ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の独り芝居(1)2

 
  楽山の独り芝居(1)2
 
 神についての対話 1
 2020年06月21日 楽山日記
 http://mn266z.blog.jp/archives/25239962.html
 を改めて批判。
 
 
楽山が、もろに攻撃を仕掛けています。それも、仮想のコメントの遣り取りを捏造しての話です。ここで、楽山は、コメント者として、自分に好意的で、尊敬してくれるような人物を想定していますが、楽山自身でしょう。つまり楽山の独り芝居が、また、今回は対話形式で始まったということです。
 
異常者は、懲りるということがなく、どこまでも、真実から目を背けて、だましてくるのです。罪悪感も羞恥心もなく、ただ、攻撃意欲だけが働いています。人間にも悪魔性に囚われる者がいるという宿命でしょうか。批判に答えられない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
もし、これが、どこかで交わされたコメントの遣り取りであれば、組織がある、同調して無条件に褒めてくれる仲間がいる、ということの証拠になるでしょう。既に、だまされた人たちが、そばにいるのでしょうか。
 
芝居仕立ての、楽山の詭弁を見てゆきます。
 

*まえおき
 最近は、本の感想を書くことが多かったが、たまには趣向を変えて対話篇というかたちで書いてみたい。
*はじまり(若者と老人の対話)
若者 「こんにちは」
老人 「こんにちは。ひさしぶりだね」
若者 「はい。先日はブログを読ませていただきました。おもしろかったです」
老人 「ありがとう」
若者 「でも申し訳ありませんが、正直な感想をいうと、どうしても同意しかねるというか、疑問に思えるところがありました。もっともこれは、僕の誤読のせいかもしれませんが…」 
老人 「なるほど(微笑)」
若者 「あれ? お怒りにならないんですか?」
老人 「そうだね。人はそれぞれ違った意見を持っているのが当たり前なのだから、私の意見に同意しないからといって別に腹を立てることはないさ」
若者 「そういうものですか」
老人 「そうだよ。それに巷には、相手の意見を誤解したまま、正確に理解しようともせず、ああだこうだ言う人は少なくないし、ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。それからしたら、きみのように、あれこれ言う前に、自分の誤読の可能性を考えたりして慎重な態度をみせてくれるのは、とてもありがたいことだ」

 
ここの最後の老人の言葉に、楽山の言い分が書いてあります。楽山は「ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。」というのは、私に当てつけています。
 
極めて初歩的な、人間なら分かるはずの誤解も、自己愛絶対のために曲解して、中身云々よりも的外れの自説を言い続けてきたのは、楽山その人であります。
 
それと、当たり前のことですが、私は、前もって決め込んだりはしません。この記事もそうですが、私は、楽山の記事に反応して、そのたびに病的な作為だと感じて、批判記事を書いています。
 
自分の誤読の可能性を、全く考えず、にもかかわらず、批判に、反論も弁明も出来ないのは、楽山です。このような、意地の悪い当てつけだけを向けてきます。
 
お仲間以外、誰も褒めてくれないから、自分で自分を褒める訪問者の芝居をしているのでしょう。殆ど児戯に等しい楽山の学芸会なのです。
 
ここまで崩れるほどに、高慢を守ろうとするカルト的思想の思い込みは、人間を、そして自身をも、破壊してゆきます。
 

*神のことは分からない
若者 「そう言って頂けると、とても話がしやすくなります。ありがとうございます」
老人 「どういたしまして。それで疑問に思ったところというのは、どの部分についてなんだい」
若者 「神についてです。あなたは神についていろいろ書かれていますが、僕にはどうもあなたの真意がどの辺りにあるのかが分からないのです。あなたは一体、神とは何だと考えているのですか」
老人 「……」
若者 「どうしました?」
老人 「どうって質問にこたえたんだよ」
若者 「こたえた? 口を閉じたまま、何も話さなかったじゃないですか」
老人 「私は、神とは不可知であると思っているんだ。人には神のことは分からないとね。だから私には、神とは何かと問われれば、沈黙でこたえる以外にはこたえようがないんだ」

 
楽山の意図は、反キリストであり、神とは何かについて答えがないから、信ずるに値しないという言い分のようです。楽山のような自己愛だけの偽善者に、神の御心など部分的にも触れることはないでしょう。信仰を求める心ではなく、我欲が中心だからです。
 
