ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

凶暴な詭弁2

 
  凶暴な詭弁2
 
 『憎悪の宗教 ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」』定方晟著
 憎悪の宗教―ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」
 http://mn266z.blog.jp/archives/24345230.html
 楽山日記(LD) 2020年04月12日 (再録+)
 
 
楽山は、獣性を抑制できなくなってきています。"聖なる憎悪"というのを肯定しているようです。神の怒りがどうであるかは、神に任されることです。私たちは、ただ、できることをしている姿を、神に捧げて、神の前でだけは正直に、祈るだけです。それが信仰だと思います。
 

タイトルから宗教批判の本だろうと見当をつけて読んでみたのだが、やはりその通りの本だった。この点、看板に偽りなしといえる。

 
これを、わざわざ書くというのは、強調でしょう。ようやくこの記事において、キリスト教批判が楽山の本質と本音であることが表れています。
 
すなわち、今までの丁寧語やボンヤリ言語は、総て、作為の、うわべだけの、騙しの、刷り込みの、嘘っぱちであることを、楽山本人が認めたことになります。
 
つまり、この記事によって、悪と敵意のモードに入っています。今まで、反省という言葉は使っても、反省が表れたことが一度もなく、一途にキリスト教とキリスト信仰を、子供だましの、実に軽く幼稚な筆致をもって、おとしめようとする意図だということを、楽山が表しているのです。それで、公共の場でも通用すると思っているのです。
 
このように、自己正当化の、訂正不能の、さらに、上から目線の、学者という他者の名による無責任筆致が、今まで、何の説得力も持たなかったのは、ナルシスト~サイコパスの、なんでも人のせいにするという、罪悪感と羞恥心の欠如、言い換えれば、良心の欠如によるのです。
 

自分の理解するところでは著者の主張はおよそ次のようなものである。聖書には、嫉妬、呪詛、復讐、虐殺などを肯定するかのような記述があふれており、その影響を受けた信者たちは歴史上、虐殺や破壊行為を行ってきた、キリスト教は表向きは愛を説いてはいるが、その裏には憎悪を隠している、聖書に基づく一神教は暴力的で危険な宗教であり、仏教の方がよほど平和的であり思想的にも深いものがある云々。

 
先ず、この記事は、さらに、この楽山ブログの宗教に関する記事は、楽山の、キリスト教への憎悪から、書かれていること。さらに他者の口を利用して、キリスト教を悪者にしようという意図が、今回は、はっきり表れています。
 
楽山自身の、嘘、偽り、詭弁、刷り込み、などについて、何の反省もしないで、楽山は、不遇だったから、そして、批判されたから、憎悪し、他者の口を借りて批判してくる、無根拠に貶(おとし)めてくる、という、この事実から、自己中という不都合を総て人のせいにする等々、今まで私が書いてきたことが実現しているわけです。楽山はホラーです。
 
キリスト者から批判されて、おのれを振り返る反省も節操もなく、私のせいにし、神のせいにし、また、キリスト教のせいにし、しかも今までのように詭弁の手段としてボンヤリ言語でごまかすことをやめたのか、と思ったら、このあと、また、理路にならない理屈を、引用元についても述べて、既に、助けを借りている引用元をなじり、結局、中立で正しいのは自分だけ、ということを出してくる卑怯さなのです。
 
敵と味方であろうとなかろうと、いちばん嫌で、いちばん関わりたくなく、いちばん、どんなに批判しても足りないと思うのは、"卑怯者"であります。
 
ナルシストが、いかに、悪意も持っているか、そして、にもかかわらず、いかに、自分を飾らないではおれないか、ということが表れています。
 

自分には、こういう著者の主張にはなるほどと思えるところと、違和感を感ずるところが二つずつあった。
まず納得できたところとしては、一神教と復讐の関係についてだ。前々からハリウッド映画などを見ていて、復讐ものがやたらと多いことを不思議に思っていたのだけれども、著者の主張からすると、どうやらこれには宗教が関係しているらしい。

