ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の妄想曲解(2)

 
  楽山の妄想曲解(2)
 
 「ヨブ記」を再読してみた
 2020年12月12日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27306311.html
 
 
今までの経過として申し上げます。社交の世辞以外では交流せず、批判しても、嘘と出まかせと詭弁で悪口を言う以外、何も返せないから、あとは無視して、言葉だけ丁寧語で、こともあろうに、宗教と真実という、とても重要な、大きなテーマについて、反省せず、責任負わず、人を無視して、責任と義務を果たさず、自由と権利だけ主張して、言論として成り立たないのに、自制せず、やめることなく、ずっと言い続けるというのは、心が無く、人間ではなく、言論でもなく、ただ、何かが鳴り続けているだけです。声ではなく、音です。雑音です。騒音です。そういうのに、まともな正常人の、まともな言論者の顔をさせてはいけません。楽山批判を続ける意義は、それだけです。
 
丁寧語で、やさしそうに嘘を吐く、というのは、古今東西、詐欺師のわざであります。
 
楽山が、だんだん、危険な臭いをさせてきます。人を無視する楽山ですが、無視したことの責任を感じないので、批判されることが気に入らないようです。元々暴力的な人だったのでしょうか。
 

*悪魔は、神に逆らうことができるのか?
ヨブ記では、悪魔は、神に従順な存在として描かれている。神の命令に逆らって、ヨブを死なせたり、魂を奪うことはしていない。

 
神は全能ですから、そういう聖書ですから、当然なのです。楽山は、こういう超常のことも、自分で考えられると思っているようです。悪魔は、神に敵わず、大方、隠れて、だまして人を誘惑する者として描かれます。楽山は、全能でない人の中でも、だまして詭弁で人を誘惑する者です。
 

ようは、神は絶対であるとするならば、悪魔でさえも、神に逆らって勝手なまねはできないということなのだろう。

 
このように、勝手な真似は出来ないだろう、などと、納得してしまいます。超常の存在のことは、誰にも、納得できるものではありません。全能と肩を並べたい楽山の妄想的自己愛が、超常を語る口に表れています。日常と超常の間に、引かれるべき一線が、幼稚な楽山には無いのです。
 

そういえば、ホラー映画では、神父が「主の御名によって命じる、悪魔よ去れ」というと、悪魔はこれに反抗しようにもできないでいたりする。
悪魔は、神の直接命令のみならず、その代理人である神父にも逆らえないという設定なのだろう。

 
前にも書きましたが、宗教の話に、ホラー映画をあげてくるところに、楽山の宗教が、映画やマンガ的興味であり、趣味の範囲を出ていないことが、表れてきます。楽山にだけは、こういう書き方で受けることが、宗教の専門家だと思えることになるのでしょう。全くの独りよがりで、笑止であります。
 

*テーマ1
以前、何かの本で、「ヨブ記」のテーマは、因果応報の否定だとしているのを読んだ記憶がある。
ヨブ記」では、ヨブは善人であるゆえに災厄を受けたことになっているのだから、これは一理ある解釈だと思う。

 
人の世界で成り立つ因果応報の可能性を、キリスト者は無視してはいませんが、楽山は否定しています。それが宗教さ、とでも思っているのでしょうか。軽く浮いてゆくような楽山の筆致から、確かに、楽山は、人々の中でも、浮いて行くでしょう。
 
「ヨブは善人であるゆえに災厄を受けた」のではありません。ヨブは、信仰を試されたのです。神の愛が、大きく包んでいます。また、信仰は、善悪では語れません。しかし、楽山の、一理は、ただただ、無理でしかありません。
 
単純で、薄弱な、宗教知らずの知ったかぶりの自己顕示が、遠慮もなく、厚かましく、続いているだけなのです。
 

*テーマ2
岩波文庫の『旧約聖書 ヨブ記』の解説では、「ヨブ記」のテーマは神のための信仰だとしていた。
応報思想に基づく信仰は、よき果報を得るために善を選ぼうとする自己中心的なものにならざるをえないが、「ヨブ記」はそのような自己中心的な信仰ではなく、神のための信仰の可能性を探るものだというのだ。これも大いに理がある。

