ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰とは2

 
 
  信仰とは2
 
 
前に書いたことも含めて、折に触れて、信仰について、まとめるという作業は、人間の言葉の不完全性によって、遅々として進まず、また、私の凡庸なることもあり、人間の本性として不完全であることを承知の上で、なお、努めなければならない作業となっています。
 
 
神の存在も不在も証明できない、だから信じるのだ、ゆえに、信仰なのだ、と考えていたことがあります。しかし、その場合、何をどう信じるのかという問題があり、それは、人が、こういうことだと伝えても、その人の考えであり、信じる内容が、超常のことなら、どうしてそれが正しいか、超常なのだから、人に分かるはずもないことです。
 
思い込み信じ込んで、それを信仰?と呼ぶのなら、その信仰?が、何も癒せず、むしろ、心を狭く鈍くするばかりになるでしょう。このことに、気づかなくなったら、もはや、妄想を固めているカルトに過ぎないと言ってよいのです。
 
聖書を読んでも、聖書の筋書きを、いくら懇切丁寧に言って、こんなこともして下さると、聖書の中だけで説明しても、聖書解釈としても、現実の人間に生かせるものは殆どないと言ってよいのです。
 
そこを補っているつもりで、きっと助けて下さると現実を保証するような言い方をすれば、今度は、その責任を負わされることになります。
 
何が起こっても、これが導きなのだから、喜ばなければいけないなどと言ってしまえば、言うとおりにすることは現実の悲劇を否定して、悲しみから顔を背けて讃美することになり、何でもありがたがることはマゾヒスト的な宗教になってしまうし、そういう信じ方は、先ず、受け入れないか、受け入れたつもりで思い込みを強くするだけでしょう。
 
神の意志と行為について、正確に解釈して責任を負える人間はいないのです。
 
説教者であれ、信徒であれ、人に福音を伝えるとき、大事なのは、共感であります。信じなさい、救われますから、ではなく、共に人間であるのだから、一方が、もう一方に出来ることの中で大事なことは、教理を繰り返すことではなく、教えることではなく、人間にもできることであり、それは共感することに他なりません。
 
そして、その共感には、明らかに、罪深い、信仰が足りない、という不完全と不信仰の共感も含まれているのです。それが無いままの、上から下への教えは、いかに、優しそうな言葉を並べても、カルトへの広い門に過ぎないのです。
 
 
信仰とは何か、ということになると、神の全知全能・完全絶対・永遠不変は、人には分かりません。人は、そういう御方あるいは存在によって、ようやく生きてゆける希望の祈りと告白を、信仰と呼んでいる身であります。
 
人生の真実について何かが分かるということは感動を伴います。人は、いつでも、分かっているわけではありません。少なくとも、神に対して、分からないことを分からないと言えることが、不完全の自覚であり、信仰の要であります。このことが、自己愛、自己中、高ぶり、強がり、慢心、高慢、傲慢からの解放となります。それは、理解というより、共感と希望であります。
 
希望することは、人の側のことですから、人にとって、一生続くことがありえます。それが、絶えることのない信仰です。ゆえに、神の側が否定することはなく、人の側が否定しない限り、永遠と呼んでいいのです。
 
つまり現象としては、神の永遠は、人が永遠の神の存在を熱望していることに他ならないのです。ゆえに、神聖について、希望ではなく、既知であるかのように、見える、知っている、分かっている、などと決めつけることは、思い込み信じ込みになるので、信仰においては、退けなければならなりません。
 
二千年前の、物や肉体への奇跡の事実性は、神のみぞ知ることであって、二千年前の奇跡が事実だと信じるのがキリスト者ではありません。神のみが知ることを、人があった、あるいは、なかったと決めつけることこそ、神に対する冒涜であります。
 
肉体の復活を執拗に唱えながら、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと平気で言っている偽善者が現にいます。
 
