ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の謙虚芝居

 
  楽山の謙虚芝居
 
 内村鑑三スピリチュアリズム(「死後の生命」内村鑑三著)
 2021年01月16日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27711975.html
 
 
白々しい楽山の芝居と、結局、いつものように、尊ぶようで、実は、おとしめる、という、キリスト教を侮辱して自らの優位に立ったつもりで満悦したい欲望が、表れています。不感不応の性懲りの無さだけが特徴です。こちらとしては、まともに相手しないことが大事になる繰り返しです。
 

内村鑑三スピリチュアリズム
岩波の「内村鑑三選集」をつまみ読みしていたら、『第八巻 生と死について』の「死後の生命」で、スピリチュアリズム方面に触れている箇所があったのでメモしておきたい。

 
つまみ読みを、メモした記事なのだそうです。そういう軽さが、楽山の趣味的扱いの宗教と信仰?なのです。そして、スピリチュアリズム、つまり、安易に、死後の世界に直結させています。宗教も信仰も、そういうものだという、邪悪な固定観念を隠さなくなっています。
 

といっても、スピリチュアリズムについてそれほど深く語っているわけではなくて、死後生命はあるとする内村鑑三自身の主張を補強するために、近代的、科学的な方法によって死後の生命の存在を証明しようとした人々もいたとして、フレデリック・マイヤーとその言葉を紹介したり、、W・L・ウォールカーの『霊と受肉』、ウィリアム・オスラーの『科学と死後生命』、ウィリアム・ゼームスの『人間永生論』にある一文を抜き書きしているという程度ではあるが…。

 
そして、早速、死後の生命の話になっています。宗教と信仰は、そういうもの、それが宗教という考えで、一方、いちばん大事な、生きるということを、楽山は、考えようともしないために、ボロクソの精神を露呈することになっています。楽山が関わると、死後の話は、死語の話になってしまいます。
 

スピリチュアリズムキリスト教および教会に対して批判的なところがあるので、キリスト者が自説を補強するためにスピリチュアリズム側の人物の言説を用いるというのは少々意外な感じがしないでもないが、内村鑑三は外国の宣教師には複雑な思いをもっていたり、教会と意見の相違はあったようなので、スピリチュアリズムとはある程度の共通点があり、そこまでの悪感情は無かったということなのかもしれぬ。少なくともこの文書を書いた時点では。
でも両者の関係については、自分はまだ何も知らないのと同じなので、少しずつでも調べてみたいとは思う。

 
内村鑑三を、そして、キリスト教を、スピリチュアリズムと関係づけています。何が本質かを、全く知らない者は、こういう決めつけ方をして、宗教と信仰を、奇跡と超常の不思議話じゃろとばかり、卑しめてくるのです。
 

*信仰者
ちなみに内村鑑三は、この文章の中で、次のような理由で死後の生命を信じるとしている。
死後生存について、「其存在を否定せんとする反対論あるに拘らず遂に抛棄する能はずして古来人類の多数が来世を信じ之を熱望し来りし事実は何を示す乎、その人類の輿論又は根本的思想なりとの事実其者が来世存在に関する強力なる証明の一である」

 
人間は、神の存在も不在も証明できないように、人間は、超常を、来世を、証明することは出来ません。いつ見ても、楽山の興味と都合に合わせた同じ傾向の文章の一部だけを引用してきます。内村鑑三については、無教会派のことのほうが、よっぽど重要でしょう。
 

「現世は人の限なき知識慾を充たさんが為には余りに短小である、来世の存在を認めずしては人生の円満なる解釈をくだすことは出来ないのである」

 
こういう死後・来世の話は、推測・試論・説としては、可であります。しかし、楽山の手に渡ると、恐ろしいことに、こんなことを真理だと思っているのがキリスト教なんですよぉー・・という印象操作にされてしまいます。あくどい作為の持っていき方が、ずっと変わらない楽山の因業です。
 

「十年二十年の努力を経て育成したる子女ほど母に取て貴きものはない、然るに之をしも棄てゝ顧みざるが如きは何の愛である乎、若し天然と人類との凡ての努力が破壊に終らん為であると言ふならば人生は絶望である、神は決して愛ではない、我等は来世の存在に由てのみ人生を此の大なる不合理より救ふ事が出来るのである、神は愛である、故に来世は必ず有る」

 
このように、内村鑑三は、愛について、喪失について、つまり、人間の切実な話について、悲しみについて、書いているのに、楽山は、そういうことを、自分の言葉で書けないのです。
 

「汝の自己中心的生涯を棄てよ、而して幾分なりともキリストに倣ふ生涯を送れよ、然らば明日より必ず来世を確認するに至るであろう」
「死後の生命は信仰を以てする冒険である」
当たり前の話ではあるが、こういう言葉を読むと、内村鑑三は根っからの信仰者なんだなと改めて思う。