 
楽山のような反キリストだから、「神のための信仰」などという言葉に飛びつくのです。楽山のように、神が、総てにおいて人に分かりやすく利益を与えるのでなければ信じない、というような自己愛の自己中の反キリストには、決して分からない共感性が信仰にはあります。
 

*テーマ3
私見ながら、「ヨブ記」のテーマは、神の絶対にあるともいえるのではないかと思う。神は、人はもちろん、悪魔も、因果応報の法則も、すべてを超越している絶対であるのだと。

 
このように、カルト思想屋で傲慢な楽山のような人は、人の手に負えない絶対についても語ろうとします。そのうち、神のわざを身に着けたと、絶対の神は邪悪だという、いちゃもん雑言に、さらなる大ぼらを加えて吹いてくるかもしれません。
 

神は、人には分からぬ存在であり、もっとも悪魔の王者サタンでさえも逆らえず、因果応報も、波長同通も、その他どのような法則にも制約を受けない存在なのだ。

 
それが、楽山に分かっていたら、こんな記事は書かないのです。楽山が、分からないのは、いかに、度外れたことを書いているか、ということです。宗教のみならず、言論というものに対する謙虚さが、そもそも楽山にはないのです。
 
この辺は、楽山が、神は、怖くて、わがまま勝手だ、という刷り込みをしているようです。嘘、混同、同一視、刷り込み、煽り、ほのめかし、印象操作など、数々の詭弁が、楽山の悪意の懐には用意されているようです。
 

ヨブ記」はこのような神を明らかにすることを目指したものではあるまいか。「ヨブ記」関係の書物はまだほとんど読めていないが、このような解釈をしている専門家もいるのではないかと期待している。

 
全能の神を表している聖書ですが、楽山は、新発見でもしたかのように、得々と、上から言うわけです。そして、「このような神」と言って、ヨブ記の神を、罪がない人に、不幸を与える乱暴な神として、印象付けようとしています。
 
ヨブ記では、試練の中でも、ヨブという人間が気づかないだけで、また、楽山が気づかないだけで、大きな神の愛に包まれています。そして、ラストで、ヨブは気づき、神と、人であるヨブとの関係は、神の手によって、完全回復されるのです。
 
そこを書かずに、不安と恐怖だけを煽って、人を神から離反させようと企んでいるのが、暗闇で陰気に企む悪魔のような、楽山その人です。
 
そして、楽山は、ヨブ記を記事にして、罪と偽善にまみれながら、ヨブの苦難を、神の愛が包んでいるストーリーの大きさに気づきもしないで、あるいは、目をそらして、疲労を与えるだけの乱暴な印象を捏造して刷り込んでくるのです。何という陰険な謀略屋なのでしょう。
 
神と人は、祈りを通して双方向です。祈りは人から神への唯一の音信であり、神からの応答は、決して人が確定できない導きなのです。ゆえに、人は、考えることになります。
 
楽山は、いつでもどこでも、神が、携帯のように、声で、あるいは、前に楽山が詭弁漬けにした奇跡で、慰めて正当化してくれないと気が済まないのでしょうか。思い上がりも甚だしい楽山にだけは、起こってほしくない奇跡です。
 
楽山が、専門家の言葉面を利用しても、専門家の書いたものを読んで理解する、などということは、まず、ないと思います。今までも、今の時点でも、ひどいものです。ときどき仕掛けてくる謙虚芝居にだまされないでください。
 

*神のための信仰と利己的な遺伝子
アリの群れの役割分担は、個体としてみれば理不尽なものであろうが、遺伝子の視点からみれば合理的であり、納得できるものとなる。
ヒトの利他行為も、個体としてみれば他の犠牲になっているようにみえることもあるが、遺伝子の視点からみれば生存戦略としては実にうまくできているといえる。