物や肉体の奇跡よりも、遥かに遥かに、大きく、かつ、人間が受け取れる奇跡を、キリストは成就しています。神の前に、祈りにおいて、願いにおいて、遜ることを知っており、かつ、正直でありうる人だけが、キリストに信仰の義を与えられ、慰めと癒しを与えられて、救われ癒されています。
 
キリストを殺した者たちは、尊大であり、自己あるいは集団の解釈、すなわち、人による解釈を絶対としたがゆえに、戒律主義に陥り、それを守っているという慢心と傲慢によって、キリストに退けられたのです。その者たちはキリストは殺しました。今のキリスト者がそうであってはならないという見本となっています。
 
また、キリストは復活したんだから大丈夫などと、死を知りもしないで生きている人間が、キリストの犠牲の死の意味を軽んじてはいけません。
 
 
私たちが、聖書によって知るべきは、これら、神と人の違いを基本として、自らの、決して絶対ではない人間の立場を弁える節操と、絶えることのない希望を支えるのがキリストの同伴であること、という、2つに絞られてきます。
 
語るのが、聖職者であれ、一般の信仰者であれ、いかに、聖書に忠実と言われても、あるいは、面白くて詳しい説教でも伝道でも、この2つを語らなければ、説教とは言えないでしょう。
 
説教や伝道が、人の決めつけの保証や、おまじないや、謎解き話に、堕ちることのないように、祈っています。
 
 
妄想や、真逆の解釈と信条を言いふらして、人々を惑わす者たちがいる。また、遠回しに、聖書とキリスト教およびキリスト辛苦を、お伽噺にしてしまう輩もいる。また、小理屈や屁理屈をこねては、人を罠にかけて困らせて、その様子を、面白がる者もいる。
 
今のキリスト教とキリスト信仰も、節操において、情緒において、弱いか、あるいは、カルト的になっている傾向が一部にあり、信仰のカルトの方向への堕落に陥る可能性があると思う。
 
しかも、カルトは何か言われると感情的になりやすく、気の弱い人は、カルトの、格好の、いじめと誘惑の対象になるだろう。カルトやカルト的な人に、近づくことなく、過ごせたとしても、意地が強くなることは、信仰が強くなることとは逆の変化である。
 
思いこみや信じ込みから生まれてくる信仰は、決して人を癒やさない。むしろ、悩ませ、病ませるのである。そういう者に限って、神を恐れず、"神の平安"、また、"揺るがない信仰" という言葉を繰り返す。
 
その検証が、自分で、出来なくなっている人は、既に、カルト信仰への危機と言ってよいだろうが、大方の人は、他者からの、そして、自分発信の、カルト信仰の危機にさらされている。
 
神は完全、人間は不完全、という弁えと、神の前に、主イエス・キリストの御名によって、精いっぱい正直に、祈りを捧げること、それが信仰であり、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、このことさえ、守っているとは思えない場合がある。
 
 
人間は、人間の現世において起こってくるさまざまな、悪の有り様と、突然の不幸の有り様を見ることで、必然的に、それら災いの背後に今は隠れて見えないけれど、きっと、人間に対して思考の幸いを用意しておられ、大きな歴史を動かしておられる絶対の存在を考えないではおれないところの、相対の存在だと思います。
 
昔の人は、考えたのでしょう。今は、こんな有り様だが、きっと、いつも、その御方が背後にはおられ、その御方の計画があって、人を選んで働かせている、そして、いつか、その御方の支配によって、救われる時と所があるに違いないと。そう思う人が出てきて、宗教が生まれることは必然だったのでしょう。
 
