ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

被害的・他罰的2の4

 
  被害的・他罰的2の4
 
   st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ)
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547467881.html
   楽山日記(a)2019-11-21 に対する批判を加筆して再録。
 
 
またしても、悪口の機関銃となっている楽山です。罪悪感の欠損と厚顔無恥の結果なのです。読む上での読者の利便性を気遣うということが出来ないのです。楽山の言論には、適切、というのが無くて、みな、テキトーになっているのでしょう。
 

中村元原始仏教もこれと同じ構図だ。HSでは、大川隆法の過去世は仏陀であり、偉大な神通力を持っていて、人を超えた存在だったとしている。だから仏陀の神通力や、奇跡話やらは、後世の神格化の過程で生まれた神話伝説であって、現実の仏陀はそうではなく、その人格的な高貴さによって尊崇されたのだろうという中村元は批判されることになる。

 
分かるでしょう。楽山は、仏教もキリスト教も、薄っぺらに受け取って、小学生レベルの理路と感情の、先入観だけで、話にならない幼稚さで、けなしているだけです。
 
楽山には、保留という概念がないようです。分からないと言えない人なのです。そのくせ、好き勝手に、賛成を言い、反対を言い、断定していないから、責任はないと言うのです。人格そのものが、既に、矛盾しているのです。
 
実際には、どちらも宗教も、様々な人々によって、いろいろな考え方があって、思索や議論や意見交換がなされている必然です。
 
楽山のような軽薄者が、短絡した決めつけで、結論を出せるようなものではないのです。楽山が人を無視してきたように、誰からも無視されてほしい楽山です。自己顕示欲の最も貧弱で、最も恐ろしい顛末(てんまつ)が楽山において見られます。
 
(ネットより)
中村 元(なかむら はじめ、1912年(大正元年)11月28日 - 1999年(平成11年)10月10日)は、日本のインド哲学者、仏教学者[1]。東京大学名誉教授、日本学士院会員。勲一等瑞宝章文化勲章紫綬褒章受章[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%83_(%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
 
楽山は、ビッグネームが大好きのようです。自分も同様だと肩を並べるような自意識でしょうか、そういう悦楽を覚えるのでしょうか。しかし、今まで、その有名を、自分を高め、他者をおとしめるために、悪用してきたのです。引用元が、いい迷惑でしょうが、既に故人であります。
 

でも私に言わせれば、中村元の考え方は、遠藤周作の考え方と同様に、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどの偶像崇拝をしりぞけ、HSのマイコン解除に益ありということになる。

 
どこまでも、反省せず、責任を負わないのに、忠告したがる自己顕示欲の楽山です。そういう人は、結構いるかもしれないが、今回の記事で、その人間離れした悪意は、むしろ、突出して脅威です。
 

先の遠藤周作中村元についての記事には、以上のような背景があるし、こういうHSの知識があれば、よりその意図が分かると思う。もっともこの辺りの事情は、HSとは無関係な人は知る由もなかろうし、そんなことは気にせず読んでもらって構わないけど、一応知っとく方が深く読めるというのは言える。

 
すっかり有名人を味方にしているような、楽山の高慢です。訂正不能の自己中妄想かもしれません。楽山の知識は、塵埃よりも有害であると、経験から申し上げておきます。
 

あと中村元の読書感想文にある、信仰を捨てよというのは、中村元が翻訳した原始仏典にある有名な言葉だ。釈迦がこの言葉を言ったとして、どういう意味で言ったのかは議論があるようで、自分にとっても興味ある言葉になっている。だから記事の中にしれっと入れといた。

 
しれっと無視してください。楽山は、誰の言うことも無視して、有名人を味方につけているつもりの誇大妄想狂と言ってよいでしょう。人を無視していると、このようにも、つけあがるというのは、怖いことです。負の教訓としてください。今までの経過から、楽山は、とても、惨めな人であり、自ら悲惨を招いており、これからも、大きく変わることはないでしょう。
 
>私は文字を詰めて書いた記事は、分かる人には分かればいいと考え、
 
楽山の記事を読んで、分かると思った人は危険です。楽山のこのような言葉にだまされないでください。怒り狂って嘘を吐きまくるか、あざ笑うか、ニタニタ笑うか、という程度しか出来ない男です。
 

ある程度の知識量がある読者を想定して書いてる。一般読者は何も感じず読み飛ばしてしまうが、ある程度ものを知っている読者であれば楽山はあのことを言ってるんだなとニヤリとするだろう書き方。「赤毛のアン」にはさりげなくシェイクスピアなどが埋め込まれているというし、映画作品には、一般人には分からないが、映画ファンにはすぐに気づけるオマージュが仕込んであることがあるが、私はそういうのは好きなので。

