ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の大好物

 
  楽山の大好物
 
 『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著
 2021年01月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27629677.html
 
 
楽山は、キリスト教の功労者と言われている神学者・伝道者を引用していますが、書いてあることは、キリスト信仰に沿うものではないと判断しています。
 
キリスト教も一枚岩ではない、というところを、楽山は、大好物のように、しゃぶりまくっています。そういう侮辱が、良心を持たない楽山の生き甲斐なのです。
 

*良書
ヨブ記のことを知りたいと思い本書を読んでみた。文章は分かり易く、時折、余談としてヨブ記に関連した興味深い話が紹介されているところが有り難い。おかげで初学者の自分でも、最後まで退屈することなく楽しく読めた。

 
そもそも、分かる・理解するということが、楽山に見られたことはありません。そういう内容の文章を書けたことがないということです。したがって、今回も、楽山にとって興味深いのは、ストーリーを表面的になぞって、分かったと言って自慢するためのネタ探しでしかないと思います。
 
初学者の姿勢とは全然かけ離れた高慢によって、楽山は、キリスト教と神を、見下してきました。初めてだろうが、熟練だろうが、楽山のように無反省・無責任の態度を改めないでは、決して学ぶ者にはなれないのです。
 

「あとがき」によると、本書はNHKの古典講座という番組のために語ったものに筆を加えたものだそうで、平易で読みやすい文章になっているのはこのためかもしれぬ。
次に本書のなかで、特に印象に残った箇所についてメモしておきたい。

 
楽山が、平易というより安易に受け取り、勝手に、読みやすいと見なしているだけです。聖書の深みに、無反省・無責任のまま、到達することはありません。楽山のような心の無い者に、聖書から与えられる良きものは何もないのです。
 

*サタン
まず一つ目は、三人の友人たちとサタンとの関わりについてである。

サタンはこの敗北以後再びその姿をヨブ記の中に現わさない。三章以下のヨブの友人との論争においても、四二章後半の物語においてもその顔をのぞかせていない。これはサタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.36)
 」
前の記事で、三人の友人たちとサタンとの関わりについて、wikiの記述をひきつつ書いたのだが、本書では「サタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう」とさらに踏み込んだ解釈がされているのには驚いた。

 
楽山にとっては、ヨブの友人が悪魔だということにしたほうが、面白いのでしょう。この友人は、私たちなのです。そして、ヨブも、私たちなのです。そうでなければ、読む意味がありません。
 
ですから、何でも他人事として眺めて批評家気取りで独り言を書いて、一歩も踏み込むことのできない無反省・無責任の楽山が、ヨブ記を読んでも、全く無意味であります。
 

ヨブの信仰は度重なる艱難にも揺らぐことはなく、

 
ヨブは、甚だ揺らいでいます。ゆえに、自己正当化に走りました。楽山は、いったい、何を読んでいるのでしょう。また、言葉面だけ、都合のよいところを拾っているだけのようです。
 

サタンは敗北して姿を見せなくなるが、その後はヨブの友人の姿をして再登場し、ヨブを誘惑しているのではないかというのだ。

 
こういう筋書きのほうが、楽山のようなホラー好きの半端者には、面白いのでしょう。本も、聖書も、読めば、至るところで、短絡して決めつけてきたのです。そして、それを、そのまま、考えもせずに、評価として書いてくる厚顔であります。
 

サタンともなれば立派な説教をし、真理を語ることができるので、

 
サタンは、悪意しかないので、立派な説教など出来ません。ましてや、真理を語ることなど論外です。ゆえに、サタンは、楽山と同じように、真理や幸福に見せかけて、だますだけです。楽山は、サタンが、大好きなのでしょうか。よく似ています。
 

傍目には正しい人のように見えて、そう簡単にはサタンだと見破れなくなるともいうが、これもその一例であるといえそうだ。

 
そうして、サタンの餌食になるのは、楽山と、楽山にだまされた者たちでしょう。
 

また本書では、ヨブに神を呪って死ぬことをすすめた妻についても次の指摘している。

ヨブとその一家が今までたびたび述べてきたような大きな不幸に出会い、そのいわば巻き添えを食った妻の言葉としては至極もっともなことである。このような彼女の言い分は妻の仮面を被ぶったサタンの言葉と称してもよい。そればかりでなく後に登場する三人の友人のいうところもまた突き詰めればヨブに対するサタンの誘いの言葉だと見ることができよう。
(同上、p.34)
 」
こういう見方は、ヨブの妻や三人の友人たちには酷なものではあるが、ヨブ記の設定からすれば一理ある見方ではあるだろう。

 
やはり、楽山が引用するだけあって、まるで、何でも悪者と見たら悪魔にしてしまうような、楽山と似たような短絡があります。このように、自分で善悪を決めつける人は、楽山のように、自分を見ることができなくなる恐れがあるので、要注意です。
 
善悪の裁きは、神の専権であります。信仰者は、判断して行動し、反省して祈ります。その姿勢を失ったら、楽山のような無反省・無責任・無節操・無理解・無知と無恥の者になるだけです。楽山の、その有り様は、もはや、惨劇であります。
 

*エレミヤ
二つ目は、エレミヤについてである。
本書では、エレミヤとヨブの共通項を繰り返し指摘しているが、たとえば、エレミヤ書ヨブ記のうちで、本書で論じられている部分を貼ってみるとこうなる。

