ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

うそのまま2

 
  うそのまま2
 
 ありのままの自分でいること
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24033176.html
 楽山日記(LD)
 
 
反省・修正をする気がない者は、びくともしないと言いたげに、びくともしないことこそが不自然極まりないところでも、いっそう、我を張ってくるものです。
 
今までの2年にわたる経過から、いくら飾っても、いくら謙虚や中庸を装っても、既に、数々の嘘や詭弁がバレているのに、楽山は、その恥ずかしさを感受できないのだろうと判断しています。
 
仏様の心が分かるっぽいと言ったり、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、愚かさを積み上げてゆく不感不応の醜態。
 

最近は、ありのままの自分でいることをよしとする考え方に共感するようになっているのだが、どうやらこの考え方は随分古くからあるらしい。

このように本能的に自然のままに反応すること、このようにあらゆる道徳的な詭弁や強弁から解放されていること、これが古代の異教徒的感情に一種の威厳を与えて人を感動させるのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.135)
 」

 
嘘吐きが、ありのままでいるのだそうです。楽山は、意地の悪い快楽刺激にしか反応できない人です。そして、人を傷つけても、疲れさせても、迷惑をかけても、悔いることがありません。罪悪感がないからです。楽山のありのままは、詐欺師のそれでしかないのです。
 
嘘吐きを止めない楽山です。飾ることを止めない楽山です。ありのままを善しとすることが真実に生きることなら、上にあげたような今までの経過は無かったはずです。
 
また、嘘を吐いています。"道徳的な詭弁" というのは、古い形式的な道徳を皮肉った言葉なのでしょう。楽山は、非道徳的で詭弁屋、つまり、偽善者です。詭弁は、嘘の一種であり、道徳に反することです。うっかり受け入れたりしないでください。どこまでも狡猾な楽山です。
 
楽山にとっては、自然のままであることは、道徳から解放され、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念することのようです。楽山の本能だから、良しとするのでしょう。
 
シャロームにおいてそうであったように、理路の崩壊が、さらに進んでいるようです。だんだん、言い張りから、ケダモノの遠吠えになってゆくでしょう。その分、楽山の偽善の証拠が資料としてそろって、批判はシンプルになってゆくでしょう。
 

ちなみに、これと似た考えは、佐々木丸美の小説『雪の断章』においてもっと踏み込んだ形で詩的に表現されている。

私は雪の言葉を聞いた。
裏切りがあるから信じ、崩れるから積むのでしょう、溶けるから降るように。
降ることも溶けることも自然の意思で行為は同じ。なぜ積むのが大切で崩れるのが哀しいの? 信じることよりも裏切ることの方がなぜいけないの? 同じ心から生まれたものに正しいとか正しくないとかってそれはどういう意味なの?
(『雪の断章』佐々木丸美著、講談社、昭和56年、p.120)
 」

 
楽山の、小説家の口を悪用した悪意の意志表示です。既に、ケダモノなのでしょうか。思考も情緒も意志もない雪という自然現象のお伽噺の因果に喩えている小説の悪のセリフを、そのまま真に受けて、変わっているから気持ちがいいのでしょうか、真実であるかのように語ります。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいようです。恐らく、楽山は、人間としての基本的な節操・分別さえも持っていないのでしょう。
 
楽山は、信じることは裏切りだ、積むことは崩れることだ、降るのは溶けることだ、だから、自分が悪を働くのは善だ、正しいとか正しくないとか無いんだ、裏切りがなぜいけないんだ・・とでも言いたいのでしょうか。逆説の悪用です。雪の言葉ではなく、表現というものを全く知らない楽山の臭い臭い詭弁です。
 
思考と情緒と意志を常識として持っている人ならば、小説の文学的逆説の価値を認めても、こういう楽山のような、小説の文言を悪用して、善悪の判断を拒否して自己正当化を謀(はか)るような、愚かで乱暴で、かつ、人間としての無思慮を証明するような悪の言葉には、同意しないはずです。
 

恥ずかしながら自分は元々は堅苦しい主義や封建的道徳よりは、情緒で判断する傾向が強い方であったが、

 
楽山は、情緒ではなく、快楽原則で判断していると思います。なんでもかんでも、自分に都合がよければ拾ってくる作業を読書と呼んでいるのです。楽山は、思考だけでなく、情緒的感性も壊れているということが、随所に表れてきたからです。
 
