ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

赦すこと2

 
  赦すこと2
 
 
私が最初に牧師から習ったのは、罪の赦しは、許可ではなく、赦免のことだ、ということでした。だから、漢字では、許す、ではなく、赦す、を使うのでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
 (マタイ6:14-15、新約聖書
 
過ちも罪ですから、罪を赦すことについての、赦しなさい、という、キリストの教えです。過ちだと自覚がある場合です。
 
赦されない罪があります。
過ちだと、あるいは、罪だという自覚のない場合です。
罪だと思っていないならば、赦す、ということ自体が無意味です。
 
一つは
気づいていない場合。赦すと言われても何の事だかわかりません。
もう一つは
偽善という罪。罪を犯しながら、罪を隠して善に見せかける罪です。キリストの敵となった者たちは、そういう者たちでした。彼らは、赦しを求めないので、赦すことが意味を持ちません。
 
さて、罪を赦されたら、どうなるでしょう。赦された、ああよかった、これで、清廉潔白になったと思うでしょうか。・・そう思うなら、そう思うことが、罪であります。
 
赦しは、また、これからも罪を犯すであろう罪人としての弁えを学習することです。人間は、この地上では、清廉潔白にはなりません。赦されることで心の解放感はあるでしょう。しかし、ああよかった、と言って安穏とするのは、信仰の態度ではありません。
 
人間の立場から見ると、赦されることよりも、赦しを神に求めることのほうに、生き方の学習があります。したがって、罪を犯しても大丈夫と学ぶのではなく、罪を犯す自分を知ることであります。その学習があるからこそ、私たちは、赦されることを求めるのです。
 
 
キリストの十字架の贖いによって、罪に死んだから、罪はない、などと信じている偽善者もいるようですが、そのような者は、反キリストの役割を果たしているだけなのです。罪はないと信じ込んだ人間がどうなるかということを考え推測して否定するということができないだけの偽善者です。
 
人は、他者の罪を赦すべきか、という問題については、上のほうにあげたように、赦すことが無意味である場合があります。気づかない人は、気づかせる、または、気づくことを待つしかないのでしょう。
 
しかし、キリスト信仰を、自己中心に考えて、あるいは、何も考えないで、何でも赦される、または、赦されることを求めてさえないか、最初から信仰が嘘である場合も含めて、決して、赦してはいけません。偽善と反キリストを増長させるだけです。それは、神に対する罪になります。
 
そういう者を、批判することが苦手なら、無理して批判する必要はありません。神に与えられた務めは、人それぞれです。ただ、批判は、悪口とは違うし、批判する気のある人が、批判しなければいけない場合があることは、承知してください。批判対象にしかならない者がいます。
 
その者は、いつも他者を下に見て、自分を高めるために、教えたがります。放置すれば、会う人ごとに嘘を吹き込み、その人を洗脳して人格をおとしめてゆきます。
 
凶悪カルトとカルト支援者は、悔い改めより、赦しが先だと言っていました。悔い改めは、祈りによる罪の告白です。罪を認めないで隠して、平気で嘘を吐いている者が、どうして赦されるでしょう。どの罪を赦せというのでしょう。どんな罪も、告白しないまま赦されるなら、地上は、偽善者の楽園になるでしょう。そんなことも分からない愚か者が、実際に、いるのです。
 
カルトは、批判者に対しては、いたずらに決めつけることを繰り返して、疲労させ、批判者の人格を破壊してゆきます。こういうことは、宗教が絡むとき、カルトが絡むとき、とても醜悪な遣り取りになりますから、批判というものは、自分を、ある程度は、コントロールできる人がするべきことです。
 
何でもかんでも総ての罪を赦すのがキリスト教の理想などということでは、決して、ありません。むしろ、罪の自覚があるから赦しが意味を持つのです。罪を認めて、神の前に告白して、罪を犯しやすい自分の性質を反省することで、思い上がりが抑えられ、それゆえに、罪を赦される恵みに気づくことができるのです。
 
何でも赦してくれる神?を信じているカルトは、罪人の自覚を全く持たないで、神に対しても、極めて、お気楽に構えており、平気で罪を犯し、嘘を吐いて、偽善者となり、神のしもべたる自身を永遠に弁えないまま、罪業の穴へ、ぬるぬると滑り落ちてゆくでしょう。
 
悔い改めより赦しが先だなどという詭弁を弄する者は、悔い改めなくても赦されるという我欲からの妄想欲求が、そう言わせているだけです。
 
罪の自覚のない者に、赦しを与えることは、いったい何を赦されるのか悟ることもないのだから、赦すこと自体が無意味です。悔い改めない者に、赦しを与えれば、勝手放題の地獄が開かれるだけです。
 