 
楽山は、キリスト教を、映画の復讐劇で語ろうとしています。復讐は神に任せよ、とは言われていますが、それは、神の裁きに任せよ、ということを言っているのです。
 
まるで、人情の、刃傷の、殺し合いの、かたき討ちのような、憎悪vs憎悪に、神聖の裁きを持ち出した時点で、楽山は、アウトなのです。このように、楽山が、いかに、神を、自分より劣った人格のように見ているか、という証拠でしょう。
 
全知全能、完全絶対、永遠不変、という神を、人間には不可知という想定では気が済まず、楽山は、自分の、甚だ、みすぼらしい人間理解を、神に当てはめてくるのですから、キリスト者としては、たまったものではありません。
 
楽山は、神を手のひらに置きたがるほどの、欲望の人、そして、思考の貧困者なのです。勘違いを、勘違いであげつらい、勘違いと気づかず、満悦して、人の言うことを聞かないものだから、さらに、勘違いで勘違いを深く深く、直腸指診のように、臭く掘ってゆくのでしょう。
 

邦画では復讐ものといえば忠臣蔵が有名だけれども、その他はあまりないように思うし、仮にあったとしても、復讐は空しいだとか、恨み心では恨みは解けぬという方向に進みがちだ。

 
忠臣蔵をあげてきました。忠臣蔵は、たくさんの映画とドラマになっていますが、復讐を美化するだけでしょうか。復讐劇は、現代劇もありますし、多くの復讐劇は、そこに考えるべき人間の課題を提供しているのですが、ヒーロー気取りの楽山は、人間が考えるべき課題を、アドラー教に従ったつもりで、自分の課題ではないと思っているのでしょうか。
 

でもハリウッド映画など欧米の映画には復讐ものは多いし、和解、許しの方向に向かうことも殆どなく、主人公が復讐を成し遂げることで観客は爽快感を得る筋書きになっているものばかりだ。主人公が仇に向かって「地獄に堕ちろ」と暴言を吐くことも珍しくない。この差の背景に復讐を是とする宗教があるというのは、よく納得できる話だ。

 
楽山には、敵に向かって「地獄に落ちろ」というのは、ただの暴言でしょうか。復讐を果たさないとしても、人間は、公の裁きが十分に働かない場合には、敵に対する怒りと憎しみが増大するということに、それは正しくないと言うだけの評価と、単純な道徳であっさり否定して、何の共感も表現せず、言い得たと思う楽山なのです。深い意味を考えず、深い情感を感じないのでしょう。
 
こういうのを、一面的思考というのでしょう。しかも、それを、宗教と神に当てはめるのだから、楽山の、人間と、神についての、理解が単純すぎて拙劣すぎます。小学校のごますり優等生か。
 

もう一つ、なるほどと思えたのは、ユダについての話だ。著者によると、『ユダの弁護人』(イェンス著、ヨルダン社)という物語では、ユダは神に対してもっとも敬虔で従順であったがゆえに、イエスを裏切るという他の誰にも果たせないほどの大きな使命を与えられ、この使命を果たし神の計画を実現させて殉教したのだから聖人とすべきだという主張がなされているらしい。
これは冗談なのか、本気なのか判然としないが、すべては神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然ではあるだろう。

 
ユダが敬虔で従順であったということが聖書に書いてあるのでしょうか。書いてあるなら引用するべきでしょう。既に、楽山が、聖書を、まるで読み取っていないことが明らかになっています。
 
またしても、知恵の足りない、勉強も足りない、そのくせ思い上がる楽山は、ユダを英雄化したいようです。ユダが、金にこだわる男であったことは聖書に書いてあるのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:3
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
12:4-5
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6
彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
 (ヨハネ書12:3-6、新約聖書
 
楽山が「神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然」と書いています。反キリストの本性を隠さなくなったということです。楽山は、ユダが大好きな、キリスト教に対する破壊者であるという私の判断が証明されています。
 