情緒的判断の対比に、「堅苦しい主義や封建的道徳」としか書けないところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。堅苦しくない自分、反封建という前提で、婉曲的に、見苦しく自己正当化を図ろうとしています。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山には、それがないから、詭弁で自己正当化するしかなくなっているのです。楽山日記は、悪意の産物であり、善意の知性に見せかける罠であります。
 

宗教に凝るようになってからは何事もその宗教の規定する是非善悪によって判断し、実際の行動はもちろん、ものの見方や考え方、喜怒哀楽などの感情さえもコントロールしようとするようになっていったのだった。しかも自分のそれだけでなく、周囲の人に対してもそうしようとしていた。いってみれば典型的なマインドコントロールというやつである。

 
楽山を、間違っても、HSというカルトを克服した人などとは、思わないでください。楽山が、ずっとしてきていることこそ、カルト宣伝と質的に何も変わらないことなのです。
 

でも近頃は、その反動のせいか、それとも元々の性質に戻ったせいか、宗教の価値観に自分を合わせようと躍起になるよりも、生来の情緒を取り戻し、その情緒に素直でありたいと思うようになってきている。

 
反省みたいに言っていますが、何ごとも自分の規定する是非善悪によって判断し、人に対しても、ボンヤリ言語で暗示して、マインドコントロールしようとしている経過が、楽山日記です。
 
楽山の "生来の情緒" は恐ろしいものがあると感じています。曲がった知性の総てを自己正当化だけに費やして、反省も学習もせず、都合のよい文言を漁っては、有名人の名前で、自らの正当性を刷り込むなどは、人間味から遠く、非人間の鬼畜に近いものを感じます。
 
また、こういうところでは、きれいごとしか書けないのも、楽山の特徴です。超常の心霊好みで詭弁屋で人間離れしたことばかり書いている楽山のどこに、取り戻せる「生来の情緒」があると言うのでしょう。楽山は、嘘っぱちの霊感の優越意識を満足させたいだけだと思います。
 
楽山の変わらぬ性質として表れてきたのが、過去の間違いを決して認めないことです。反省しているなら、もはや、嘘を吐いたりも詭弁を弄することもないでしょうし、さらに、だらだらと書いてくることさえ、しないはずだからです。
 
楽山の反省の弁は、自身を低くする謙虚とは逆であって、むしろ対極にあるもので、真っ向から、何の罪悪感もなく、自分はこんなに謙虚だと見せかけるための、白々しい芝居のです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っているのは、またしても、有能な人間だと自慢したいだけなのです。
 
楽山は、ずっと、狂った情緒のままに、反省せず、整わない詭弁を弄しているだけです。宗教の価値を、楽山は、全く知りません。そういう、自我しかない心性ですから、生来の情緒など持っていないと思います。あるのは、イド的欲求だけのように思います。
 

こういう態度はかつての自分のようにすべてを宗教的規範に合致させないではいられない熱心な宗教信者からは毛嫌いされ、時には退転者、落伍者の烙印を押されてしまうものではあるけれども、自分はこの過程において、信仰を捨てることで真の信仰を得るとか、修行を放擲することで修業目的が達成されるということを経験できたのはよかった。

 
楽山は、自身を宗教的規範に合致させることなど、恐らく、無かったのではないかと思います。楽山の記事は、ずっと、自己中精神、自身の霊感自慢でした。楽山が信じて、訂正不能なのは、自己顕示欲による心霊が分かるっぽいという自慢からの我欲に過ぎません。
 
それに、キリスト信仰は、規範や道徳に合致させる教条主義を行為義認と呼んで否定して生まれてきたものです。そのことを、旧勢力に殺される路程で、明らかにしたのはキリストご自身であります。いつものように、楽山の、宗教に対する無知が表れています。
 
楽山の宗教理解・信仰理解は、超常ホラーアニメを見た子供の感想のように、極めて幼稚であることが表れてきました。楽山は、娯楽の視野と真実の追求を区別できない人です。
 
しかも、もはや、訂正不能のようです。学ぶことなく、言い張り続けるのは、とても醜いことですが、楽山は、罪悪感も羞恥心もないために、気づかないのです。
 

自分を向上させようとするときは、「~ねばならぬ」という理想にこだわり、努力することも必要な場合もあるのだろうけれども、これとは別にありのままの自分に正直になり、自然体でいることも大事なのだと思う。

 
むしろ、逆に、人間から、当為、即ち「ねばならぬ」や「するべき」の追求を除いてしまったら、楽山のような、極めて傍迷惑なケダモノになるということです。
 
楽山において、ありのままは、自然体ではなく、天然の我欲のみ、すなわち、うそのままです。
 
当為は、理想ではなく、人間が節操を保つために現実に必要なものです。そのために、人間は、真実を追求し、当為を考え、反省し、修正し、成長するのです。楽山は、それを否定しています。
 