 
楽山には、役に立つ知識も、真実へのヒントになる知識も、皆無です。楽山の書いた記事が、役に立つことも、参考になることも、今まで、なかったからです。楽山だけが、部屋の中で、裏を読んだつもりで、独りで、得意そうに笑っているだけだと思います。
 

*生きにくさ(追記 2019.11.23)
率直に言って、stさんを見てると、こんな感想を持つ。被害妄想があるなら逃げればいいのに、やたら攻撃してくる。嫌いなら離れればいいのに、くっついてくる。被害者を出さないためにカルトを批判するというなら優しい人だろうと思えば、自分の思い通りにならない相手にはすぐ怒る。

 
私は、批判しているのです。根拠も示しているのです。楽山は、人間に必要なものが欠けているのです。良心、共感性、深い情緒と、深い思慮、いずれも、楽山には、見られないのです。
 
私は、大方、冷静に書いています。厳しい言葉も、コントロールして使っています。そういうことを、シャローム批判では書いたことがあるのですが、人の書いたものを、まるで読まないし、読んでも理解できない楽山には分からないのでしょう。
 

ずいぶんと屈折してるし、これだと相当に生きにくいだろうと気の毒に思う。でもこういう人は、私が知らなかっただけで、案外にいるらしい。ツイートにこんなのがあった。

(省略)
 」
上のツイートの返信には、こういう声もあった。

(省略)
 」
こういうのもある。

(省略)
 」

 
あえて書くなら・・
今回、楽山は、言葉でこちらを傷つけて、自分を守ろうとしています。刃物を振り回している感じです。楽山に近寄らないでください。楽山は、褒められないと攻撃する人です。
 
少しも、気の毒などとは思っていない記事を書きながら、気の毒と言う楽山は、嘘っぱちであります。息を吐くように嘘を吐き、詭弁をもってしか、交流できない、ならず者に、どうか関わらないでください。近づくこともしないでください。
 

他人から猛烈に攻撃されると、自分はそうされても仕方ない悪いことをしたのかもしれないと落ち込んでしまいそうになるけど、今はネットがあるおかげで、やたらと他人を攻撃する人についての知識を広く共有できて便利だ。ネットは本当にありがたい。もっともネットのせいで、その種の人と出くわす機会も増えたかもしれないが。

 
楽山は、私を、すっかり、その種の人にしたいようです。私は、「やたらと他人を攻撃する」のではなく、今、特に悪質な、楽山とシャロームを批判しています。彼らは、異常者、病的ナルシスト、サイコパスだと思うからです。今回、その意識は強化されました。
 

ところで、被害妄想について検索したらこのページが出てきた。stさんにはいろいろと当てはまるところはあるようだ。ちょっとしたことで激怒する。相手を敵と思い込んで攻撃する。自分のブログは見られてる、自分は注視されてると思い込んでいるせいか、全然関係ないことも自分への嫌がらせ、攻撃だと決めつける。

 
楽山が、前に、私がアクセスを増やそうとして実名を出している、つまり、自己顕示欲からだ、と言ったことと大して変わりないようです。有名人でもないのに、実名を出したからと言って、アクセスが伸びたりしないです。
 
当てはまるのは、楽山のほうです。特に、「自分は注視されてると思い込んでいる」という自己愛と自己顕示欲は、犯罪心理レベルだと思いますし、楽山の体質だろうと思っています。
 
私は、激怒はしていません。今までの成り行きは、楽山への、負の判断が、楽山によって、強化され、いよいよ確からしくなってゆくだけです。今回、特にそうです。楽山が悪口の機関銃になると言いましたが、あることないこと無節操に並べて、まさに、そうなっています。
 

自分と友好的な相手でも陰に隠れて敵と秘密の遣り取りをしているのではと疑う。悪の組織が自分を迫害しようとしていると思い込む。さして根拠もないのに性急に結論を出し、いったんこうと思い込んだらそれに反する証拠が出てきても訂正不能となる等々。お節介かもしれないが、もしまだ専門家に相談していないならばそれを検討してみてはどうかと思う。

 
楽山の陰険さと、クリスチャンでもないのに偽牧師シャロームと強張(こわば)って連携していることが表れています。また、私が批判したことを否定する証拠を、楽山は一度も提示したことはないです。ただただ、悪口を言い張っているだけです。
 
楽山は、恐らく、今までにも問題行動があったでしょうから、精神科で診察を受けたことがあるのではないかと思います。ひょっとして、警察の世話になったこともあるのでしょうか。
 