ユダについて、同情できるのは、ただ一点、キリストを売って死に至らしめたことを、後悔していることです。ここが、いわば、性格としては、ユダと楽山の違いです。ユダは後悔する人、楽山は、他者を無視して、後悔しない人。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書
 

ユダであっても救われるという話は、『ライ麦畑でつかまえて』で読んだことはあり一理あると思ったのだったが、ユダは殉教者であり、聖人だという主張には驚かされるが、こういう主張は本当に興味深いものだと思う。ちなみに著者は仏教における提婆達多の評価と、キリスト教におけるユダの評価とを比べて、仏教の優位性を説いているが、このようなユダの解釈が出現したことで、キリスト教もようやく仏教のレベルに近づいてきたかのように書いている。

 
聖書を逆説的に解釈する、というのは、ゆくゆく参考になるかもしれない一つの解釈のあり方です。しかし、楽山は、悪意だけで、キリスト教を侮辱しているに過ぎません。
 
そして、キリスト教が仏教レベルに近づいてきたかのよう・・と言っています。楽山の破壊された理路において、キリスト教も仏教も、同じ尺度で単純に測れると思っている時点で、アウトです。楽山は、結局、自分を高めたいだけの男ですから、仏教の方々も、気をつけたほうがよいと思います。
 
楽山のお気楽宗教品評会は、総ての、真面目な宗教人の敵です。何も分からないくせに、鼻ヒクヒク高々に得意がって見栄を張ってきただけの自己愛性人格障害者です。どうか、楽山という、この果てしない自己絶対化の、ごまかし詐欺師と、このハンドルネームを忘れないでください。実名が分からないことに、楽山はしがみつくでしょうから。
 

次に本書のなかで違和感があった部分について書いてみると、まず一つは著者は仏教を理想化しすぎているのではないかということだ。歴史を振り返れば、仏教は公権力と深く関係したり、僧兵を抱えていたり、一揆とも関わっていたのであろうし、昨今でも仏教系のカルト教団が問題となっているだろうし、この点からすれば仏教は著者が言うほど平和的であるとは言えないように思う。また著者の聖書解釈は、その記述を最大限に悪い方向に解釈し、現代の基準によって批判を加えるという形になっているようだ。

 
褒めた後で、仏教を理想化しすぎ、と言っています。楽山は、自分はバランスが取れていて、偏りがない、と思われたいのです。褒めたり、批判したりが、同居しているのが、楽山です。つまり、こういう人の主張は、信頼するに値しないということです。
 
こういう筆致は、暫定的な結論さえ出せない、つまり、まとまった主張を持たない、という経過になってきたのでしょう。いい加減さが目立ってきて相手に出来ない者が、通ると思っているナルシストの誇大妄想の偽りがここにあります。
 
反キリストのシャロームが、身勝手信じ込みの醜い妄想的確信によって、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、人だけがするべき悔い改めを、神が与えたらする、と言って悔い改めないのを、楽山は、無条件で支持しています。まるで、でたらめなのです。シャロームと楽山は、ともに凶暴な、反キリスト、反宗教です。
 
なお、キリスト教系カルトというのは、キリスト教を曲解して出来ています。同じように、仏教系カルトは、仏教の曲解か悪用なのでしょう。両方とも、理解できないばかりでなく、反省もせずに、曲解しているのが楽山です。
 
宗教とカルト、両者は全然違うのですが、楽山は、カルトの問題があることを、仏教が平和的でないことの根拠の一つとしているところ、見逃さないでください。勝手に決めて、微に入り細に入り租に入り、表面的で、ゴシップ的で、一方、本質に入ることなく、万事、いい加減な詭弁家の、楽山です。
 

でも本来は聖書に限らず、古典聖典を理解しようとするときは、それが書かれた当時の状況を勘案し、かつその記述がどのように解釈され、実践されてきたかを考慮せずしては、正当な批判は行い難いのではなかろうか。