正しいのは、主よ、あなたです。
それでも、わたしはあなたと争い
裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え
欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
(エレミヤ12-1)
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
私は黙していられない。
(エレミヤ4-19)
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
(ヨブ13-3)
 」
この部分は通して読んでも違和感がないし、両者に共通するものがあるという指摘はもっともである。
それにしても聖書を読むと、人は神に対して頭を垂れて従うだけでなく、強く自己主張をする場面があって驚かされることがあるが、それができるヨブも、エレミヤも、とてつもない勇者であるといえるのではあるまいか。

 
いつもの、神とキリストをおとしめる楽山の常套手段です。悪者が安穏に暮らすなんて不当じゃないか・・等々、神に文句を言い、神に人が評価を下してよい、という口実を捏造しています。偽善者は、このように、自分が幸福いっぱいに過ごせるのでなければ、神を認めないという自己中です。
 
ヨブは、勇者ではありません。ただ、楽山のような悪意ある偽善者ではなく、結局、神の他には寄る辺のない正直な人間です。ヨブ記の最後に、ヨブは、そのことを知るのです。
 

*ヨブの強情さ
三つ目は、ヨブは強情であったが、それによって救われたという指摘である。

スイスの著名な神学者カール・バルトは「神に対するヨブの強情さ」ということを語っているということである。彼は友人に対して頑固であるばかりでなく、神に対しても強情である。しかしそのような強情こそ最後に彼を導いて救いに至らしめたものであろう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.101)
 」

 
神に対しても強情であったために、ヨブは、神に叱られました。ヨブを救いに導いたのは、強情ではなく、神であります。
 
楽山の詭弁は、学者の言から、楽山の都合のよいところだけを拾って載せてくるところにあり、楽山が賛同するときには、楽山の欲望の狙いによって選択され、その結果、糊塗されてゆきます。
 

自分は、ヨブは自己に正直であり、嘘をつくことはできなかったので、納得できないことは納得できないと言うしかなかった、納得できていないのに納得したふりをして黙ることはできなかった、それだからこそ、求めよ、さらば与えられんという如く、神を見ることができ、救われたと考えているので、これを「強情」とするのにはいささか抵抗はあるのだが、まあ三人の友人たちの側から見たら間違いなくヨブは強情に見えたであろうことは了解できるし、この表現にヨブへの親愛の情、ユーモアも含まれているように感じられるところは好ましく感じる。

 
そう言っている楽山は、稀に見る甚だしい詐欺師的な嘘吐きであり、詭弁屋であります。そのことは、記事の文章に自ずと表れるゆえに、また、自分の言っていることに斬られている楽山です。
 
ヨブへの親愛の情とか、ユーモアとか、いい加減な軽口を言うところにも、楽山の、おちゃらけの隙だけに反応する生き方が滲み出ているということです。こういうのは、出てしまうものなのです。何度も、不可避的に、楽山は、自分で自分を切り刻んで、お笑いになってゆくことでしょう。
 

*アダムとエバ
四つ目は、「神の責任」についてである。

アダム、エバは殆ど不可抗力ともいうべきヘビの誘惑に敗れ、そこから彼らの不幸が生れた。ヨブの場合であっても、ヨブを試みることをサタンにゆるしたのは神である。もしこの時神がそれを許さなかったならばヨブはなお幸福な生活を一生続け得たであろう。彼が不幸に陥ったということは彼の責任ではなく、むしろ神の責任である。それにもかかわらず、彼はその不幸のために苦しまねばならなかった。そこにヨブ記が我々に示す大きな問題がある。
(同上、p.167)
 」
これは神義論に関わる問題なので、ほとんど解決不可能であるように思うけれども、だからこそ考えないではいられないのだからおかしなものである。この問題に興味がない人にとっては、どーでもいいことなのだろうけれども、自分はまだ関心を失ってはいないので、もう少し追いかけてみたいと思う。

 
著者は、かなり偏った人物なのでしょうか、それとも、楽山の引用の仕方がおかしいのでしょうか、幸福を世俗的基準で決めつけています。そして、ヨブの不幸が神の責任と言っています。人間の中で、神の責任を問える者などいません。神が試練として与えたということです。
 
聖職者であろうと、神学者であろうと、功労者であろうと、全面的に信頼して、鵜呑みにしてはいけないという例になるでしょう。神の責任を問いながら、併せるべき神の愛を説いていません。楽山が、都合のよい一部だけを引用しているのかもしれません。楽山が、よくやることです。
 
楽山に飛びつかれ、気に入られて、吸い尽くされそうな人物です。しかし、引用が、本当に主旨であっても、護教主義でもない私には、この神学者を弁護する義務はありません。
 
ヨブ記は、神と人の関係のうち、神の全能の権威が、試練と救いによって、人に及ぶことを表している話です。楽山は、自らの罪悪について考えず反省もせず、いつまでも分からない反キリストだから、他者を悪用してでも、けなすだけでしょうが、信仰者は、分かっていてほしいところです。
 
記事全体としては、楽山と似たような者が近くにいて、サタンのような追従と誘惑によって、道を外れる犠牲者がいるのではないか、ということを暗示しています。神義論に関わることではなく、どこまでも楽山の悪意に関わることになってきます。
 
楽山は、学者までも、真実追求ではなく、自我の欲望に従って、都合のよいところだけを漁って拾って、使いまくります。楽山の底知れない闇が、また犠牲者を求めています。楽山には、決して関わらないでください、近づかないでください。お願いします。
 
 

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             えもの
 
 
(2021年01月11日)
 
 
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