今回の悪意と敵意は、相当なものです。なりふり構わず、前後の見境なく、一方的に、書いてきましたが、根拠は何も示されていないのです。一方で、事実の歪曲、捏造が、目立ってきました。
 
丁寧語で書くので、楽山本人は、目立たないと思っているかもしれないが、激情と言ってよいほどの勢い任せで、あることないこと書きまくっています。
 
読者に、読みやすく、分かりやすく、などという配慮を、まるで気にかけずに、まるで押し売りのように、顔を近づけて、脂汗を滲ませて、目をむいて、書きなぐっているのではないかと思いました。そういうのは、嫌です。
 

*動機(追記 2019.11.23)
ちなみに今回の記事を書こうと思ったのは、下のやり取りを見たから
だ。shalomさんは、vさんはstさんの攻撃で深く傷つけられたと語ってる。
[省略]
vさんは神学者、哲学者として福音を土台として人間学的な聖書理解をしようとしておられました。イエスの死とよみがえり、聖霊信仰もその根底にありました。そのことで、あなたの激しい批判の的にされ、中傷され、人格否定をされ苦しまれたのでしょう。
あなたは謝罪したようなコメントもされていたようですが、
あなたの姿勢はその時から一貫して変わっていないようですね。
思い当たるのではありませんか?
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4173311.html#comments
これに対して、stさんは、それはshalomが原因だ、shalomは何でも人のせいにするといいつつ、すべてをshalomさんのせいにしてる。vさんについても、shalomさんの味方をしたから批判したとか何とかいって、vさんに落ち度があったからだとしてる。自分も言い過ぎたようで申し訳ないことをしたという謝罪反省の言葉は見当たらない。これには驚き、あきれずにはいられないし、これからも同じ事を繰り返すんだろうなと思わずにはいられない。だからこの記事を書くことにしたわけである。将来、stさんに標的にされ、粘着攻撃されて難渋してる人が、この記事を見つけて、いくらかでも楽になってくれたらうれしい。

 
批判しているのは、楽山とシャロームアドラー教でしょうか。今のところ、それで、精いっぱいです。しかし、将来は、分からないと正直に申し上げます。力は足りませんが。
 
vさんは、神学者ですが、シャロームを恐れているようで、それで、学者なら分かるはずの、信仰についての発言を曲げてしまったので、残念ながら、絶交しました。これは、残念ながら、どうしようもないことです。シャロームが圧力でも掛けていたのではないかと疑っています。
 
粘着攻撃というのは、一連の、この楽山の記事でしょう。相手を疲れさせるために、あることないこと、書き放題です。
 

*反省(追記 2019.11.24)
今さらながらに気づいたが、自分はまた同じ失敗を繰り返したようだ。上に述べた通り、今回の記事は、将来またvさんのような被害者が出ないように注意喚起したり、もし不幸にして被害者が出てしまったらその手助けになればと思って書いたわけだが、よく考えてみれば自分は情に流され、取り越し苦労をし、要らぬことをしてしまったかもしれぬ。

 
ここで、いつも、怒りと憎しみ、笑いとベタ褒め、という原始的な感情しか持たず、しんみり悲しんだり共感したりすることのない楽山らしい、トホホ言語の、反省芝居です。もう飽き飽きしています。白々しさに、自分で気づかないらしい。
 

こう言っては何だがstさんのヤバさ、おかしさはブログを見れば、誰だってすぐ分かることだし、仮に分からなくてもじきに「あれ?」と気づくだろう。いちいち注意喚起するまでもないことなのだ。自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。

 
楽山は、何をしてくるか分からないし、手段を選ばないでしょうから、怖いですが、私は、キリスト者として、できることをしていますし、これからも、生きている限り、続けるつもりです。もう年だから、疲労が祟って、死んだとしても仕方ありません。
 
そう言えば、楽山は、丁寧語の、曖昧なボンヤリ言語と、謙虚を装うトホホ言語を使って、反省芝居や謙虚芝居をすることが多くなりました。白々しいと、ふつうは気づいて、恥ずかしくなるのですが、羞恥心のない楽山は、やはり、気づかないのでしょうか。
 
楽山は、他者を情に流す人です。柔和芝居の筆致に、"やさしいお人柄ですね" と楽山ブログに好意的なコメントが来たことがあります。そういうのが、いちばんのご馳走なのでしょうか、それとも、そこは、入り口に過ぎないのでしょうか。底知れぬ恐ろしさを、読者を考えない負の馬力で、今回は表している楽山です。
 

でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。

 
私は、アドラー心理学を、アドラー教と呼んで、自己中促進カルトだと批判しています。それを承知で、楽山は書いているようです。バックはアドラー教か。
 
課題の分離は、言葉ではできても、実践においては、難しいというより、無理があると思っています。そして、楽山は、アドラー教の宣伝者です。前は、気に入らないことは無視しましょうとか、課題の分離とか、ブログにも書いていました。楽山の自己中に合致しているのでしょう。
 

ついでに書くと、以下の考え方も、余計なことに手を出してしまいがちな自分にはどうしても必要なものだ。
「人の心は変えられない。変えられるのは自分の心だけだ」
「他人の事をとやかく言う前に、まず自分の事をしなさい」
「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ(ニーバー)」
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3)」
「修身斉家治国平天下」

 
楽山が、自分は学がある、学がある、と言っているようです。しかし、肝心な、そして、いちばん大切な、他者との交流に必須の、共感と反省という点で、楽山は、何も出来ていません。だから、人の言葉を借りて、まともに見せかけているのでしょう。
 
聖書も言葉まで持ち出しています。楽山は、自分の目の中にある丸太、即ち、間違い、嘘、詭弁、自己中心、訂正不能、一方的発言、柔和芝居、前後関係に無頓着な反省芝居、「かなあ」「ていうか」「否定はできない」「と言えなくもない」みたいななどのトホホ言語と曖昧なボンヤリ言語、そういった毒に、まるで気づいていません。
 
むしろ、その性質を、一部は、良心だと思っているのでしょうか、それとも、それも意図的にだましているのでしょうか。
 

やっぱり自分は、他人のことを心配するより先に、まずは自分づくりに専念しよう。といっても、またすぐに情に流され、自分のことより他人の事に手を出してしまうのだろうけれども、それでも自分づくりに専念しようという意識は常に忘れないようにしよう。善く生きようと努力している人は、何も語らずとも、その生き様によって周囲の人々を感化し、善を広めるものだけど、自分もそんな人になりたい。

 
深い情を持たない病質の楽山は、自分の体質や、やってきたこととは逆を言い、忘れないようにしよう、などと、ごまかして、悦に入れるようです。つまり、いつも、言葉面だけ、柔和を気取り、一度も、その実質を表したことがない、これが楽山の、生きてゆくための "自己満悦" のようです。
 
「生き様によって周囲の人々を感化し、善を広める」・・・そういう人に対して、まともな情のない楽山の、わざとらしい丁寧語は、楽山にとって気持ちのいい、一番の、だまし言葉なのでしょう。まだ、人を、滅ぼし続けるつもりなのでしょうか。
 

*付け足し修正(2019.12.8)
今日、マグマリさんのブログを見た。

・、、、自分が正しいと肯定するのは大事だけど
 」(リンク省略)
これは他の人のことを言ってるんだろうと思ったけど、考えて見れば、この記事ではヨシュアさんには触れても、マグマリさんには触れてないのだった。この記事は誰に向けてのものかはよく分からないが、とりあえずは上の経緯説明で、マグマリさんのことも少し書き足してみた次第である。

 
リンク貼るだけで、何を書き足したつもりでいるのでしょう。
 
自称マグダラマリアは、こちらが批判すると豹変して、「プププ」「ケロッ」など、気味の悪いセリフを書いて、人をボロクソに攻撃する人です。一時期、批判しましたが、罵詈雑言しか返せない人なので、今は、一応、批判は停止しています。楽山が、恐怖のカルト思想屋だと分かって批判を開始したからでもあります。そのHNに全く相応しくない人です。
 
自称ヨシュアは、パリサイ人が好きで、教えを守って完全になれるんですと言っていました。その時点で、キリスト教ではないのです。考えてみると、楽山が味方しているサイトは、怪しいところばかりです。楽山の異常性から言って、当然なのかもしれないが。
 
どんな間違いをしても、楽山を受け入れることだけはしないでください。他者の人生を平気で壊す人です。だから、平気で、あることないこと、書いてきます。楽山は、恐ろしい保身の、無反省、無責任、訂正不能、無視、言いたい放題、そして、手段を選ばず、事実を捏造する大嘘吐きです。
 
それにしても、楽山は、新規記事が止まったかと思ったら、いつものライブドアの楽山日記(LD)ではなく、アメブロの楽山日記(a)のほうの、しかも過去記事を、知らないうちに恐ろしく長く書き加えています。密かに、隠れて憂さ晴らしをしているふうの固陋(ころう)の男がPCに向かっている姿は、正々堂々とは、まるで、かけ離れて、記事の中身と同じように、悲惨であります。
 
 

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                  真っ赤な大嘘
 
 
(2020年12月01日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター
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(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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