ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の我執

 
  楽山の我執
 
 「死について」西尾幹二
 2021年03月15日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28404839.html
 
 
楽山は、感情・情緒の鈍麻によって、感じなくなった精神から、死と死後を恐れていないかのようなことを言っています。信仰による平安ではなく、詭弁の妄想的捏造と、老化による鈍麻に縋りつくしかなくなるのではないでしょうか。
 

*死後、人の意識は存続するのか?
西尾幹二の思想と行動③』に収録されている「死について」というエセーを読んでみた。著者はまず冒頭において、死をテーマにした文章は多々あれども、「死は振り返って回顧できない」ものであるから、「死の経験は誰にも書けない」としつつ、次のような自身の考えを表明している。

私は、私の体が亡びると共に個体としての私も消滅し、「自分の意識」もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えをもつことがどうしても出来ない。
(『西尾幹二の思想と行動③ 論争の精神』「死について」西尾幹二著、扶桑社、2000年、p.131)
 」
この後、著者は上田三四二の『この世この生』、岸本英夫の『死を見つめる心』の文章を紹介しているが、どちらも基本的には著者と同じ死生観であり、死んだら無になるのだから、一度だけの人生を悔いのないように生きようと考えているようだ。

 
一度だけの人生を、悔いることなく、改めることなく、反省することなく、責任を負うことなく、言葉の垂れ流しで、生きようとしているのが、楽山であります。そりゃ、楽山に悔いはないでしょう。
 

*輪廻転生の可能性
著者は上の結論に至る理由の一つとして次のように述べている。

もし来世というものが存在し、今のこの現世というものに生を得ている「自分の意識」が来世にひきつがれるというのであるなら、われわれは現世に生きながら、それに先立つ前世からひきつがれている「自分の意識」を、なにほどか記憶していなくてはならないはずだからである。記憶がなければ意識は存続していないのと同じである。
(同上、p.131)
 」
スピリチュアリズム方面の書物を読めば、前世の記憶が失われている理由だとか、死後の生が存在する〝証拠〟とされるものはいくつも提示されてはいるのではあるが、現実を先入観なしにみるならば、熟睡しているときは意識がなくなるように死は永遠の眠りであろうとか、前世の記憶がないことをもって生まれ変わりはないだろうとするのは当然の結論ではある。

 
空想的死生観は、簡単な理路で否定されるということです。キリスト者は、神を恐れるので、空想としてではなく、現実として、不完全なる自分を、完全なる神の前に、正直に差し出すことを信条とするべきでしょう。それ以上の、特に断定は、神を恐れるなら、するべきではありません。
 
楽山は、永遠という時間が把握できるのでしょうか。やたら、宗教といえば、超常を語りたがり、現実の、嘘も詭弁も、何も気にしないで、永遠を分かって、過ごせるのでしょうか。とんでもない曲解です。何が、当然の結論でしょう。この問題に、この地上で、結論などないのです。
 

*死んだら無になるという怖ろしさ
このエセーにおいて、著者は死に対する考察とともに恐怖についても書いている。死後、自己の意識は消え失せ、無になることを想像するのは怖ろしくてならないと。

 
当然のことです。無になる自分を、想像だに出来ないのが、人間です。
 

思い返してみれば、自分も同じような怖ろしさを感じていたのだった。理屈としては、死んだら無になるなら、恐怖や苦痛を感じる自分も無くなるわけで、それなら何も心配する必要はないのではあるが、それでもやっぱり怖いと思わないではいられなかったのだ。

 
楽山の感じる恐ろしさは、引用とは違うと思います。そういう実感のある共感が成立しないのが楽山です。何も分からないのが怖いわけですが、楽山は、その怖さを感じることが出来ません。だから、何も分からなくても平気でいるのでしょう。
 
何も心配する必要がないのでしょうか。心配することが無駄であるということです。特に、楽山のように、我執で悪行を重ねている者は、あの世を心配すればするほど、思考も抵抗も無駄であることを恐怖するしかないでしょう。現在形~未来形~永遠形です。有名人の言葉を引用しても、楽山とは違うのです。
 

でもどういうわけが最近はそんな感覚は薄れて、「死んだら無になるのでも、霊になってあの世に行くのでも、どっちでもいい」という気分になってきている。死後の状態について、こうであるはずだ、こうならなければ嫌だという強い願望はなくなってしまったのである。

 
どっちでもいい、と思うことを、分からないから、ではなく、願望がないという言い方をしています。願望があってもなくても、恐怖してもしなくても、謙虚な懐のない楽山には分からないし、今の無駄は、ずっと無駄なのです。死んでからのお苦しみということでしょうか。
 

こういう変化は大方は年を取ったせいだろうし、人は毎晩眠りに落ちるたびに無になっていること、自分の意識は過去から連続しているようでも実際には過去の自分は既に消え去っており、現在の自分もやがて消え去ることに合点が行ったことなどもその理由ではある。

 
現在の自分は、明日には、もういません。年を取って、ボケてくると、恐怖が薄れるというものでもないでしょう。楽山が見えると思っているのとは別のものを見たり聞いたりするかもしれません。それは、楽山が大好きな、ホラーに登場するようなものかもしれません。
 
