ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の剥き出し

 
  楽山の剥き出し
 
 
楽山は、また、3つの記事を書いてきました。むき出しの悪意を、もはや、隠せなくなったようです。つまり、楽山は、評論しているのでもなく、議論しているのでもなく、意見を発表しているのでもなく、ただ、保身の欲望に、けしかけられて持ち前の詭弁で暴れているだけなのです。
 
今回は、小野不由美、という"悪霊シリーズ"などの怪奇小説の作家の言を悪用して自己正当化をしたいようです。他者を平気で悪用して、何も罪悪感を感じないのも、楽山の一貫した特徴です。
 
 
 祈りについて(『図南の翼』小野不由美著)
 2020年11月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27061901.html
 
 
とても、短い記事です。丁寧語にだまされないように。
楽山の書いた記事が、楽山を斬るのです。
 

*真実な祈り
 最近は、「十二国記」にハマっていて、そればかり読んでいるのだが、祈りについて、いいことが書いてあったのでメモしておきたい。

祈りというものは、真実の声でなければ届かない
(『図南の翼』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.383)
 」
この後は、祈りは「本音でなければならない」という言葉が続いているのだが、これは自分にもよく分かる。以前、あることを本気で祈ったときに、即、かなえられて、なるほど本心から祈ればこうなるのかと実感したことがあったので。

 
楽山は、本音を言ったことなどありません。本音ならば、責任を負うはずです。楽山の言行が、全くの不一致です。無反省無責任の楽山は、狂気の欺瞞を剥き出しにしてきました。
 

祈りについては、宗教によって、または人によって、さまざまな教義、経験があるのだろうけれども、祈るときは正直であれというのはどの宗教でも、個人の経験でも共通しているのではないかと思う。

 
その神を欺いて、嘘の祈り芝居をしたのは、楽山その人であります。それは、また、クリスチャン芝居でもありました。つまり、楽山は、読者を芝居で欺き、宗教を侮辱したのです。
 
 
 責難は成事にあらず(『華胥の幽夢』小野不由美著)
 2020年11月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27061996.html
 
 
冷静に書いて俎上に載せるということが出来ず、議論できない楽山が、責めるのはいけない、などと書いています。根拠を示す批判と、楽山の嘘で固めた悪口の区別が、まるで、つかないようです。
 
しかも、ずっとですが、自分の責任ある言葉を持ち合わせていないために、今回も、他者の意見を自己正当化に悪用しています。もはや、小中学生の節操もないのでしょうか。楽山は、丁寧を装った悪口であり、決して議論好きではありません。
 

*耳に痛いこと
十二国記を読んでいたら、議論好きの自分としては耳に痛いことが書いてあったのでメモしておきたい。

 
言ったことの責任を負わない者に、どうして議論が出来るでしょう。楽山は、正常な議論をしたことなどありません。楽山は、議論好きではなく、議論の体裁を悪用している悪党です。
 

まず、この物語の主人公たちは、悪政によって苦しめられている民を救うために、道を見失った暗愚な王を批判、排除し、自分たちが実権を握り、種々の政策を実行したものの、どうしたわけか、かえって国土は荒廃し、民を困窮させることになってしまったという状況下において、次の話をしていた。

責めるのは容易い。非難することは誰にでもできることです。でも、ただ責めるだけで正しい道を教えてあげられないのなら、それは何も生まない。正すことは、何かを成すことだけど、非難することは何かを成すことじゃない
(『華胥の幽夢』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.287)
 」
また、こうも言う。

私たちみたいに、高い理想を掲げて人を責めることは、本当に簡単なことです。でも私たちは、その理想が本当に実現可能なのか、真にあるべき姿なのかをゆっくり腰を据えて考えてみたことがなかった気がするんです。
(同上、p.291)
 」
自分としては、他人と議論する際には、理想は人それぞれ異なること、相手に無理なことを求めないことを心掛けているつもりではあるが、

 
楽山が、「理想は人それぞれ異なること、相手に無理なことを求めないこと」と書いています。誰が、言論において理解を無理に求め得るでしょう。
 
楽山は批判者に当てつけているだけです。しかし、議論は対話ですし、無反省で無責任の楽山とは不可能なので、楽山が書いてきたことを批判しています。
 
それを、無理を求めるなと言って、我を通したいようですが、楽山の我は、どこにも出せない無反省と無責任の産物であることが、既に、明らかになっています。
 
楽山の言は、いちゃもんを言って、悪いイメージを吹き込もうとする詭弁家の荒らしの所業です。いかなる真実追求にも、無責任でよいなどということは成立しません。
 
楽山は、おのれの無責任を責めることと、一般論であるところの、相手に無理に求めることを、恣意的に混同して、批判を否定したいのですが、逆効果であり、またしても、楽山の無節操が明らかになります。
 

「自分にはとても実現できない理想を描き、その理想の妥当性についてさほど吟味することなく、それに合致しないことをもって他者を批判してはいないか?」と問われれば、そんなことは絶対にないとは言い切れないのはつらいところだ。反省。

 
楽山は、正当な批判をしたことはありません。いちゃもん、当てつけ、当てこすりの、とても卑怯な刷り込みだけしか書けないのです。この記事もそうです。
 
そして、自分を、いつも、中立で、偏らない立場に置きたがるのですが、否定も肯定も言って、なお無責任では、何も成立しません。
 
批判されても平気でいるのは、人を人とも思わないほど傲慢だからです。ゆえに「反省」は、いつもの、トホホ言語であり、その反省の経過も結果も、書くものに表れたことがないので、いつものように、真っ赤な嘘です。
 