楽山の、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」は、良心も感性も思慮も捨てて、ケダモノになることを意味しています。
 
警戒してください。楽山は、ちょうど「狼と少年」という童話と逆の、狼は来ないから、自身はまともだから、今のままで安心と言っているようなものです。楽山自身が狼だからです。
 
小説というフィクションにおける反発~逆説という表現を、読み取らず、学ばないで、逆に、真に受けて悦ぶ楽山の著しい詭弁です。
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山が、自分では何も言えないものだから、またしても、他者のツイートを引用して、拡大解釈で曲解して、自己正当化に励んでいるようです。誰が何と言おうと好きなことをしておればよいと自分に言い聞かせているのでしょうか。人の口を、どこまでも、悪用する楽山です。
 
楽山にとって、人生とは、嫌なことを無視して、どんなに人が思おうとと、好きにやっていることが一人前に過ごしたことになると思っているのでしょう。楽山の今までの自己中を続けるぞ・・と、これからも、自分だけを愛し続けるのに、字面だけ都合のよいツイートを引用しています。
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
·7時間
幸せになる1番簡単な方法は時間の使い方を見直す事だ。嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ。例えば、無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する。ウジウジ悩む代わりに運動して心身共にリフレッシュする。これだけで超幸せになれる。
午後7:10 · 2021年3月25日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1375027275628830723

 
「嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ」・・楽山は、自分の好きなことだけしていようと思っているようです。楽山のような病的ナルシストは、こういう発言を、自分の好きなようにしてよい、それが自由だからと、自己中で妄想的に曲解して、そういう言を探しては悪用します。人間ならば持っているはずの深い思考・理解・共感がないからです。
 
何となく読んで、ふつうに同意してしまうと、じわじわと自己中が、楽山から、うつされることになります。楽山は、ふつうではありません。自己中で曲解して引用したものを、なぜ、何度も何度も、手を変え品を変え、読ませようとするのでしょう。
 
他者から不快を与えられたから、別の他者の口を使って、これ、もっともでしょう、当たり前に正しいじゃないですかぁ・・という感じで、自己満悦して、刷り込もうとしてくるのです。
 
それにしても、詭弁が成り立たないと、別の詭弁を出してくる、しかも、他者の言を勝手に解釈してのことだから、どこまでも、精神の貧困と狡猾さだけが伝わることになります。
 
「無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する」・・この言が、成り立つのは、大人として、責任を弁えて行動する人の場合です。
 
楽山のような自己愛性パーソナリティ障害では、無反省・無責任の体質によって、趣味、読書、創作、いずれも著しく偏ってゆきます。
 
趣味に独りで没頭して、誰にも迷惑をかけないなら、自由です。しかし、もしそうなら、何も書かず、リツイートでも自己中が表れるのだから、引用して書くなどということはしないはずです。
 
どうしても、自己正当化しないと気が済まないから、都合の良い文言を、他者の言に求めて、出してくるのでしょう。
 
リフレッシュによる気分転換と、自閉による逃避は違います。自閉による逃避は、無視することと同じです。目をつぶり気をそらすことでは、悪意と病質が沈殿して蓄積されるだけです。
 
人の言うことは聞かず、自分の言いたいことだけを言う、これが、まさに、自閉の生き方です。ということは、今までも、楽山が、ずっと、やってきたことです。リフレッシュではなく、自己中が、無視を続けて、自閉するだけです。
 
過去の問題を反省しないまま、無視して、ふつうに過ごしているつもりでいると、結局、また、活動を再開するときに、同じ経過を辿ることになります。
 
人間は、学習することで成長します。学習するために、不完全な自分を意識し、自分に非があれば反省するわけです。その姿勢が、楽山には全く見られません。リフレッシュどころか、自己中再確認、それが、この楽山のリツイートなのです。
 
問題を無視して自閉することで、リフレッシュされるものは何もありません。フレッシュなものは何も生まれません。自己中→自閉→・・ここに、また、同じように、自己愛で物を言う楽山が表れるだけなのです。
 
それこそ、嘘を、嘘のままを保存し、嘘のままにして、そのうち、また、書き始めたら、嘘を吐き始めて、今までと同じように、迷惑をかけ、誰かを害するだけなのです。
 
 

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              独りで過ごす嘘吐きの日々
 
 
(2020年03月22日、同日一部修正)
 
(2021年03月27日、再録+)
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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