ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山はホラー

 
  楽山はホラー
 
 キリスト、パウロガンジーと非暴力
 2021年04月10日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28705420.html
 3回同じリンクを付けている箇所があります。
 楽山は、読者への思いやりなど全く持っていませんのでご注意ください。
 
 
病質者らしいことを書いて、説得力はゼロなのに、独りで「理解できた」と満悦する楽山です。こういうのが、本当の、リアルの、ホラーなのです。楽山に対する説得は無駄であります。全く、気づきがなく学習機能がない病気の脳ミソ単独の暴走です。
 

前の記事を書きながら思い出したのだが、ガンジーの説いた非暴力について次のような説明を読んだ覚えがある。
暴力は自らの望みを実現させるために相手に肉体的苦痛を与えるが、非暴力は自らが肉体的苦痛を受けることで相手の良心に働きかけ、真実への目覚めを促すものである云々。

 
楽山は、自らの快感を得るために相手に精神的苦痛を与えます。暴力について他人事のように言っていることで、楽山に、その自覚のないことの証明になります。
 
楽山は、「良心に働きかけ」「真実への目覚めを促す」・・する気もないことを受け取ったことにしています。また、白々しい正義感気取りです。寒気がします。
 

自分はこれこそキリストの「悪人に手向かってはならない。だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5.39)という教えの意味だろうと理解したのだった。

 
キリストは、人が出来ないことを承知で言っているのです。それゆえ、十字架につくことになります。それも承知の上です。救い主キリストの、洞察力と共感力なのです。
 
それを書かずに「理解したのだった」は、理解できない自分をも無視して意地を張る身の程知らずなのです。恐らく、何を読んでも実際は理解抜きで、理解したつもりになる見栄張りの嘘つきです。吐き気がします。
 
言われても、実際には出来ないことを言っているキリストの意図は、罪なき者は一人もいないということと、最後に訪れる殉教を暗示しているのかもしれません。
 

でも、パウロは次のように書いている。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
(ロマ12.19-21)
 」

 
(ネットより)
こ の地域の人たちは水瓶、果物や野菜のかご、火の付 いている壺などほとんどを頭の上に乗せて運びまし た。 隣人から新しい炭を受け取った後で、頭に火鉢を 持ち上げて家に出発します。もし隣人が本当に寛大 な人なら、その人は火鉢か壷に更に新しい熱い炭を 「積み上げる」のです。壺に燃えている炭を入れて あげます。
https://kogabaptist.wixsite.com/kogabaptist/single-post/2020/03/28/%E7%87%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%82%AD%E7%81%AB%E3%82%92%E5%BD%BC%E3%81%AE%E9%A0%AD%E3%81%AB%E7%A9%8D%E3%82%80%E3%81%93%E3%81%A8
 
このパウロの発言は、殉教を意味しているようです。キリストの敵となった者たちは、律法を曲げて、褒められることを悦ぶ者たちであり、信仰の心が無く、思いやり・罪悪感・修正機能などがない者たちです。楽山との共通点が多々あります。
 

これはキリストの言葉と関連しているのか判然としないのではあるが、もしかしたらキリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、このように解すべきなのだろうか。相手に逆らわないのは、相手の良心への働きかけではなく、神による復讐を期待してのことであると。

 
パリサイ人のような者たちは、結果としてキリストを殺したことに表れており、良心がないので働きかけても反応しません。人格としては、楽山が、その典型例であります。
 
楽山は、恥知らずで、良心がなく、自分は偉いんだ!正しいんだ!という意地だけで、今回もまた、書いてくるのです。書けばいいと思っているのでしょうか。文章だけ丁寧だが、根拠もなく喚き散らしているのと同じです。
 

内村鑑三にもこのような言葉がある。これはおそらくはパウロの言葉を前提にしているものなのだろう。 

我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。
ヨブ記講演 内村鑑三 - 青空文庫
 」
「愛を以って敵人の首に熱き火を積」むことを健全とするとは、はたしてどういう論理によっているのだろうか。

 
繰り返し(ネットより)
こ の地域の人たちは水瓶、果物や野菜のかご、火の付 いている壺などほとんどを頭の上に乗せて運びまし た。 隣人から新しい炭を受け取った後で、頭に火鉢を 持ち上げて家に出発します。もし隣人が本当に寛大 な人なら、その人は火鉢か壷に更に新しい熱い炭を 「積み上げる」のです。壺に燃えている炭を入れて あげます。
https://kogabaptist.wixsite.com/kogabaptist/single-post/2020/03/28/%E7%87%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%82%AD%E7%81%AB%E3%82%92%E5%BD%BC%E3%81%AE%E9%A0%AD%E3%81%AB%E7%A9%8D%E3%82%80%E3%81%93%E3%81%A8
 
