ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の的外れ

 
  楽山の的外れ
 
 『素顔の安岡正篤 わが祖父の思い出』安岡定子
 2020年12月20日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27396667.html
 
 
楽山は、有名人を引用して、利用して、悪用して、自分もそうだと、自分を高めようとする、安いアピール、言い換えれば、詭弁の印象操作をしてきます。
 
前にもらった「おやさしいお人柄ですね」という社交の世辞のコメントを欲しがるからでしょう。そうして、いつも、わざわざ、楽山の低劣さとの落差を目立たせて、ひどい落差を、自ら表してしまう宿命なのでしょう。
 

本書はタイトル通り、孫の立場から家庭における安岡正篤について語ったものであり、興味深い話がたくさん紹介されている。

 
(ネットより)
安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年[1](明治31年)2月13日 - 1983年(昭和58年)12月13日)は、陽明学者[注釈 1]・哲学者・思想家。
(略)
戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。
(略)
戦時中からすでに政治家や右翼活動家に影響力があったため、GHQより戦犯容疑がかかったが、中華民国の蔣介石が「ヤスオカほどの人物を戦犯にするのは間違いだ」とGHQを説得し逮捕されなかった[13]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E7%AF%A4
 
有名人のようですが、右翼思想家のようです。楽山が好むタイプの人物でしょう。しかし、楽山とは、まったく違って、スケールの大きな人だったようです。
 

たとえば、安岡正篤ドライフラワーを見て「この花はもう捨てなさい。枯れておるよ」(p.112)といったり、時代劇のビデオを見せられたときは「これはどの番組だい。新聞には載っておらんよ」(p.103)と首を傾げたり、娘の縁談があったときには「節子は一体どの大学に通っておったんだ」(p.151)と訊いたのだという。
正月に家族で集まった時には、「こりゃあすごい御馳走だね。食事はやっぱりみんなで食べるのが美味しいよ」(p.211)という感慨を述べ、学問については、子や孫に過干渉はしないが、「本はとにかくたくさん読みなさい。本を買うお小遣いだったら、おぢいちゃんがあげるから」(p.36)といっていたこともあったという。どれも微笑ましいエピソードばかりである。

 
思想家をテーマにして、思想を述べず、家庭的なことしか書かないというのも珍しいのではないでしょうか。「微笑ましいエピソード」と書いてあります。楽山には皆無の話題です。つまり、楽山は、このような家庭的な人になりたいという気持ちだけで、思想家の記事を書くのでしょうか。
 

安岡正篤については厳格なイメージがあるし、どのような政治的立場から見るかによって評価は大きく分かれるだろうが、本書を読む限りにおいては、実際の安岡正篤はちょっと天然なところがありつつも家族を大事にする人であり、孫にとってよいおぢいちゃんだったようだ。

 
楽山とは対照的な人物のようです。楽山は、厳格ではなく曖昧なことしか言えず、評価は下がるばかりで、卑怯、無反省、無責任、訂正不能、他者無視、詐欺師的詭弁や、嘘吐き、自己愛性パーソナリティ障害、自己中、厚顔無恥、など、良いところが全くない楽山とは、本当に対照的です。
 
楽山は、その時その場の思いつきと出まかせで、出来の悪い文章を一方的に書いてくるだけです。スケールが小さいというより、スケールなど何も持っていないのが楽山です。
 
親族が書いた心温まる話を読んで、そのような温かい心が皆無の楽山が感想を書く?・・楽山の、どこに、そんな余裕があるのでしょう、楽山は、その必然性を、どういう効果を、期待するのでしょう。言えるのは、総て無視する無反省の楽山だから書ける、その証拠なのです。
 

それから著者の文章は、やさしい人柄を感じさせるものであって、読んでいると自然と気持ちが和んでくるものになっている。とてもよい文章だと思う。

 
やさしくない人柄の楽山は、誰かによって、和むということはないと思います。どれだけ批判されても、平気で、このような文章を書いてくるのですから、いつも、和むというより、自己の山積した問題を何も気にせずに、独り緩んでいるのです。
 
ボロクソな状況を弁えず、善後策を講じることも出来ず、へらへら笑っていられる人格なのでしょう。つまり、一見柔和に見えて、だまされていると、関われば関わるほど、不快と疲労を与える男です。だから、書くのでしょうか。カムフラージュでしょうか。無意味です。
 
つまり、引用した人物とは雲泥の差があるわけで、根底において、そのような人物に決してなれないのが楽山です。それでも、弁えもなく、今回も、有名人を引き合いに出して、自分もそのようであるという、身の程知らずの、気持ちの悪い自己アピールをしている因業なのでしょう。
 
いい気になって書いても、楽山との比較になって、スケールの違いがひどすぎて、その結果は、やさしさのおこぼれちょうだいどころではなく、やさしい人柄がいいから、などという、自己アピールの滑り方が半端でなく、楽山の愚昧さだけが際立ち、的外れもいいとこだと感じるだけです。
 
やさしい人柄と、
何を言われても、ヘラヘラだけの、無反省・無感情の白々しい、やさしさ芝居とは、
全然、違うのです。
 
楽山は、反省をしないので学習機能が成り立たず、ゆえに心の成長がなくなっています。楽山が、感想文でも何でも文章を書けば、そこには、心が無いために、物や、仕組みや、言葉面だけで、不成立の理屈を言うような世界しか表れないのです。
 
感動は心からの感動でなくなり、共感は心からの共感でなくなり、感想は心からの感想ではなくなり、理解は心からの理解でなくなります。楽山の、なごみ話を、真に受けてはいけません。

同じ、感動、感想、理解、また、反省、という言葉でも、楽山が言えば、表しているものが、全然違って、オモチャの言葉になり、うわべだけの、深みのない、おちゃらけに過ぎなくなります。
 
やさしい人柄というのも、また、あらゆる真実も、オモチャの、おちゃらけに過ぎないですから、オモチャを組み立てて、人々に見せびらかすだけの文章になるので、語ることが、良い心の実感からは遠く離れて、言えば印象がよくなるから言ってみただけの、また、みんな時々言うわけだから言ってみただけの、中身のない、つまり、嘘にまみれてゆくということです。
 
 

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            的外れ
 
 
(2020年12月21日)
 
 
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