それは、まさに、その昔の人が、この世に絶望せずに、生きるためでした。
 
そして、そのことを今考えているのが、私たちなのです。
 
昔の人は、地上の人として、神を、考えなくてはいけませんでした。しかし、その資産によって、今の人は、考える始めの切っ掛けを与えられています。
 
 
旧約聖書では、神と人が直接語り合う場面も出てきます。神という絶対者は、この世の総ての物と生き物と人を造る御方、つまり、全知全能の創造主として書かれています。
 
そして、神は、嵐や雷とともに顕れ、戒める神であり、また、ときには、懲らしめる神であることから、徹底して書かれているのは、神と人の違いであります。
 
神は恐るべき全知全能を持つ完全なる存在であること。そして、人は、全知でも全能でもなく、不完全な存在であること。つまり、神の完全を覚えることは、人自身の不完全を知ることであります。それが、人の罪性として理解されることです。
 
新約聖書では、実際に生きた人間としての体を持つイエス・キリストが中心であります。ゆえに、キリストは、様々な人々と交流をします。そこで、キリストに救われた人々と、キリストに厳しく批判された人々が分かれます。
 
後者、つまり、聖書において救われなかった人については、見える、守っている、知っている、分かっている、という自画自賛や、さらには、人を指して、あのような者でないことを感謝しますとさえ神に言って自慢してしまう話にあるような、傲慢で罪性の自覚のない者だったため、キリストは、彼らを、徹底して批判し、退けました。
 
多くのカルトは、このようにして、退けられます。しかし、思い込みから感性の鈍麻によって固定されたカルト信条は、集団も、個人も、なお、蔓延っているようです。
 
ということは、カルトは、訂正不能のまま、変わらない、という性質を持ちます。ただし、聖書には、パリサイ人にも、律法学者にも、変わる、または、その可能性のありそうな例外も書かれています。そういう例外的な人がいることも、キリストは見逃しませんでした。
 
一方、前者、つまり、救われた人は、キリストの前で、正直に物を言い、告白をしました。世辞のような讃美よりも、率直な物言いを大事にして、ときに、食い下がるように救いを求める人もいました。キリストは、それが、飾らない本心であったため、善しとされました。
 
キリストに向かって、遜りながらも、飾らず、嘘を吐かず、罪の告白から願いまで、正直に、本気で、言いたいと思うことを言う、という祈りの原型が、ここにあります。
 
そして、それは、救われた人々が、孤独ではないことを知る初めでもあります。キリストが人間一人一人の人生に同伴するという福音の原型がここにあるのです。
 
祈りは、唯一、積極的に可能な、人から神への音信であり、導きは、神から人へ心の現象、あるいは、秘められた出来事として与えられます。即ち、信仰は、神と人の、秘められた双方向であります。
 
 
なお、出来事の現象、つまり、成り行きとしての導きは、人には、導きだったかもしれないと推測されることはあっても、神髄については隠されているとしか思えません。それを、決めつけると、自分の推測を信仰?することになるので、注意が必要です。
 
物や肉体に起こる奇跡は、驚くことはあっても、人間は、そういう驚きを、不思議なだけで手に負えないことを、生きる理由とすることは出来ません。大切なことは、起こったとしても一時的で過ぎ去ることではなく、魂つまり心に起こって、心を震わせ動かすことだけが、生きる力になるのです。
 
物や肉体に起こることは、人を驚かせますが、それは信仰の神髄ではありません。驚きだけでは、有り難がるだけで、心が成長せず、人は、本当に救われることにはならないからです。また、総てが魔法のように、起こると言い張る信仰?も、成長の余地がなくなるので、退けられます。
 
人間は、人間に分かることと、分からないことを、分別するのでなければ、個人においても、集団においても、全体においても、楽山やシャロームなどの易坊類のような陰謀屋によって、容易く騙され、滅びに向かうように出来ているようです。
 
 
信仰についての証しとなることは、なくてはならないことは、人間の心に起こっていることを忘れないでください。言葉と芝居だけで誘導しようとする心無き者たちの罠に嵌らないように注意してほしいのです。
 
 

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                被造物
 
 
(2020年01月01日)
(2021年01月02日、再録+加筆)
 
蔓延る(はびこる)
遜る(へりくだる、謙る)
嵌る(はまる)
 
 
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