願望が薄れるのは、できるだけの真実を追求してきた人でしょう。楽山は、できることをせず、してはいけないことをしてきたのだから、死が迫るほどに、恐怖は増大すると思います。それを、今、感じないのは、意志の強い人と同じではなく、正しい人と同じではなく、年を取って、ますます感情が鈍くなったからでしょう。
 

このあたりの感覚は人それぞれではあろうが、自分の場合はこのような思考を経て、死後に無になることはさほど気にならなくなった次第である。釈尊は執着を去れば平安が得られると説いたというけれども、上の経験からするとこれは本当にその通りだと思う。

 
面倒臭くなったときの「人それぞれ」がまた出てきました。有名人の言葉に継いで何かを書く技量のない証拠でしょう。
 
楽山は、執着を去ることはありません。一生涯、我執だけに生きて、我執だけに、ニヤニヤする快感と、煤のような悪意をもらって生きてきたから、我執に追われることになるでしょう。それこそ、認知症になったほうが楽ではないかと思います。
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
草@kusaweod
·19時間
青天を衝けで渋沢栄一が祈祷師のインチキを見破って追い払ったエピソードは実話のようでここで読める。
500社育てた渋沢栄一、商才は10代から凄かった | 日本資本主義の父 渋沢栄一とは何者か | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
午後9:23 · 2021年3月14日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/kusaweod/status/1371074629582741514
<<
https://twitter.com/komo266

 
楽山と、明治の実業家である渋沢栄一とは、当たり前ですが、何の関係もありません。渋沢栄一は、大河ドラマで、今、旬であり、一般の人からも注目されているところでしょう。いつもの楽山の宗教への悪口とは関係ないか・・と思って見過ごしておりました。
 
しかし、楽山という反宗教が、今まで、いかに、宗教、特にキリスト教を、詭弁で、おとしめる投稿をしてきたかを思うとき、この他者のツイート引用を、まともに受け取ることは出来なくなります。
 
キーワードは、"祈祷"師であります。真面目に宗教を考えることのないの楽山は、いつも宗教をおとしめることばかり考えているのでしょう。恐らく合理的な考え方の渋沢栄一が、インチキ祈祷師の嘘を見破った、ということが、楽山には、えも言われぬ痛快事なのでしょう。
 
一般とは違って、楽山の真意は、素直ではなく、捻じ曲がったものです。この祈祷師はインチキなのですが、宗教は皆インチキと思っている楽山にとっては、宗教をおとしめる格好の材料に思えたのでしょう。
 
つまり、わざわざ、このエピソードを引用した楽山の意図は、偉い人が、宗教のインチキを見破った話として、受け取っているのだろうと思います。インチキ祈祷師と宗教を一緒に見ている楽山の、いかにも、あざとい宗教攻撃なのです。
 
楽山は、何を言っても、理路も共感も成り立たなず、誰にとっても益とならない文章にしかならないために、気安いところで、偉人の言動を出してきて、気慰みにしているのです。
 
偉人は懐の大きさで図太い肝を持って見抜き、楽山のような無反省・無責任のインチキな小者は、ネズミのような肝で動いて、いつも的を外しているということです。
 
 
ちなみに楽山日記に
2017年05月11日
HS関連ブログを読む 18
http://mn266z.blog.jp/archives/17512732.html
という気の遠くなりそうな長い記事がありますが、渋沢栄一のことを書いています。
 

「書痴の楽園」を見てたら、渡部昇一渋沢栄一を評して、常に道徳的に正しかったと語ってた。道徳と成功を両立させていたと…。
考えてみれば、論語と算盤と、あの世とこの世を貫く幸福は、似たところがあるかもしれない。真理(倫理)にかなった生活をしつつ、本当の幸福(成功)を得ようというところとか。

 
倫理に全然かなっていない嘘吐きの楽山が言っています。「あの世とこの世」の「あの世」を貫く幸福が、楽山には分かるのでしょうか。真理(倫理)に適うことが、楽山に分かるのでしょうか。真理と倫理は同義語でしょうか。霊が分かるっぽい自覚だから「あの世」も分かるのでしょうか。
 

とはいえ、後者の方がより宗教的であるという相違点もあるけれど…。
近頃のHS本は、さっぱり読んでないけれど、ひょっとしたらこういうことは既に語られているのかなあ。どうだろう。

 
どの後者なのでしょう。道徳と成功でしょうか、あの世とこの世でしょうか、真理と幸福でしょうか、倫理と成功でしょうか。楽山の考える宗教が、さっぱり不明なのは、何も考えていないからではないでしょうか。楽山は、気が遠くなっているのでしょうか。
 
 
右翼思想家に、経済人にと、生死にかかわらず、有名人の名前と言葉面だけを、宗教をけなすために、我執で利用する楽山です。
 
 

    f:id:stdsts:20210316000641p:plain

              我執を引きずる
 
 
(2021年03月16日、同日一部修正)
 
 
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(古い記事は載っていません)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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