ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

凶暴な反復2

 
  凶暴な反復2
 
 
 2020年03月28日
 『若い読者のための『種の起源』』ダーウィン著、ステフォフ編著
 http://mn266z.blog.jp/archives/24129552.html
 楽山日記(LD)
 
 
ダーウィンを持ち出してきました。そして、読んで大正解、納得できる、と言っています。科学の部外者の立場では済まない傲慢は、進化論でキリスト教とキリスト信仰をおとしめる狙いが以前からあるという理由によります。
 
楽山の凶暴性は、自己愛、自己中、訂正不能、そして、執拗な自尊の繰り返しで、評論家を気取る体質にあります。それは、何を言われても気に入らなければ平気で無視して同じことを繰り返す執拗な性癖に表れてきましたし、今回も同様です。
 

若い読者のための『種の起源
種の起源」は随分前にはじめの数ページを読んだだけですぐに放り出してしまい、そのことがずっと気にかかっていたのだが、本書はこれを簡潔、平易にしたものだとのことで興味を持ち、読んでみた。

 
ナルシストで楽山の興味は、いかにして、キリスト教をおとしめるかということで貫かれています。そのために、楽山は、聖書の通りに天地と動物と人間を創造したと信じて進化論を否定するがキリスト教だと決めつけています。
 
私は、最初に通った教会で、創世記は神話として読むことを勧められています。そのほうが、より多くの真実を受け取ることが出来ると、私も思っています。その読み方によって、生き生きとした人間の有り様と罪性が分かってくるのです。
 
しかしながら、凶暴な訂正不能の楽山は、わざわざ、創造論と言って聖書を進化論と並べる理屈としてしまって決めつけ、進化論という仮説のほうが正しいと言いたいようです。丁寧な書き方は、楽山の策略であることを強調しておきます。
 
楽山は聖書の読み方を知りません。また、事実と真理を決めつけないと気が済まないようです。そういう読み方では、神と人間の関係など、微塵も理解できないことをも強調しておきます。そのことを何度言っても、理解力がないのか、感受性がないのか、反省力も成長もないのか、楽山は書いてくるのです。
 

結果は大正解。本書は、生物学に無知な自分でも面白く読めた。序盤は頭の中で音読するようにゆっくり、徐々にペースを上げて行く読み方をして、ただ最近はどうも何事にも飽きっぽくなっているので、最後のところはやや流し読みに近くなってしまったのではあるが、それでもやっぱり面白かった。折を見て再読したい。

 
学習途上の人々を惑わすようなことを書いて、何が大正解なのでしょう。罪悪感と羞恥心がまるで育っていない楽山の、批判されると、反論どころか弁明どころか、無視しか出来ず、今回のような当てつけしか返せないでいて、なお、気取っていられる心性は、とても異常です。
 
シャロームと同様、全く話し合いの成り立たない人なので、成りすましの疑いもあります。他にも、親子など親族、仲間、組織の可能性も考えています。シャロームは、仲間が多いことを誇っていたからです。
 

内容については、他の本で読んで既に知っていることも多かったが、高地に点在する動植物についての話ははじめて読んだ。寒冷地の生物は氷河期のように地球全体が冷え込んでいた頃に南下し、生息域を広めるも、やがて地球の温暖化がはじまると、北に戻るものもいれば、高地へと移動するものもあったのだろう…云々と。同種の生物が離れた場所に生息しているのは不思議だと思っていたが、こういう理由があったなら納得できる。
でもこれと似た疑問として、淡水魚の場合はどうなのだろうと思う。たとえば、フナは日本全国の河川、湖沼に分布しているけれども、他とはつながっていない孤立した湖沼それぞれに生息しているのはなぜだろう。これにはどういう説明があるのだろう。

 
人の意見を聞かず、自分を支持するような情報、学者の言うことも対等の立場のように分かる評論家気取り、実は勘違いと思い込みばかり、・・そういうものを漁(あさ)って、分かっていることにしているとこうなる、という例になります。
 
