ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山のおぞましさ

 
  楽山のおぞましさ
 
 
 2021年06月05日
 怒れる神のおぞましさ(『聖なるもの』オットー著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29356613.html
 を批判します。
 
 
どこまでも幼稚なことを言ってくる楽山です。理屈にも理路にも論理にもなっていません。怠慢なのに加えて、心に共感するところがないために、聖書の文脈の流れを読み取ることが、全く理解できていないからです。こういう人が、見当外れの背伸びをしているのは、甚だ迷惑です。
 

*おぞましく感じられること
『聖なるもの』に神義論および自由に関わる箇所があったのでメモしておきたい。

いかにも非合理的、いやそれどころかおぞましくさえ感じられるのは、怒れる神が罪を罰する手段として罪を犯すにまかせるという発想である。
(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳、岩波書店、2010年、p.184)

この絶対存在者だけが現実にあり、すべての被造的存在は、たんに絶対存在者の作用――絶対存在者が被造物を存在せしめる――もしくは仮象にすぎない。被造物が自分独自のものだと思いこんでいるその働きや意思も、神の意志の通過点にすぎない。
(同上、p.193)
 」
人が罪を犯すのを神が放置した例として、著者は次の例を挙げている。

そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
(ロマ 1:24)
神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。
(ロマ 1:26)
彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
(ロマ 1:28)
 」
神は絶対、全能だとすれば、神が容認しない限りは人は罪も犯せないし、人が自分は自由のつもりでも結局は神の手のひらの上からは出られないということになるのは当然ではある。

 
聖句は、いずれも、神がどうしたかについて書いてあります。楽山のように、悪意を反省しない者には救いはないということです。救いのない者は好きなようにして、滅びを選ぶわけです。楽山は、理解力がないから、救うべきを見放して、神が悪い方へ向かせたみたいな言い方をしています。
 
自らの罪と偽善も、神のせいにしている楽山です。かといって、救われる民になるための努力など、一切せず、神に文句ばかり言う楽山です。このような欲望だけのものを救う神はどこにもいません。つまり、悔い改めない悪は、放っておいて滅びるままにするということです。
 
上の聖句の3個所とも、放っておくと、不潔なことをする、情欲に走る、無価値な思いに走る、ということで、それを、神は、見抜いているゆえに、神が直接に滅ぼすのではなく、邪悪な彼らの恣意に任せているわけです。楽山は、聖書の文脈を全く理解しない方向に向かっています。
 
今、それが、表れているのです。楽山は、聖書解釈もお構いなく、言葉面の奴隷となって、通らない屁理屈をこねて、悔い改めない悪い奴をも救う神でないと承知しないようです。救いのバーゲンセールでも待っているのでしょうか。
 
楽山に似ている横暴で傲慢な者たちを救うような、安売りの神はいません。信仰者は分かっています。一般の人も、ここを誤解することはないでしょう。しかし、楽山は、不正も卑怯も恥も悪も醜さも、お構いなしに、書いて来て、恥を知らない、という、独り有頂天の病質者なのです。
 
神が容認した、あるいは、しなかった、ということを、楽山は分かるのでしょうか。おかしなことを言っています。神が、いちいち、それはいい、それはよくないよ、と教えてくれるとでも言うのでしょうか。信仰など持ちえない無反省が、神を云々すると、こういう有り様になるのです。
 
信仰者は、実践としては、信仰を学んでいる者として、学んできた信仰の良心に従って生きるわけです。楽山には、良心がないので、またしても、神と会って、取引がおかしいかのような書き方をしています。楽山のもたらす害は、このように、空疎なのに、執拗だから凶悪だということです。
 
楽山の悪意全開です。楽山と交わると、恐らく、何事も、楽山の好みで歪曲され、しまいに失敗すると、他者のせいにし、さらには、神のせいにもするということを、楽山自身が証明しています。傍らに、人も、神も、いない楽山の世界で、図々しく、書くことだけは止めないのです。
 

理屈ではそうなる。でも感情としては心から納得できるということにはならず、もやもやした気分が残るのは辛いところだ。

 
楽山は、理屈も理路も、まるで分かっていません。よって、納得するのは、自己愛の欲望に沿うことだけです。自分が、いかに恥ずかしいことを言っているかが、人格破壊の自己愛性のために、分からないのです。別の聖句のように、楽山は、自分が「何をしているのか、わからずにいる」のです。
 

*異文化
ちなみに自分がこの問題に関心を持ったのは、海外小説を読んでいたときに、「善いことも悪いこともすべては神の意思によるのだ」とか、「このような災厄がおきるにまかせた神が憎い」というような考え方が語られていたことがきっかけである。

 
楽山の大好きな考え方です。善いことに感謝せず、悪いことは、人の代表であるかのように、神のせいにします。そのような者が、いくら、文句を言ったところで、自己愛の欲望に過ぎず、誰にとっても、嘘吐きの末路でしかありません。それこそ、自己愛の「するにまかせられ」ているのです。
 

また「出エジプト記」に次のようなことが記してあったことも理由である。

主がファラオの心をかたくなにされたので、ファラオはイスラエルの人々をさらせなかった。
(出 10:20)
 」
ファラオは自分の判断で行動していたのでなく、神によってイスラエルの人々を苦しめていたということらしい。