 
このように、内村鑑三にとって、来世の話は、地上の必然である愛と悲しみの話であり、人の道を説くために心を砕いた話なのです。楽山は「信仰者なんだな」としか書けません。言葉というものの表層的辻褄に生きていて、心が無いからです。
 

*余談
同書に収録されている「不死の生命に就いて」の冒頭には次の文章が見える。

若し不死の生命が有るとすれば、それは有るが故に有るのであつて、有つて欲しいが故に有るのでない。
「不死の生命に就いて」内村鑑三
 」

 
ここを、不死の生命は、有るから有るんだという確信の強さと受け取っているようです。しかし、内村鑑三は「有るとすれば」と条件法で書いているのです。
 

同じく同書に収録されている「死後生命の有無」にはこうある。

死後の生命は人の固有性にあらず、信仰の報償として彼に与えらるうものである。
「死後生命の有無」内村鑑三
 」
これらをまとめると内村鑑三は、死後生命について、「死後の生命」(大正8年)では人類は古来より強く求め信じるが故に有るとし、「不死の生命に就いて」(大正13年)では人の願望や信仰に関係なく客観的に存するとし、「死後生命の有無」(昭和4年)では信じるから与えられるとしており、なんだかその時々で微妙に話がちがっているようだ。

 
ここでの楽山の言い分が、いちゃもんであることは明らかです。内村鑑三には、地上で知りえない死後という前提があり、楽山には、何でも知っていないと気が済まないという前提があって、後者の前提で前者の前提の話を読むと、このような、話が違うというクレームにしかならないのです。
 
楽山の幼稚な二進法・二者択一への短絡です。0か1、有か無、という短絡二元のみで、その場で確定的に不死も死後も語ろうとし、それによって、キリスト教はそういうものと思い込んできたのでしょう。それで、物知り顔の評論家気取りで書いてくるから、これ以上の迷惑はないのです。
 
さらに、他者の話を「微妙に話がちがっている」と言って、著者についてクレームを書き、なのに、自分の意見は書かず、その場で、結論を出したつもりになる楽山です。
 
超常の話は、あくまで、推測か想像であり、せいぜい仮説であり、ゆえに、確定ではなく、改めてもよいので、自由に話してよいものとなっています、そこに信仰の中心があるわけではないからです。
 
それを、楽山が、中心においてしまうのは、病的ナルシストの特徴でしょう。それで、キリスト教を揶揄したり、おとしめたりの、知ったかぶりをする楽山の、無理解前提の世界など、人間にとって、何の役にも立ちません。その場で、真理をつかんだことにしないと気が済まない楽山の、強欲の因業でしかないからです。
 

人の考えは変わるものであり、矛盾を抱えているものであろうから、その意見が変わったり矛盾があったとしても、それは当たり前のことであって取り立てて非難すべきことではなかろうが、内村鑑三であってもこうだというのは少々驚かないではいられない。

 
「非難すべきことではなかろうが」と言いながら、「少々驚かないではいられない」という丁寧語の非難めいたことを書くのは、一挙に真理を知ったことにしたい楽山の強迫観念からであり、不満なときの、楽山の嫌らしいマイナスへの誘導の筆致であります。そうして、結局、少々ではなく、内村鑑三を侮辱しているのです。
 
ドラマの悪役の上司が言いそうな、婉曲的な言い方を、下司にもなれない楽山が言っています。楽山は、責任逃れのために、こういう作文の醜い書き方だけを積んできたということでしょう。
 

でも現実はこの通りであって、偉人賢人であろうが何だろうが、人である限りは、その言葉が百パーセント確実に正しいということはないんだろうな。自分は、誰かを尊敬してしまうと、すぐに心酔しきってしまい、この人の言葉も行動も何でも正しいと思い込んでしまう悪癖があるのでよくよく注意したいと思う。

 
「人である限りは、その言葉が百パーセント確実に正しいということはない」・・今ごろ分かったのかと言いたいほど、当たり前のことですが、前にも見かけ謙虚なことを書きながら、楽山自身は、全く、その自覚がないことだけが表れてきたのです。
 
楽山に限って「人の言葉も行動も何でも正しいと思い込んでしまう悪癖」の自覚はありません。何故なら、自己愛・自己中の楽山は、自分以外、誰も信用してなどいないからです。そういう自己満悦の訂正不能の言を、ずっと繰り返してきたのです。今になって、嘘の弁明が通用すると思っていることに、あきれるばかりです。
 
温もりと潤いのない、即ち、思いやりといった悲しみに共感する高等感情が育っていない人格が、作文をすると、知性も理路も、無反省で無責任になり、感じることのできない部分を、辻褄合わせだけの、実感のない、言葉面の形骸を、もっともらしく並べて、ごまかすようになるという筆致が、否応なしに表れてきます。本人だけが気づかないのです。
 
楽山が書けば書くほど、それを読めば読むほど、あきれて、相手にしたくはないのですが、キリスト教を、オモチャにしていることは看過できないので、批判を続けています。どうか、関わらないでください、近づかないでください。
 
 

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(2021年01月17日)
 
 
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