ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

大事なもの2

 
  大事なもの
   (過去の記事を加筆して再録)

 
 
大昔から聖書に書かれている神の起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
処女懐妊から復活に至るまで
キリストにまつわり
またキリストが起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
それらに驚いた時代は二千年前ですが、
今それら奇跡を当てにできるでしょうか。
 
今は滅多に起こっていない奇跡を
私たちの信仰の縁(よすが)にできるでしょうか。
 
滅多に起こらないものを当てには出来ません。
それに
物や肉体の奇跡を起こすのは神の業です。
神に任せるべきことです。
 
むしろ当てにすることは的外れと知るべきです。
共感できないのだから心の縁にもできません。
 
 徒に感情を高ぶらせて
 信仰と讃美を豪語するのは偽善者の三文芝居です。
 
私たちが共感できて
信仰の縁にできて
そのために泣くことが出来るのは
キリストが人々と交わり
キリストが人間を洞察して
人間の悲哀に共感されたからです。
 
その共感すなわち愛ゆえに
共感なき者たちによって捕らえられ
キリストは十字架につきました。
 
驚くべき救いの奇跡のためにも
驚くべき再臨と終末のためにも
私たちは神の民として人間であるべきです。
天国を待ち望む民であり続けるためには
考えるべきことがあります。
 
少なくとも今は
当てにできない奇跡の仕組みを
学校の勉強のように頭で覚えたり
牛のように口で反芻したり
録音のように耳に繰り返したりして
それで深めようとする信仰観は
むしろピント外れの偽善的徒労だと思います。
 
キリストはいかなる人々と交わったか、
人々は何を抱えてキリストに出会ったか、
キリストはその人々に何を見出したから共感されたのか、
人々は何ゆえにキリストからの愛を知ったのか、
それこそが
今を生きる人間として
信仰者として縁にするべきことなのです。
 
それを理解することを、魂の奇跡、と呼んでいます。
物や肉体の奇跡に対して
心の奇跡と呼んでもいいと思います。
 
神の僕ぶった高慢ではなく
裸の心をもって正直であり、
飾らず偽らず自らを神の前に捧げて、
正直であるがゆえに
ときに嘆いても
祈る自分の涙袋
主の眼差しが注がれてゆくように
祈り乞い願い
癒しと救いの成就を待ち望む人間の姿を見ていただきましょう。
 
神を讃えなければという義務ではなく、
嘆きがあれば
嘆きを正直に告白して祈りましょう。
それが祈りだと思います。
 
できることをして
感謝と讃美が生まれる時を待ち望みましょう。
それが信仰生活だと思います。 
 
 

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           海・浜・人
 
 
(2018年04月23日、同日一部修正)
(2020年11月11日、若干加筆して再録)
 
縁(よすが
業(わざ)
徒に(いたずらに)
反芻(はんすう)
僕(しもべ)
讃える(たたえる)
 
 
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