上の「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」というパウロの言葉を前提にしているならば、類似の「愛を以って敵人の首に熱き火を積む」という表現は、殺して呪うことを言ってはいないようです。解釈の難しいところですが、楽山のような悪意の短絡をしないことが大切です。
 
もし仮に、敵を殺し死体を呪う行為ならば、論理ではなく感情であり、正直言って、欠点の多い私は、楽山について、軽くない陰性感情をいだくことがあります。内村鑑三も、楽山のような訂正不能の偽善者に出会ったのでしょうか、という問題になります。しかし、信仰があるからこそ、自省し自制するわけです。
 
それにしても、楽山が、いかに、飢えた狼のように、よだれを垂らして、うなりながら、内村鑑三の、おかしな発言と思えるものを漁っていたかが、うかがえます。これが楽山の炭火です。
 
楽山は、書いたものが、何も成り立たないものだから、それこそ、内村鑑三キリスト者の存在を殺して火でもつけたい気持ちでしょうか。とても危険な思路の傾向が発言に表れています。
 

聖書的には、キリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、パウロのような理解の仕方が正しく、これができてこそ、内村鑑三の言うがごとく「健全に達した」とされるなら、自分にはやはり聖書は異文化であって理解するのは難しいようだ。

 
言葉面を整えるだけで、一滴の慈愛も持っていないのに、楽山は、愛について、ガンジーと内村感想を秤にかけています。その時点で、アウトだと気づかないのです。病質者とは、そういう者です。
 
「異文化であって理解するのは難しい」・・分からないというシンプルなことが言えず、代わりに、理解できないのは異文化だからだ!と言っている頑固な自己愛と自己中を見逃さないでください。
 

とはいえ理解できないからこそ理解できたときは嬉しく、ここが聖書の魅力でもあるのだが…。

 
ここまでのことで「理解できた」と我を張っています。理路も情緒もありません。反省も責任感もありません。ゆえに理解などあり得ません。
 
「ここが聖書の魅力でもあるのだが」・・嘘です。反キリストの病質者は、まともに考えることも感じることも出来ません。聖書の魅力など分かるはずはないのです。つまり、これが自己愛性人格障害です。卑怯な知恵だけ身に着けているのです。決して近づいてはいけません。
 
 
 
 「第十六講 ゾパル再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月10日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28705090.html
 
 
飛び飛びに聖書を読んでいることが分かります。伝えようという意志がない我欲からなので、けなしたい箇所が優先されるのでしょう。じっくり考えることも冷静に計画を立てることもないのが、楽山です。
 

「第十六講 ゾパル再び語る」を読了したので、その内容と感想をメモしておきたい。
第二十章の研究。
ヨブ記は十九章で完結とすべきところではあるが、さらに「二十三箇章」が続いている。聖書ではこのような例が他にもある。イザヤ書では五十三章で「光明の絶頂に達」するが六十六章まであり、ヨハネによる福音書では十七章で「絶頂」となるがそこでは終わらないなど。

 
大事なことが何も分かっていない楽山は、余計なお世話だけしてきます。求められてもいないのに出てきます。しかし、いつも、こんなことまで知ってるんだ!と言いたいだけなのです。どこにも、信仰の響きがありません。悪口を婉曲的に言うだけです。哀れです。
 
恐らく、最後の、神が出てきて、ヨブが悔い改める最終章へのストーリーなどは、あとで書かれたものだと言いたいのでしょう。だから何なのでしょう。信仰を求める人は、聖書が何を伝えているかを求めるのです。大昔の事実など、それにこだわる楽山など、どこにも必要とされることはないのです。
 
楽山は、事実性に、いちゃもんをつけてきます。そして、史実か否かにこだわり楽山の幼稚すぎる机上の辻褄をもって、合わないから神はいない!キリスト教は嘘っぱちだ!と言いたいのです。真実を求めて、得られると感動する、という正常人の心がありません。
 
それが、楽山のベースにあるところの、自らの不遇に対する怨念なのです。毎回、それだけが、明らかになります。もはや、楽山の読書は、節操も弁えもない狐か狸の類でしょう。
 
