しようという気持ちも心も一切持っていない楽山です。その実質が、批判によって、ズルズル明らかになってきたのです。楽山の記事を読んで真に受けることは、人生を棒に振るようなものです。
 
楽山の股間は知りませんが、表れた精神はとても汚く、不能と言っていいほどの、宦官的下心に溢れています。どうしよももないのでしょう。だから、また、書いてくるのです。
 
楽山は、神が大嫌いであるのに、あるときは、祈りの体裁で記事を書き、クリスチャン芝居をしていたことがあります。この三文芝居の大根役者が、楽山の本質であり、宗教について書いても、真剣に宗教などに真実を求めることはないのです。だから、だまして、いい気持になり、裏切って、笑っているところの、人でなしです。
 
耳はあるが聞かず、でも聞いたと言い、目はあるが見えず、でも見たと言い、体はあるが心が無く、でも共感した反省したと言い、言葉はあるが、玩具のように並べるだけであり、思想のお芝居に遊び、宗教と信仰を、おとしめて、逃げるだけの、自分を高めたい情動だけに生きているインテリ気取りの、実は本能性だけのサイコパスが楽山であります。
 
欲望だけが生きている股間の病原性の垢であり、長く楽山の悪臭にさらされ、慣れてしまうと、同類の化け物になるでしょう。楽山の股間に棲みたくないならば、決して関わってはいけません。
 
楽山は、自らの醜さに気づかないようだから、また、書いてくるでしょう。楽山は、変わることがなく、楽山がまんまと騙せていた頃とは、楽山の周りが変わってゆくでしょうが、それにも、楽山は気づかないで人生の終わりを迎えるのでしょう。
 
そういう病質者やカルトにつかまって長びくと、そこで、人生が終わってしまう可能性があります。何故なら、人間は、何か良いものを、不変にしたがる性質があるからです。
 
良いものが実は悪しきものであった場合、犠牲者は、反省力が働かず、そこで辻褄合わせをしてしまうのです。ゆえに、相変わらず不変となり、人格の変性と悪質と崩壊を、サイコパスと共にすることになってしまいます。だから、早く、離れてください、関わらないでください、近づかないでください、と言い続けています。
 
病質者が、最初に犠牲者から奪うのは、人間に、最小限必要な、反省力だからです。長い間、洗脳された後に反省力が回復するのは、もはや、奇跡のようなものです。つまり、カルトは、生きている人間から先の可能性を奪うところの、既に、墓荒らしのような者なのです。
 
ですから、知能に関係なく、とりわけ、病質者の、顔ではなく、表情は、実に、愚鈍で、醜いだろうと思います。
 
私は、この地上で、最も、愚かで、みじめな部類の人間ですが、今思えば、私の長過ぎる人生は、ただただ、楽山やシャロームのような部類の者にだけはなりたくない一心で、キリストに救いを求め続ける人生なのかもしれません。
 
 

      f:id:stdsts:20201109234834j:plain

               しゅうあく
 
 
(2020年11月10日、同日一部修正)
 
 
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