 
当たり前です。これに反しているのが、凶暴なナルシスト、楽山なのです。決して、気を許してはいけません。誰にとっても、出会うことが、そのまま、不幸としか言いようのない男です。ゆえに、楽山は、正当な判断をしているつもりの立場から言っているということです。論外の大嘘です。
 

著者の聖書解釈と批判はこの辺りについてはやや説得力を欠くところが無くもないし、巻末の寸劇は風刺、皮肉というより、ヘイトに傾いているのは残念に思う。

 
ここでも、分かるように、楽山は、まるで、自分を中立の高みに置いて批評する気分で書くのです。引用しておきながら、説得力を欠いて、ヘイトに傾いている、残念、などと、中立を装います。
 
いちばん説得力を欠いているのは、詭弁屋の楽山です。ベースには、人間と社会へのヘイト、即ち、憎しみと怨念があると思います。誰の役にも立たず、無機能、かつ、有害な、インテリ気取りです。
 
実際には、このことから、自分の言い分の根拠にした後は用はない、とでも言うような、他者を使い捨てと見ている楽山の自己中と底知れない悪意の魂胆が見え隠れしているわけです。
 
楽山は、自分だけは、キリスト教よりも、仏教よりも、中立だから出来がよいとでも言いたげな、自慢と慢心があることを見逃さないでください。楽山は、中立ではなく、どこにも、よって立つ所がない人なのです。楽山ブログは、自慰行為に過ぎません。
 
そして、このような魂胆を見るたびに、私は、楽山に対して、一片の同情の余地もない病質者であることを再確認するという経過となっています。
 
自己修正不能の楽山とシャロームが反面教師として残す教訓は、人間が自分を絶対化すると、このような思慮と情緒の人格破壊が進むということです。ここが、自己愛性人格障害という病と、単純に自慢したがる性格特徴だけの人との、決定的な違いです。
 
楽山とシャロームについては、同一人物の成りすましも、疑うべきかもしれません。
 
単純に自慢好きなだけの人というのは、自慢するけれど、自分のせいで大きなトラブルが起きたりすると、打って変わって、驚いて、慌てて反省もするでしょう。それと楽山は全然違います。
 
そういう、がっかりして、後悔して、反省して、というのが、全くないのが自己愛性人格障害です。そして、彼らは、柔和を装います。うわべの丁寧語を真に受けないでください。
 
ひどくなれば、人を傷つけ、殺しても、罪悪感が湧かず、むしろ、笑っていられる人格です。犯罪行為に及べば、警察の仕事になります。それ以前に、できることは、批判だけでしょう。
 
 

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                     凶暴
 
 
(2020年04月25日、同日一部修正)
(2021年04月18日、再録+加筆)    一応推敲済み
 
 
 
  偶像イズム
 
イズムがあふれている
思想ならばいい
倫理でもよかろう
人には考える自由があるのだから
人の知恵であることを知る限りは
それゆえ間違うこともあると
知っている限りは
 
主イエスを慕い
我が主と呼びながら
腹の中にある
偶像の腐敗を
まだ消化しきれずにいる
それに気づいていながら
まだ気づかないもののために
私は癒しと恵みを受けながら
主を裏切り続けている
 
思い上がってはいけない
主の御名をみだりに唱えてはならない
 
信仰が
限りある人の知恵と知識を振り回し
神の御名の下に命令を掲げるとき
その信仰は
思い込みか偶像である
 
本質的なところでは
信仰は
○○イズムになるような教条ではない
 
多くの宗教人が信仰の名の下に
そして間違うことのない絶対者の名の下に
間違っている
 
 
弟子たちは
ゆくゆく誰が一番偉くなるか
などと思っていたが
 
主は人の罪を贖うために
その生涯の結末もご存知であった
総て承知の上で
地上に来られたのである
 
 
(大昔の作)
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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