 
罪の自覚があり、それを神に対して正直に告白することで、世俗や我執から、神へと、自らの向きを正すことが悔い改めです。そのために祈りの機会が与えられているのです。
 
 

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           赦す
 
 
(2020年02月)
(2021年02月25日、加筆して再録)
 
 
 ※ 前の記事に補足
 
信仰者が、聖書の言葉から、弱いからこそ強い、という逆説を、理解不十分なまま、説明せずに豪語すると、生き馬の目を抜くように、反キリストから、それこそ、キリスト教の嘘と偽善だと言われ、広められるでしょう。
 
(ネットより)
生き馬の目を抜く
【読み】 いきうまのめをぬく
【意味】 生き馬の目を抜くとは、すばしっこく人を出し抜き、抜け目がなくて油断できないさまのたとえ。
http://kotowaza-allguide.com/i/ikiumanome.html
 
強いのは、いつも神であります。神のみであります。神が憐れむのは、弱さを知っている人であります。ゆえに、神の憐れみがあるから、信仰者は忍耐強いということの、逆説の真実なのです。ゆえに、豪語していいような性質の言葉ではありません。
 
私たちは、神でもなく、キリストでもなく、預言者でもないのだから、力比べは、いけません。
 
世の中には、信仰を、超常奇跡物語としてしか見ていない人もいるようだから、少なくとも、私たちキリスト信仰者は、神の業であって人には手に負えない超常奇跡ではなく、人が人として生きてゆくために必要な、そして、人間であれば理解可能な、愛に通じる共感を受け取り、神とは違う低さと罪深さという弁えを学ぶ姿勢を忘れないで、祈りの信仰生活を送ることが大切です。
 
 
 ※ 批判における厳しい表現について
 
まじめなことを淡々と書いている記事は、一般の読者に対しては、十分ではなくても、意志の伝達として成り立ちます。
 
しかし、私の批判対象は、批判をスルーすると公言していますし、言葉も理路も理解する能力も失っている人なので、普通の批判をしても何も受け取らないでしょうし、気にもしないでしょうし、脅威にならないから、読むことさえしないでしょう。
 
厳しい表現や、辛辣な比喩は、文章の中で目立ちます。ゆえに、批判対象だけでなく、一般に、何を言っているか気になる、ということがあります。
 
無反省と無責任そして体質的に鈍感なあるために、無視してくる批判対象に対して、表現を大人しくすることは、むしろ、こちら側の体面を守ろうといる傾向があります。
 
それに、破綻した理路と要領を得ない筆致や詭弁を見続けることは、ストレスがたまってくるという、こちらの精神衛生の問題でもあります。
 
即ち、辛辣な比喩など、厳しい表現は、激情に駆られて用いるのではなく、激情を治めるために用いるという意味があります。
 
というわけで、今まで、批判対象に向けてきた辛辣な比喩をあげると、亡者、ヒト型生物、疲労物質、放屁、排泄物、糞尿、病原、寄生虫、害虫、ゴキブリ、ドブネズミ、狂犬、等々あります。とうてい全部は思い出せません。
 
なお、嘘吐き、詭弁屋、精神詐欺師、偽善者、病質者、人格障害、高等感情鈍麻、サイコパスエナジーバンパイア、などは、比喩表現ではありません。
 
以前、キリスト教系カルトの者が、私の批判に対して、それこそボロクソに、個人情報まで持ち出して、ギャーギャー吠えるように、罵詈雑言を連発してきたことがあります。それを読んで、私は、この人はギャーギャー言っているんだ・・としか受け取れませんでした。辛辣な表現も、質が問われることを、そのとき思いました。あまりひどいので、サーバーに報告したところ、相手の記事が削除されることもありました。
 
一方、病質者の書くところの、大人しく見せかける文章は、大方、概念的な言葉や熟語を並べただけのものであり、そこに、生活者としての実感が表れていない、という特徴があります。つまり、概念遊び、即ち、机上の空論なのです。
 
そういう文章は、書いた人に学習意欲も真摯さも向上心も反省力も見られないから、繰り返し読まされるほどに、うんざりするか、がっかりするか、ろくな気持ちにならない、ゆえに、疲れるという体験だけを与える文章になります。
 
また、過去の非を認めないまま、きれいごとを書いてくれば、それだけで、嘘吐きだと分かるわけです。人間の歩みとして、成り立っていないからです。パンツに漏らしたウンコを洗わず拭かないでいて、ニオイが、むわ~と伝わってくるようなものなのです。
 
 
(2021年02月25日)
 
 
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