進化論については専門家でも議論のあって不思議のないところですが、私は学者ではないので進化論の正誤については遠慮するわけです。しかし、楽山は、学者の言うことが分かる、納得できる、と言いたくてたまらないのでしょう。
 
淡水魚の場合は、なぜだろう、どういう説明があるのだろう、と分からないことがある自覚?みたいなことを書いていますが、楽山のように、嘘を吐き、詭弁を弄し、反省せず、本当のことを言うことが少ない、こうなってくると、分からないという自覚を書いても、本気ではなく、何らかの作為があるとしか受け取られないということです。まさに、"狼と少年"の話になります。
 
楽山が、分かったつもりのことは、楽山の、キリスト教に対するおとしめの筋書きに合っているからであり、分かっていると言いたい楽山は、それゆえ、進化論を讃美するわけでしょう。
 
実際には、こういう進化論のことを、いくら賛同して、書いても、キリスト教の本質には、何の関係もないのです。
 
楽山が謙譲芝居をするとこうなるという例でもあります。分かっていない自分を出すときに、分かっている自分を暗示してしまうボンヤリ言語は、楽山の筆致なのです。
 
学者の言うことを評論家のごとく語って、さんざん的を外してきたのだから、なにせ恐れも知らず霊が分かるっぽい、と思っている楽山ですから、もはや、ダーウィンという大きな名前を出しても、楽山の信頼度はゼロのままであり、いっさい、無駄なのです。
 
この記事を、分からないこともあるかのように中学生の感想文みたいに思わせるのですが、このわざとらしい書き方をしながら、一方で、キリスト教をおとしめてくるのだから、とても成長発達途上の人の感想文として読むことなど出来ない悪意の作為があるわけです。楽山の攻撃性は深く、性根は凶暴です。
 

また本書では創造論への批判がさりげなく挿入されているが、そのうちで最も印象深かったのはこの箇所だった。
自然を観察することで「このように美しく、精巧で、秩序ある自然が偶然に生まれるわけがない、設計者が存在するはずだ」と思わないではいられなくなることもあるけれども、それとは反対に「このような無残なことを創造主がよしとされたとは考えにくいし、もしこれをよしとされたのであれば創造主は人の情緒とは相当に異なった感性、価値観を持った存在だろう」と推定せざるを得ず、神は愛であるなどとロマンチックなことは言ってはいられなくなることもあるが、一体どちらが本当なのだろうと思う。

 
上に書いたように、楽山の言う創造論というのは、聖書の創世記をそのまま歴史の事実の主張として受け取って、神が創造したのならなぜ・・という疑問を書いてくるものです。
 
そうやって、楽山は、学ぶべき創世記を始めとする聖書を、興味本位の非人間的な超常話にすり替えて、固定観念として、自分はインテリだから進化論を支持するみたいな文脈にしてゆくわけですが、聖書も本も、まるで受け取る節操も弁えも理路の整合性も感性の貯えも持っていない自分を図らずも出してしまうわけです。
 
キリスト教の本質は、歴史の事実として創造を受け取るよりも、実存的に今も在ることとして、人間のあり方と罪性につながることとして学ぶべきであります。
 
キリスト教を、神が事実として聖書通りに創造したという信条を掲げている教派もあるようですが、私は、そういう受け取り方では、信仰の大事なことを、受け取ることにならない、あるいは、超常の話によって、むしろ受け取るべき真実が阻害される恐れがあると思っています。
 
楽山は、キリスト教内部での違いなど何の関心もなく、いつ書いても、みな同じように、創造と進化という対立の誇大的なテーマだけで扱い、おとしめようとしてきます。
 
楽山の机上にあるのは、複雑な問題を凶暴に単純化して、それこそ、楽山の狭い視野の中に、紙くずのようにぶち込んで丸めてしまった上での空論であることを知ってほしいと思います。
 
無残な有り様を呈している世界に、神がいるとは思えないという言い分は、無残な地上を生きるために信仰が必要と考える思慮を持たないで一途に神を否定したいだけの楽山のようなものが唾を飛ばして言っているだけなのです。
 