だから、楽山は、気取りだけで慢心する自己中なのです。楽山は、言うことが、どんどん、あざとく、剥き出しになり、ますます汚くなってゆくようです。
 

*余談
ちなみに、この手の話で思い出すのは、この議論だ。

青木理『批判はするが対案は示さない』小松靖アナに論破され苦し紛れの言い訳。それじゃただのガヤ|政治知新
小松靖アナが青木理に浴びせたネトウヨ常套句|LITERA/リテラ
 」
これを読むと、当然のことながら、「耳に痛いこと」で書いたことは、いつでもどこでも誰にでも当てはまることではなく、時と場合によってはそうとも言えないことがあるようなので、なかなかにややこしい。

 
自分の言葉で、自分の意見を、責任をもって、書くことが出来ない楽山の「なかなかにややこしい」という曖昧な言葉しか書けず、理路を組み立てられない有り様が剥き出しとなり、それゆえに、陰険で、傲慢で、闇に企む体質が、表れています。
 
 
 自分の確信を疑わない人(『華胥の幽夢』小野不由美著)
 2020年11月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27062214.html
 
 
反省しているように見せて、みすぼらしい自己正当化の詭弁で結ぶ、という、卑しい詭弁屋の楽山の筆致が、地獄のゴミために堕ちてゆきます。
 

*過信
前の記事に続いて、十二国記を読んでいたら、また耳に痛いことが書いてあったのでメモしておきたい。

貴方に恥ずべきこと――後悔すべきことがあるとすればただ一つ、それは確信を疑わなかった、ということです
(『華胥の幽夢』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.296)
 」
恥ずかしながら、自分は若い頃に、カルトにハマってしまったことがあるのだが、そのような失敗をした原因は、まさにここに書いてある通り…「確信を疑わなかった」ことにあったのだった。

 
反省は、今、必要なのに、言葉だけ書いて、今は楽山が批判しているHSを批判するために、過去の確信を疑わなかったことを反省めいた書き方をしてきます。実は、これが、とんでもない詭弁だと言うことを知る必要があります。
 
もし、後悔するなら、今も、指摘された無反省と無責任を反省できるはずです。しかし、そういう反省は一度も見られたことはないのです。
 
楽山にしてみれば、過去のことだから、今は必要ないから、信じたのは失敗だったと、安心して書けるわけです。これを、真摯な反省などと思わないでください。楽山の根底にあるのは、反省ではなく、訂正不能の慢心と他者への怨念です。
 

当時の自分は、「この教えは真実だ!」「教祖はまさしく神だ!」「自分はこの宗教と出会うために生まれてきたのだ!」と強く確信して、それを少しも疑わないままに駆け出してしまった。

 
楽山が「当時の自分」を、いくら反省して、反省できる人だというアピールを印象付けようとしても、今反省するべきことから、即ち、無反省と無責任から、目を背けている事実は、どうしようもありません。むしろ、汚さが剥き出しになるだけです。
 

本当なら、その確信は正しいかどうか時間をかけてよく考えてみるべきだったし、頭を冷やすためにいったん対象と距離をおいたり、他者の忠告にはもっと真剣に耳を傾けるべきだったのに、確信という幸福感に溺れてそれができなかった。これが自分の失敗の原因。いやはや、自分はあきれてしまうほどの愚か者だなと思う。反省。

 
楽山が、既に、記事を書くたびにバレてきた数々の嘘の反省の履歴があり、無反省と無責任の履歴があり、今までの嘘、今までの詭弁、今までに明らかになった病的体質が明らかになったのだから、楽山の信頼度がゼロになった今では、何の意味もありません。
 
その証拠のように、また、不感不応の批判無視で、ネチネチと言い訳めいたことを、3つも書いています。どこまでも、自己正当化、もはや、手遅れであり、真実追求のテーマから、退く以外にはないのです。
 

司馬遼太郎の講演で、思想的な酩酊体質について語ったものがあるが、思想・宗教について強く確信することは、思想・宗教に酔うことでもあって気持ちの良いことだが、酔えば判断力は鈍るものだし、思わぬ失策をすることもあるので、ここはよくよく注意すべきなのだと思う。

 
そして、楽山のあくどいところですが、過去の楽山の失敗を、確信の否定として、思想・宗教について広げる企みが露骨に続いていることに注目してください。
 
個人の過去否定を、全体の重要なテーマについて、広げて、同じように扱って「よくよく注意すべき」などと言っています。楽山の失敗と、広く深く重いテーマである思想・宗教の真実追求は、何の関係もありません。
 
つまり、何ごとも確信してはいけないという楽山は、総てが、どっちつかずで、いい加減が一番良いと思っている従来の無責任の正当化に結び付ける、という、実に、卑怯で、醜くて、酷い詭弁です。
 
楽山は、みな、バレているのに、まだ書き続けられると思っているのでしょうか。手遅れなのでしょうか。楽山の欲望と我執と罪と偽善の、執拗で恐ろしい業(ごう)の深さが続いています。
 
 
私は、キリスト信仰から、むしろ、人は、神とは違う、という謙虚を学んでいます。
 
楽山は、宗教と反宗教という矛盾した自家撞着から、なぜか、自己中の傲慢を身につけただけです。この悪性は、無反省と無責任という、大きな我執をもって、人格を破壊してゆく病原です。
 
 

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         むき出しのワナ
 
 
(2020年11月22日)
 
 
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