ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の怖さ

 
  楽山の怖さ
 
 信仰と固定観念(HS信者を見ていて思うこと)
 2020年11月26日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27120971.html
 (画像省略)
 
 
楽山のような病質者というのは、罪悪感がないために、弁明しないまま、攻撃的記事を際限なく書いてくるのです。その執拗さと激しい怨念には、火山の火砕流のような勢いがあります。
 
しかも、批判されにくいように文章を画像で示したりもします。しかし、引用されている画像は、大方、HS関連のものなので、楽山批判というテーマにおいては省略してよいと思います。
 

*ノルマ強制?
ツイッター上で、HSにおけるノルマの有無が議論になっている。
その中身については、パスタファリアン氏のまとめによると次のような流れだ(ツイッターの方に行けば、この続きも見ることができる)。
(画像省略)
傍から見ての感想だけども、信者の田中氏は、そのツイートからすると、次のように信じていて、それに反する情報は一切受け入れるつもりはないようだ。
HSにノルマ強制はない
信者は不妄語戒があるから嘘はつかない
アンチはHSを逆恨みして、嘘をついたり、捏造したりする
普通の人であれば、ノルマ強制なんかないと思っていたとしても、これだけ沢山の人たちがノルマ強制と思しき体験談を語るならば、「ノルマ強制は、自分の周囲ではなくとも、他の支部ではあったかもしれない」ということくらいは考えるものだと思うのだが、田中氏は上の信仰があるせいか、そのようなことはなく、HSにノルマ強制はない、アンチは嘘をついていると断言し続けるばかりだ。
どうやら田中氏の信仰の壁は、厚く、高く、堅固であるらしい。

 
楽山は、平気で詭弁を弄したり「嘘をついたり、捏造したり」します。提言者としても批判者としても失格です。この一点において問題外なのに、楽山は、言い続けているのです。
 
しかも、人の言うことに対しては、楽山のほうの「壁は、厚く、高く、堅固であるらしい」ので、これもまた、平気で無視が出来るのです。楽山は、カルトより怖いのかもしれません。
 

*やれやれ
ちなみに上の構造は、LEO氏でも同じだ。エル・カンターレ信仰に基づいて考え、語るばかりで、それに反するものは受け付けない。
もうちょい具体的に書くと、HSで、不信仰者やアンチは、これこれこういう考え方の人たちだ、イエストルストイジョン・レノンの関係はこのようなものだ、エル・カンターレ、イエス、HS、キリスト教の関係はこのようなものだという風に説けば、その枠内で考え、語るだけで、その枠外のことは拒絶するということだ。

 
完全な自己中心に凝り固まっている楽山は、自我に固まり、不感不応の壁によって、世辞以外、何も受け付けません。自分に都合の良いこと以外は、拒絶し、なかったかのように、同じことを繰り返し書いてきます。人間には出来ないことのように思われます。
 

「私はアンチですけど、そんな風な考え方はしないよ」「HSとキリスト教の関係はそうじゃないよ」といったところで、「屁理屈だ」「言い訳だ」「自分勝手な解釈だ」と決めつけておしまい。自分の信仰に反する情報は受け付けない。
今日もたくさん記事を書いているようだが、ざっと軽く眺めたところでは、こういう構造には変化なし。やれやれ。

 
楽山は、アンチ?、つまり、批判者ではありません。我執に凝り固まった病質者であり、罪悪感も羞恥心もないサイコパス的人格であり、楽山は、批判しているくせに、自身に向けられた批判に対しては、全く無視して、嫌がらせを書いてはきても、弁明できず反論できないことが証拠です。
 


・神が自由意志を与えられたことが、どんなに深い意味を持つか、はかり知れない気がする
・(どこかちがう!)と思われる人間にならねばならない
・神が「せよ」と命ぜられたことには、わたしたちは、謙虚に従ってみようではないか
・「何を以って愛とするか ―ジョン・レノンの霊言」を読もう
高級霊の思いと言葉は美しい、地獄霊は屁理屈を言う ~「文豪たちの明暗」~
大川隆法先生への感謝と、自分の未熟と
 」(リンク省略)
でもいつかこのことが分かる日が来るかもしれないし、このことが分かる現役HS信者がここを見ているかもしれないので、一応書くべきことは書いておくことにする。

 
楽山の、いつか分かる日をイメージできません。また、嘘だと思うでしょう。楽山には、カルト信者のような素直ささえも見られないのです。
 

*信仰と自由意思
HSでは、基本的には、信仰を持つかどうかは、その人の意思次第ということになっていたかと思う。
でも聖書には、こう書いてある。

神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
(ロマ8.30)
 」
以前、この件について、キリスト教質問箱で問うたことがあったけど、信仰を持てるかどうかは神の召命のあるなしによる、ただし人の側から神を求めることも大切ということだった。
この辺りの考え方について、HSとキリスト教とを両立させるのは難しいと思う。

 
神は、人を召命するのでしょう。しかし、神が、ある特定の人を召命したかどうかは、人間には分かりません。つまり、地上では、人にとっては、あくまで、自由意志で信仰を志してゆくのです。
 
そこが分からない楽山は、実に、悪意によって、キリスト教の神を利用して、神を、人の立場から、扱っている時点でアウトなのです。人には分からない超常を、分かっているふうに、騙(かた)ってゆく楽山の怖さが、ここで、明らかになっています。
 