最初から、楽山がキリスト教について書くのは、謀略だということです。だから、信仰の欠片もなく、偽善でいっぱいの楽山に、耳を貸してはいけないのです。伝染性があるので、楽山は、疫病です。
 

ヨブ記が十九章で終わらない理由は、愛を学ぶ必要があるためである。ヨブは「信仰による勝利」は得た。しかしこれは「愛による勝利ではない。故にこれは最上の勝利ではない」。ヨブは「愛を以て友を赦し得るに至らねばならぬ」。
「我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。信仰よりも希望よりも最も大なるものは愛である」。

 
さらに繰り返し(ネットより)
こ の地域の人たちは水瓶、果物や野菜のかご、火の付 いている壺などほとんどを頭の上に乗せて運びまし た。 隣人から新しい炭を受け取った後で、頭に火鉢を 持ち上げて家に出発します。もし隣人が本当に寛大 な人なら、その人は火鉢か壷に更に新しい熱い炭を 「積み上げる」のです。壺に燃えている炭を入れて あげます。
https://kogabaptist.wixsite.com/kogabaptist/single-post/2020/03/28/%E7%87%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%82%AD%E7%81%AB%E3%82%92%E5%BD%BC%E3%81%AE%E9%A0%AD%E3%81%AB%E7%A9%8D%E3%82%80%E3%81%93%E3%81%A8
 
上のほうに書いたように、内村鑑三の真意は、はっきりとは分かりません。しかし、楽山は、餌を見つけた野良犬のように、「愛」を含む引用をして、ひどいことをすると勘違いし、独り満悦し狂喜しているだけです。
 
楽山は、自分の言葉で書くと理路にならないために、引用が多くなってきました。引用だけという感じでもあります。なお、本の一部を選択して引用するという行為は、偏った刷り込みをするときの詭弁であります。
 

本講の一つの勝利で終わりではなく、その先があるという考え方は、仏教でいうところの悟りを得てからの悟後の修行、上下菩提下化衆生、さらには釈尊の大悟の後の梵天勧請などを連想させるところがある。

 
何かを得て、さらに、学習する、という当たり前の態度が、楽山にはありません。楽山は、仏教の知識を見せびらかしたいから言っているだけでしょう。キリスト教と仏教、似たところもあるけれど、同じ宗教ではありません。
 

こうしてみると、巷でも言われるとおりに、キリスト教と仏教は異なる宗教ではあるが重なるところはあるようだ。

 
楽山には、何を語る資格もありません。楽山は、少なくともキリスト教を、全く理解していないからです。誰も関わらないでください。自己顕示欲だけの楽山は、無反省、無責任、無神経、無理解、訂正不能、罪悪感欠如の、自己愛性人格障害です。
 

万教帰一的な考え方によっても、どちらも人によるものであると唯物的に考えても、キリスト教と仏教に似たところがあっても当然ではあるが、それでもやっぱり異なる時代、場所、人の間で共通のものが発生したとすれば不思議である。

 
(ネットより)
万教帰一(ばんきょうきいつ)とは、すべての宗教は一つに帰するという概念である。主に新宗教で使われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%95%99%E5%B8%B0%E4%B8%80#:~:text=%E4%B8%87%E6%95%99%E5%B8%B0%E4%B8%80,%EF%BC%88%E3%81%B0%E3%82%93%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8D%E3%81%84%E3%81%A4%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AF%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AB%E5%B8%B0%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%A6%82%E5%BF%B5%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82.%20%E4%B8%BB%E3%81%AB%E6%96%B0%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%A7%E4%BD%BF%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82.
ウィキペディア
 
楽山は、言葉だけ、なじみのない言葉を説明なしに多用します。インテリ気取りからでしょうが、今となっては、説明しないで威張りたい気色の悪さだけということになります。しかも、理路を説明せず、結論だけ書いています。
 
「人の間で共通のものが発生したとすれば不思議である」・・何が不思議なのでしょう。世の中は、楽山の理屈で動いているわけではありません。楽山は、人も、神も、自分も、見ないで書いてくる厚顔無恥の荒らしであり、求道者を混乱させ、信仰者の平安を荒らしてくる者です。
 
言ってることが、ことごとく、詭弁であり、ゆえに、不祥事となってゆく楽山です。どうか、決して、関わらないでください、相手にしないでください、近づかないでください。
 
 

   f:id:stdsts:20210410234252j:plain

                  遠吠え
 
 
(2021年04月11日)
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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