 
今度は、蟻の行動を、人に当てはめています。つまり、蟻の集団の動きを見て、蟻の犠牲を軽く見て、同じように、人の個人としての人格と命を無視しているから、まるで、蟻と同じように、人の命を、気楽に犠牲にして、全体の生存とかを、無神経、無反省、無責任、無情に語れる楽山です。人の個々の命を考えないで、対象として見なせる冷血の楽山です。
 
恐ろしいことに、人の行為を、全体の種の生存戦略として見ている楽山は、全体を見て、個人と、個人の命を、見れないし語れないのでしょう。楽山が、丁寧語とは裏腹に、根が冷淡で冷酷である体質は、こういうことにも表れているようです。
 

もしかしたら、神のための信仰にも、このような見方は有効かもしれない。ヒトが神の道具になりきることは個体としてはこれ以上ないほどの自己犠牲を強いることになるかもしれないが、宗教の布教と存続という点からすれば、これほど好都合なことはないのだ。

 
楽山は、どうやら、宗教と全体主義を結び付けたいようです。楽山は、極端な右翼の学者を支持していましたが、全体主義に傾倒すると、楽山の個性などは、要らなくなり、考える必要もなくなるからでしょうか。とても危ない思想だと思います。
 
それとも宗教は全体主義だと言いたいのでしょうか。もし、楽山のもとに集まったら、詭弁集団のカルトにとどまらず、それこそ、暴力団になるでしょう。
 

宗教はヒトの心に寄生し、無限に自己の増殖複製を試みる生物だと仮定すれば、神のための信仰にヒトを導くことは究極の生存戦略だといえるだろうし、御利益を求める自己中心的な信仰は、そのような宗教の生存戦略を逆手に取ったヒトの側の戦略ともいえそうだ。

 
ここで、最悪の宗教観が表れています。寄生虫扱いです。宗教と信仰は、人の自由意志で信じ、人の自由意志で仰ぐものであります。
 
楽山は、人々の中に、自己の冷血の増殖複製を企んでいると言われても仕方ないでしょう。
 
全体、おおざっぱでは、決してなく、キリストも、神も、一人一人の祈りを聞いていることが、信仰の支えである、ということに対する最大の侮辱を隠そうともしません。
 
楽山こそ、自我に没入して、その妄想に囚われ、自画自賛の自己の快楽のうちに、自らの我執の自分信仰に寄生されて、その蝕むところに自らを任せて、言いたい放題の詭弁の虫でありますから、宗教の邪魔をするなど、以ての外なのです。
 
また、人が、どうして、全能の神に対して、戦略など取れるでしょう。
 
宗教的感受性のない楽山は、血迷っているようです。それで、結局、宗教を、人間の敵と見なして、無意味な戦いを仕掛けて、批判だけを浴びているところの、みじめに孤立した反キリストです。
 
ここで、警鐘を鳴らすべき対象は、楽山の自己中心の自分信仰であり、まさに、楽山の病質といってもいいほど、あざとい欺瞞と策略に溢れている、という実績を、今まで、積んできたのです。
 
楽山は、楽山の自己中心的なご利益的自分信仰を、神に対する戦略として、正当化したいのでしょうか。これこそ、危険思想です。自己愛性パーソナリティ障害は、追いつめられると、サイコパスらしい成り行きで、最後の手段として暴力を選ぶ可能性に十分に注意しましょう。
 
楽山は、どこか、そういう危ないところに所属しているのでしょうか。右も左も分からなくなっているような、壊れた楽山の有り様です。怖いと思います。
 

*人は見たいものだけを見て、見たくないものは見ない
ヨブは因果応報では読み解けない現実…なぜ善人が災厄にあうのだろうかということについて、本気で考え続けている。

 
「見たいものだけを見て、見たくないものは見ない」・・楽山に、典型的に、当てはまります。
 
何度も、自分の書いたことに斬られてきて、また、今回も、斬られまくっているのに、無反省のために学習が出来ず、弁明の成り立たなくなった者が、苦し紛れに書くと、こうなるという例でしょう。
 