*従順、服従について
このテーマについて、聖書の考え方を知ろうとするなら、ヨシュア記を読めばいいと思う。そこでは、神から住民皆殺しを命じられ、その通りにする話が繰り返し語られている。また創世記には、アブラハムは、神の命令によって息子をいけにえにささげようとする話もある。

 
楽山の聖書の話は、全く無意味です。相手にしないでください。生贄に捧げるように命じた後で、神は、アブラハムが息子を殺すのを、天使を通して、止めています。何らかの試練を与えた可能性がありますが、はっきりした解釈について、私は保留しています。
 
楽山は、凝り固まっているので、保留と言うことが分かりません。人間には分からないことがあると言うことが分かりません。だから、神の辻褄を空しく追っているのです。まさに、風を追うようなものであります。
 

HSではこういう話をそのまま受け入れることはできず、殺害命令は悪魔の声を、神の声と間違ったのだろうという解釈をすることになるのではあるまいか。
キリスト教系の掲示板で、「神が殺せと命じるとき!?」というようなスレッドを見掛けた記憶があるけど、HSではこういうことを考えることはできなかろうと思う。

 
いちばん凝り固まって、言論が出来ず、何も成り立たないくせに、悪口だけ言ってくるのが、楽山という病質者なのです。
 

カトリック
孫引きで申し訳ないのだけれども、服従について、カトリックの方ではこんな考え方があるそうだ。

諸君が命令どおりに服従して行った瞬間に、神は諸君の責任を解除して、その責任を修院長に負わせ給うのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.89)
 」
これは神の代理人とされる修院長に服従している限りは、責任は生じないという理屈らしいが、自己責任を基本とするHSでは、これを受け入れるのは難しいだろう。

 
修道院のことでしょうか、カトリックの教えを引用しているようだが、ちょっと読んだだけで、神髄を知ったかのように、気楽に記事に載せて味方とするような振る舞いが、楽山という病質者には、前から見られます。神聖に対する恐れを知らないことが、もっとも、恐ろしいことです。
 

*夫に仕える
三浦綾子が夫に従順だったという話は、自分が行った講演会でも話されていた。口答えすることなく、なんでもハイと返事をしていたと。
おそらくは、聖書に従っていたのだろう。

妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
(エフェソ5.22)
 」
三浦綾子が夫に従順だったというのは、HS的には、謙虚、謙遜、無私などを理由にするかもしれないが、三浦綾子は聖書の言葉は自分勝手に緩く解釈してはならないという考え方の人のようであるし、

 
聖書の教えは、人間関係にも、及ぶことはあるでしょう。完全に守ることは出来ないのが人間です。楽山が、「自分勝手に」小説家のことを「解釈」云々するのは、人間として、傲慢であります。何を知ってるつもりなのでしょう。
 
楽山は、聖書を利用したつもりで、聖書と信仰と信仰者と人間をけがしています。
 

HS的に心の教えを実践していたというよりも、そういう原理主義的な信仰による行動だったのだろう。

 
信仰は、○○主義や、○○イズムには、なりません。三浦綾子氏の信仰生活を、原理主義的な信仰と、婉曲的に揶揄していることを、忘れないでください。これが、楽山です。
 

また噂によると、最近のHSでは、夫より、エル・カンターレを選びなさいと説いているという話があるが、これが本当なら上の聖書の言葉とは大分違うように思う。

 
楽山が、聖書の言葉と違うことをもって、批判していることは、実に滑稽です。聖書に、いちばん、反しているのは、どこから見ても、婉曲的な悪意がバレている楽山であります。
 

*最後に
HSには、生長の家の影響もあってか、万教帰一的な考え方があって、HS、仏教、キリスト教などはその根本を同じくするものだというけれども、実際には上のように、同じ言葉を使っていても、その意味、背景、論理などは異なっており、安易にいっしょくたにしてはいけないものだ。
こういうことは、HS信者にとっては受け入れ難いものだろうけれども、そういう考え方があるということくらいは、頭の隅にでも置いといて欲しいものである。

 
同じ言葉も、違う言葉も、どんな言葉も、誰の言葉も、言えば、悪意が働くのが、楽山だと思っていたほうがよいと思います。
 
私は、ずっと、真実追求のテーマである宗教と信仰と思想について、楽山には何も書く資格がないと書き続けています。
 

◇◆ 追記 2020.11.26 ◆◇
*美しさ
LEO氏の記事タイトルに「高級霊の思いと言葉は美しい」とあるので思い出したが、HSでは「高級霊はみな詩人である」とされていたのだった。
でも、ツイッターで拾ったものだけど、大川隆法はこんな詩を書いているらしい。

デザート1
デザート2
 」(省略)
この詩集には、この他に「神の乳房にむしゃぶりついて…」とか、処女がどうしたこうしたという詩もあって仰天させられるのだが、率直な感想としては、「高級霊はみな詩人である」という教義と、現実の大川隆法の詩とでは隔たりがありすぎて、この二つを矛盾なく結合させるのは大変だろう。
余計なお世話だろうけれど、一退会者として、教義と現実との差異に気づいて悩んでいる信者には、あまり無理しない方がいいよと言ってあげたいと思う。

 
楽山の、美意識のみならず、人格そのものを全く信頼できないので、何か揶揄しているようだが、その揶揄を信頼できません。
 
楽山が、詩の形式で書いていたクリスチャン芝居は、わざとらしくて、白々しくて、とても、読むに耐えるものではありませんでした。
 
 

       f:id:stdsts:20201127001251j:plain

                 三文芝居の怖さ
 
 
(2020年11月27日、同日一部修正)
 
 
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