はっきり言って、地上の悲劇をもたらしているのは、楽山のような良心の欠けた人格~群像であります。そういう群れは、いつまでも、どこまでも、自己愛を優先し、平和や協調を持ち得ないために、破壊的言辞をもって、神と信仰者への憎しみをいだき続けるでしょう。
 

この辺りは人によって判断は異なるだろうけれども、これまでの時代の流れからすると、創造論と進化論とではどちらが優勢であるかははっきりしているし、

 
このように、楽山は、進化論が優勢だと暗示して、創造論の理屈におとしめて狭い引き出しに閉じ込めたキリスト教?をおとしめて、いい気になるのです。しかして、信仰については、何の助言にも、否定にもならないような、卑しいだけの自己顕示欲を満たしているのでしょう。
 
批判に対して、いかなる弁明もできないで詭弁で文句だけを言ってくる楽山に対して、同じように狭い引き出しに思想を閉じ込めるような人間にならないためにも、楽山の詭弁を正当な感じなどと思わないでください。
 
楽山という疲労物質は、人間として聖書も思想も受け取るということが出来ないようです。人間として発揮できる良心の働きがないから、人の迷惑を省みることがないのでしょう。
 

今後は宗教的感性が発達し、かつ一定の知性を持つ人にとってはそうではない人よりもいっそう生き難い世の中になって行きそうではある。

 
楽山は、自分が感性がないと言われたものだから、人に向けて、宗教的感性が発達、などと、人ごとにして、どこまでも評論家?的立場というより、人よりも高みにいる立場の気取りを守りたいようです。その実、やっていることは、言論において、邪魔にしかならず、相手にもならないようなものばかりでした。人を惑わしてまで、自分を高めたい者の体質なのでしょう。
 

将来的にはそういう人のために何らかの新しい道の必要性はますます高まってゆくに違いない。

 
新しい道に、遠回しに、賢者の一人として自分は大事な役を担う、という自尊が表れています。汚い欲望の、しかも、暗示的な高慢です。だから、書き続けるのでしょう。いつか、尊敬され、崇(あが)められることを信じて。
 
ここに、楽山という自己愛性人格障害の訂正不能の誇大妄想が横たわっているのです。
 
 
だいたい、信仰は、人間が生きるためにあります。そのために、大昔が、創造であったとか、事実であったとかは、決して大きな問題ではありません。楽山の言は、低次元であるだけでなく、冷淡で平板な情性と、同じことを繰り返す惰性(だせい)で、宗教を舐めただけの的外れです。意図的だからインチキだと言いました。
 
史実にこだわることよりも、人間は、元々、どういう存在であり、どういう性質を持っているか、ということに焦点を当てることが、宗教と信仰を考えるときには、よっぽど重要なのです。
 
そのことを考えれば、私は今まで、貧弱な頭と心で、努めて、書いてきましたが、聖書は、とても大切なことを伝えています。それが、楽山には、全く分からないのです。
 
何故かと言えば、楽山やシャロームなどの易坊類は、その教えに真っ向から背き続けている前提があるからです。嘘を吐き、詭弁を弄し、偽りを好み、自分を高みに置く、そして悔いない、・・全てが、人をだますための偽善の背信行為だから、分かろうとしない前提があることが、続ければ続けるほど、明らかになるわけです。
 
そのことを、いくら言っても、楽山のような者は、性懲りもなく保身のために、嫌がらせのような、学術めいた上辺(うわべ)を装って、偏(かたよ)って一面的な、そして、悪意に満ちた方向に誘導された文章によって、詭弁でしかない言説を、こともあろうに先人の名を悪用して、広めようとするのです。こうなったら、おしまいという病質の症例であります。
 
シャロームなどのお仲間を喜ばせたいということがあるのでしょうが、それ以上に自分を満足させたいだけなのです。
 
そういう者同士というのは、つまり、楽山やシャロームなどの易坊類は、その幼稚さ、執拗さ、嘘と詭弁、悔いない厚かましさ、悪だくみ、などの点で、実に、よく似てくるのです。カルト性が、悪魔性を呼び、みんな似たような、話にならない人間になっていると思います。それで、成りすましの疑惑も、ずっとあるわけです。
 
