ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の世辞と無責任

 
  楽山の世辞と無責任
 
 「第十七講 ヨブの見神(一)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月01日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28943169.html
 
 
批判されて、答えることも返すことも出来ない反キリストの楽山は、今回、見苦しくも、伝道者である内村鑑三を、褒めているようです。ここで、褒めて舞い上がるのは、卑怯者だけでしょう。
 
このように、批判したが、褒めたから、責任はない、という文脈は、以前にもありました。責任逃れに過ぎません。本当に汚い男です。
 
楽山は、楽ではなく、山ではなく、落石です。危ないから、よけてください。
 

「第十七講 ヨブの見神(一)」を読んだので、要点をメモしつつ感想を書いてみたい。
「第三十八章の研究」。
「人の声は人を救うことは出来ぬ。神の声のみ人を救い得るのである」。
第三十八~四十一章について、「これ真の見神実験記である。人もし信仰と祈禱の心とを以てこれに対せば、これが真の見神記なることを認め得るであろう。いたずらにこれを貶するが如きは敬虔の念乏しく真摯において欠くる所の態度である」。

 
神を見る、と解すれば、大いに誤解がありそうなことを、楽山は、気遣いや思いやりが皆無なので、説明をしません。恐らく、故意に、キリスト教の信仰は、神を目で見ることだ、という誤解を広めて、その上で、否定したいのでしょう。こういう男だから、信頼度は、とっくにゼロ~マイナスなのです。
 
(ネットより)
けん‐しん【見神】 の解説
霊感によって神の本体を感知すること。神霊の働きを感知すること。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A6%8B%E7%A5%9E/
 
神の御心であろうか、導きであろうかと、いつもではないが、感じることはあります。しかし、それで、人に、いちいち説明のつくような生き方を、神は、人に、与えないだろうと思います。
 
何故なら、人は、神よりも低い存在として造られており、一気に、神を目で見たり、神のように完全になることはないからです。だから、前から言っているように、神を目で見るとか、耳で声を聞くとか、神秘が与えられることに執着するのは、キリスト信仰ではないのです。
 
楽山は、"見神" ということが気に入ったのでしょうか。今までも、楽山の興味は、超常や神聖、そして、霊など不思議な力や現象に向かっていました。それは、恐らく、楽山が、勉強する気のない怠け者で、霊能や超能力で、一気にスーパーマン的なものになりたいからでしょう。
 
楽山が、そういう霊の話、スピリチュアル、霊言、ホラーや冒険アニメを、好んでいることに表れています。そのような怠惰なのに欲望だけが強い者を、神が是とするでしょうか、どう考えても否であります。
 
つまり、楽山は、神にも、真実にも、もちろん真理にも、正しさにも、感動にも、共感にも、縁のない人だということを、楽山の書いたものによって、書くたびに自ら証明しているのです。
 

「エホバの声はとかく人の道が窮まった時に聞ゆるものである」。

 
神の声が聞こえるといっていますが、実際はどうなのか、ボイスなのか直感なのか感動なのか、誰も知らないと思います。幼稚な超常趣味の楽山ごときに利用~悪用されるような伝道者ではないから、内村鑑三は信頼を得ているのです。
 
私は、神については、人が、姿を目で見たら目がつぶれる、耳で声を聴いたら鼓膜が張り裂ける、さらに燃え尽きる、・・くらいに、思っておいたほうがよいと思っています。神を、甘く見て、舌で舐めている楽山の、罪業の深さは、楽山を、反信仰、反キリストに、どんどん向かわせています。
 

「神は地とその上に住む人を空しく造ったのではない。されば我らは地を見てそこに神の愛を悟るべきである。そして安ずべきである」。

 
書いてあるように、内村鑑三の言う見神は、「地を見てそこに神の愛を悟る」ことではないかと思います。神を目で見る、奇跡を起こす、というのでなくても、「地を見て」だけでなく、人に起こる様々な信仰の表れを見ることは、恵みであり、救いであり、平安をもたらし、人を生かします。
 
これら福音の一切を、自己愛性人格障害によって捏造の観念から偏執固定している楽山は、全く知りません。楽山は、何も知らないことが表れているのに、書くことをやめません。書くと恥ずかしいのでは?という羞恥心がないのです。
 
楽山は、誰の助けにもならない口であり、何も語ってほしくない反キリストであり、嘘吐き宗教ペテン師なのです。
 

本講は内村鑑三の体調不良のためか短いものになっている。ただ体調はよくないにしても情熱はいささかも衰えてはおらず、一言一言に力があり、心に迫ってくるものがある。これが信仰というものなのだろう。

 
伝道者の、志や、情熱や、言葉の力や、真に迫ることなど、受け取る気がない楽山には、信仰というものについて、語る資格などありません。語れば、信仰の邪魔になるだけであり、無理解からの反信仰が表れるだけです。病質者の楽山の言葉は、広まれば広まるほど、不幸を、関わる人に及ぼすでしょう。
 

信仰というと静寂に向かうイメージがあるけれども、それとは反対に非常に活動的、積極的な方向に進む場合もあり、ここでの内村鑑三は後者のようだ。

 
信仰の静寂のイメージも、楽山においては、理解されていないと思います。何故なら、信仰による静寂とは心の安らぎであり、活動性や積極性の反対ではありません。何も分かっていない者が、何も分からずに、分からないことを書いています。迷惑も甚だしい。
 
楽山の口は、いつも災いです。嘘吐き楽山からの、溝も水路もないままに流されるインスタント腐食廃液を浴びないよう注意してください。
 
楽山は、嘘を吐いて空振りばかりして、ずっと前から、この記事のように中身も理解もない口だけ宗教を発信してきました。楽山の情報の信頼性は皆無であり、災難の時には、楽山のような良心カラッポ人格は必滅であり、人々はその巻き添えを食わないように警戒が必要です。
 
前に書いたことのある「狼と少年」は、いずれ、狼が、羊を食べつくし、嘘吐き少年をも食べてしまう話です。それに喩えれば「災いと楽山」であり、つまり、楽山は、いつも嘘を吐いて、自身の災いを感じず、知らせず、本当の災いの時には滅びをもたらす厄病神の機能しか持っていないのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E5%AD%90%E4%BE%9B
 
 

      f:id:stdsts:20210502235639p:plain

               うっ血性ピエロ
 
 
{2021年05月03日}
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp/
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html