 
こういう書き方は、上にも3つあったのと似たようなもので、ファラオはイスラエルの人々を去らせなかった。そのことを、前にも、後にも、神は、すべて、ご存知であった、という、神の全知全能を表す書き方なのです。楽山の、おぞましさは、全く違う受け取り方をしています。
 
独りだけで頷き、本も聖書も曲解するだけで書いている楽山は、読解力が著しく低下しています。邪推したい者は、邪推するということです。否定の前提しかないからです。しかも、恥ずかしいから人には見せずにおく、という、常識的な、最低限の質の判断すらないのです。
 
こういうことは、信仰の良心があり、聖書の文体の特徴を知っておれば、楽山のような低劣な解釈は出てこないのです。楽山は、怠慢の上に乗って、こともあろうに、神に文句を言っているが、神はもちろん、いかなる人にも、通用しない愚痴のようなものです。
 
聖書理解の入門さえ出来ていない楽山は、神がさせたんじゃ!・・と、神のせいにします。聖書読解の予備知識もなく、怠慢なまま、「ので」の接続詞に、こだわって、神がファラオに作用しイスラエルの人々をて去らせなかった、神のせいじゃ!・・と決めつけます。
 

神はファラオが罪を犯すにまかせたどころではなく、罪を犯すようにしたのだと…? 人が神を信じたり、従順になるのは本人の意志によるとばかり考えていたけれども、どうも聖書では必ずしもそういうわけではないらしい。

 
ここで、楽山の、とても卑怯で卑しい印象操作と誘導です。本人の意志ではなく、神が、悪いことをさせるんじゃ!・・と言いたいところを、言葉だけ、婉曲的に和らげるという、楽山らしい刷り込みです。何も理解できない者が、飲み込めなくて、見苦しい嘔吐を、まき散らしているのです。
 
神と人は双方向であります。おしゃべりトークできるわけではないけれど、祈ることが人から神への唯一の音信とも思います。しかし、横暴を尽くそうとして、双方向を拒む者に、神は、癒しも救いも与えはしません。
 
放っておけば、楽山のような者は、さらに低劣化して、自分で自分の首を絞めてゆくのです。その間に、どれほどの他者を巻き添えにするでしょう。好意的なコメントが寄せられたことがあります。楽山は、人間なんて、ちょろいと思っているようです。近づかないことだけが防衛になります。
 

神は絶対であるとするとこういう考え方に行きつくのだろうけれども、自分にとってはこれはまったく意表を突かれる思考であるし、驚き感動しないわけにはいかない。異文化に共感し同化するのは難しいのではあるが、その発想を学び理解はしたいものだとは思う。

 
楽山の、上記の理路から、"神の絶対" の正しい認識には至りません。楽山は、神の絶対という言葉を、"神は暴君" という意味に受け取らせようとしてきます。知恵の代わりに、詭弁と嘘を習慣づけてきた楽山は、これからも、都合のよい文言を漁って徘徊する野良犬の生業なのでしょう。
 
「驚き感動」「学び理解はしたいものだとは思う」・・嘘です。今まで約2年間、何も学ぼうとしてこなかった訂正不能の楽山です。恐らく、少年の頃から、そうなのでしょう。何かを、真っ当に学ぶことはないだろうと思います。今の自分の状況さえ、把握できないでいるからです。
 
 

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                     おぞましい
 
 
(2021年06月06日)
 
 
 
  今日の穴
 
今日の野原には
幾つもの穴が空いていて
何かのバイパスのようでもあるが
 
広くて滑りやすい入口からは
思いのほか真っ直ぐで
 
公園で砂を崩す子供が
ほつれを千切った縫い目の糸を追いかけて
 
青年の初めて着た背広姿が
いつも歩く散歩道の一歩一歩
 
死を弄(もてあそ)べる老人が
落ちたら戻れそうにないのに
なぜか幾度も幾度も滑り込んでゆく
 
さらに滑り込んだ先が
儀式の形骸であるのか
冒険であるのかさえ垣間見る前に
もう明日の人になってしまって
 
深遠に立つことも沈むことも出来ないまま
仕方なく虚無が生まれては打ち消される
 
 
(90年代か。一部修正)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
ざっくり言えば、そうなると思います。
「何も考えず判断せず、黙ってついてきてください」
「私の説いた教えによって考え判断し、ついてきてください」
考えても考えなくても、判断してもしなくても、どっちにしろ大川隆法の言葉に従えってことは同じ。
午後7:45 · 2021年6月5日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1401127985843896329

 
「何も考えず」判断するのが楽山です。何も考えた跡が見えないのだから、黙っているべきですが、好きなように、思い付きで、言うだけは言うのです。反省はしないのです。訂正はしないのです。責任は負わないのです。無神経で、心が無いのです。だから、何も理解していないのです。
 
しつこく、信仰について、神について、否定してくるのですが、それに代わるような、救いのための教えのようなもの、糧になるようなもの、ヒントになるようなもの、助けになるようなもの、はっとさせるもの、何も持っていないのです。厚かましさだけで書いて、書くことで満悦するのです。
 
 
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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