そして、楽山との交流をあきらめた頃からずっとですが、批判の目的は、楽山を変えることではなく、楽山の悪性の執拗さを書くことで、近づいてはいけない人という警戒情報を広めるためだけになってきました。そのこと以外に、もはや、目的はないと言ってよいでしょう。
 
だから、シャロームに対するのと同様に、楽山に対しても、批判は、とてもシンプルになってきました。前提を繰り返すだけのスピーカーに過ぎない者たちであり、対話の成り立たない相手とは、話しても無駄だからです。
 
ネットには、ときに、ためになる話や、ほお・・っと思うような面白い話もあるのですが、一貫して、月並みであり詭弁まじりの楽山の言から学ぶべきことは皆無です。かつ、楽山の執拗さと凶暴な反復の企てを見ると、楽山は、とても無神経で底意地の悪い人だと思います。
 
 

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               孤独な自慢
 
 
楽山の自己愛性人格障害による体質的で極めて卑怯な単方向性の反復する言論活動は、組織的なものか、個人の怨念によるものか、まだ、はっきりと断定はできません。
 
ただ、言えるのは、一般に対して、そして、とりわけ信仰を求める人々に対して、侮辱であり精神の破壊者であることは、今までの批判から明らかであります。
 
楽山は、神がいるなら不幸があってはならないと、まるで、神の合否を云々して神の不在を判断しているのです。私たち信仰者は、不幸があるから神の救いを必要としているのです。楽山のような人にかまってはいられないです。
 
楽山は、神はいないと言いながら、神に代わる幸いを何も示せません。人にそんなことできません。楽山は、人の心をもてあそんでいるだけです。つまり、不幸があるからと言いながら、不幸と煩いをばらまいているのが、楽山です。楽山の言こそが、災いであり、不幸の元なのです。
 
楽山は、人を煩わせるだけで、誰の何の役にも立たない人です。欠損した能力と人格から、楽山が、どんなに難しい本をあげて何か言ってきても、いちばん理解していないのは、楽山なのです。これほど学ぶところのない人は珍しいですが、それが病質というものでしょう。
 
楽山は、言論者ではありません。自分が言うだけで、人の言うことを受け取る器がないからです。このことは双方向の意見交換が不能であることを意味しています。つまり、フィッシイングのように、誰かが、だまされて引っかかるのを楽しみに待っているだけなのです。
 
楽山は、訂正不能の、宣伝と誘導しか出来ないサディスティックな性根だけを持っています。あらゆる詭弁と虚偽を弄して、だまして刷り込もうとしてきます。まともに相手すれば、疲労と人格破壊が待っているだけです。決して相手にしないでください。
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート

自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことをやりたい人。
午後9:44 · 2021年4月26日·twittbot.net
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 」
https://twitter.com/mayawhite222/status/1386662517183680515

 
楽山は、自身の攻撃欲または企みに従って、故意に残酷な不感不応と無視によって、キリスト教をおとしめるというモラル・ハラスメントを続けてきました。
 
楽山こそが、思慮もなく、共感もなく、やたら、サディスティックに「自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことをやりたい人」なのです。
 
ここでは、またしても企んで、卑怯者らしく他者の口を悪用していますが、「自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことを」やっているのは、楽山であります。証拠は、ずっと言ってきた無反省と無責任で十分でしょう。
 
こちらには約2年に及ぶ楽山の偏狭な決めつけの履歴があります。なおも、このように、恣意的に、人の口をゆがめて悪用するのが、楽山のやり方なのです。病質の執念が凄まじい。
 
楽山は、いくら批判しても変わりはありません。したがって、批判記事を書くのは、批判を始めて数か月を経過したのちは、楽山を変えるためではなく、世の中にいるところの、近づいていい人と、近づいてはいけない人のうち、楽山が後者であることを伝えるためであります。
 
 
(2020年03月29日)
(2021年04月28日、加筆して再録)
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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