ヨブは、信仰を、神に試されたのです。そこには、いつでも回復できる、そして、実際、ヨブは回復したのだ、という、全能の神の愛があるという主題です。でなければ、聖書には載らないでしょう。
 
楽山は、静かに冷静に考えることが出来ないために、自我の悪意の衝動に従っています。非常に危険な人物だと思います。近くにいる人は、くれぐれも注意・警戒してください。
 

けれども三友は、この問題を本気で考えることができていない。善良なヨブが悲惨な状況に陥っているのを目の当たりにしても、応報思想と現実の矛盾に気がつかないのだから驚かされる。

 
楽山は、自分が何を言っているのか、全く分かっていないので、何事も、本気で考えることが出来ていません。追いつめられると、思想と現実が、乖離して、人間離れして、極端な衝動に走る危険があります。
 

ヨブ記」は、このような人のエゴ、冷淡さを巧みに表現しており、人を描いた文学としても見事である。

 
ヨブ記は、決して、楽山の言うような書ではありません。愛と全能の神に試された信仰者の試練と回復の物語です。大きな神の愛に包まれていることがラストで明らかになるストーリーです。
 
人のエゴと冷淡さは、ただただ、楽山において、いつも、明らかです。
 

*まとめ
ヨブ記」をはじめて読んだときは、正直言って何がすごいのか分からないというのが本音だった。

 
楽山は、ヨブ記を、まるで、読み取っておらず、分かっておらず、おのれの衝動の正当化だけに利用するような危険な卑怯者です。
 
愚かなのに、出来ていないのに、高慢だけは忘れず、自分を高めて、一途に思い上がる者は、こうなるという見本です。決して関わらないでください、近づかないでください。
 

でも最近になってようやく、その奥深さを感じることができるようになってきたのは愉快だ。

 
楽山は、深さも、奥深さも、広さも、何も感受できず、理解することができない病質者です。しかも、その自覚、即ち、病識が、全くないので、要注意なのです。
 

まだまだ何も知らないニワカではあるが、「ヨブ記」は少しずつでも勉強していきたい。極めることはできないにしても、努力を続けている限りは一歩でも二歩でも前に進めるだろうと思うので。

 
前言で「奥深さを感じる」と言った、そのあとで、「何も知らない」などと、心にもない謙虚セリフを貼りつけてくる楽山です。楽山は、努力など、したことはないと思います。さらに、嘘吐きです。だから、極めるどころか、一歩も、真実に近づいていません。むしろ、真実の敵となっています。
 
楽山は、おのれの欲望に沿って、言葉面を漁って、拾って、集めて、人間を度外視し、命を度外視して、蟻と同じように扱い、勝手な見なしで、書いてくる煽動屋に過ぎません。改めて考えると、非常に危険です。
 
感受性の欠落から、恨みに走って、反キリストとなっている楽山が、100%事実かどうか分からない物語や思想から、現実対応を考えることが出来なくなっています。また、健全な感性や感情が、どんどん失せてゆく危険域に入っているようです。
 
ゆえに、楽山は、物語を読むにあたって、余裕がなく、寸分たがわぬ事実で矛盾など全くないものでないと気が済まなくなって、心の融通が利かず、柔和が成り立たず、ガラス片のような、危うい血なまぐささとなり、いちゃもんが、刃物みたいになってきているような気がします。
 
宗教思想でも、政治思想でも、イデオロギー化して硬直し固定すると、人間離れ、現実離れして、訂正不能の教条となって、やさしい心の面倒を、一切、見なくなることがあります。楽山は、ますます人間性を失いつつあるようです。
 
楽山の近くにいる人は、できるだけ早く、逃げてください。現実検討能力が失せつつあるようです。言論だけかと思っていましたが、先のことを考えると、何をするか分かりません。
 
牙を隠しながらも、だんだんと、正常な人間性が鈍麻して、歪んだ屁理屈を正論?だと思い込んで、狂犬のように呻きながらヨダレを垂らして書いてくる楽山に、どうか、関わらないでください、近づかないでください。
 
 

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           危険
 
 
(2020年12月14日)
 
 
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