神の沈黙は、神が、いちいち、ここはこうしなさいと教えてくれるわけではないという意味です。当たり前です。しかしながら、聖書から、人に比べて、創造主である神の大いなること、救い主キリストの共感性と愛に触れている人が信仰者になっています。
 
神は、不可知であり、基本的に、沈黙の神であることは、人間が、神に対して思い上がらないために必要であり、そういう神でなければ、人を救うことは出来ないだろうくらいは、推測するわけです。全知全能・絶対完全・永遠不変を、人は、知っているとは言えない、ということです。
 
しかしながら、楽山は、私が言ったことさえ利用して、分からないなら信じられないと、ここで、自己中心を正当化を書いています。今まで、キリスト信仰を、好きなようにおとしめてきて、こういうことを書くのは、楽山の底意地の悪い狡猾さを表すだけで、真に受けることなど出来ません。
 
実際、反省も、修正も、したことはなく、正しいだろ、と見せびらかしている自己顕示欲の臭さだけが漂ってくるのです。楽山に、謙虚な姿勢などありません。
 
謙虚な人であれば、もうとっくに、それまで書いてきたことを否定して反省の言を表しているはずだからです。楽山は、物事の必然というものが全く分かっていないために、そらとぼけて書いて、これで良し、と思ってしまうのでしょう。
 
独り芝居の独り納得、という、真実とは真逆のもの、楽山が何か書くたびに、それだけが明らかになってきたのです。これからも同じだろうと思います。決して近づいてはいけない人です。
 

*神について語ろうとするとき
若者 「なるほど。神とは人知では知り得ないと考えているんですね。でもそのわりには、神についてたくさん書いているようですが…」
老人 「よく読んでもらえれば分かってもらえるだろうけれど、私が神について意見を言おうとするときは、大概は、一つの仮定として書いているつもりだ。『もし神が超越的な存在であるなら××だろう』とか、『もし神が全知全能であれば〇〇であろう』という風にね。または『◇◇教では神は△△としているが、これから考えるなら~だろう』とかね」

 
楽山の自己正当化は成り立ちません。条件をあげ、それに合わないからと神を否定してきたのが、楽山ですが、そのような理屈で、神を規定することは出来ません。さらに、その条件は、実に、楽山の欲望を満たす幼稚なものでしかなかったのです。
 
キリスト者は、いかなる字面の矛盾も疑問も、キリストに与えられた癒やしを否定できないことを知っています。楽山は、恐らく、愛も共感も経験していないと思います。だから楽山が執着するのは、超常的な "霊" そして幼稚な小理屈の字面に過ぎないのです。信仰とは何の関係もありません。
 
つまり、とても、低次元で、神を対象として、神と取引をしている態度なのです。このことは、前にも書きましたが、楽山は、不都合を、ことごとく無視して、徒労と疲労だけを与えてきます。
 
ゆえに、悪だくみの知恵だけで、話を進めてくる楽山には、誰も近づいてはいけないと言ってきました。今回も、そのような、詭弁だらけの、反キリストが、醜さを全開にして、あがいているに過ぎません。
 

若者 「そう言われてみればそうですね。他にはありますか」
老人 「『自分には神とは××と感じられる』という言い方をすることはあるね。いわば先の語り方は神について理性的に語ろうという試みだが、こちらは感覚的に語ろうという試みと言える。後者については人はそれぞれ感性は異なるものだから、私とは異なる感性の持ち主であれば、当然に私とは異なる感想を持つだろうな」

 
「そうですね」と、芝居で言わせて、刷り込もうとしてくる楽山の悪意は、底知れないものがあります。楽山が言い、楽山が肯定している文章に、いったい何の価値があると言うのでしょう。
 
楽山は、一見、論理的なことを書いているように見せかけます。しかし、実際は、論理というものにも心が関わっていることを知りません。恐らく、こういう人は、人殺しが悪いという証明は誰にもできない・・みたいなことを言う人と同様なのでしょう。人間としての直感がないのです。
 
字面の理屈だけで物を言う、物が言える、と思っている勘違いの、恐ろしい表れを、楽山に見ることが出来ます。楽山の理屈は、いたるところで、壊れています。一方、楽山の書くことには、感動を与える要素が何もありません。共感がないからです。
 
それゆえ、今、共感し賛同する相手を仮想し捏造している、という悲惨な自慰の末路を辿っているのです。繰り返し、繰り返し、自らの理屈を、こすっては、自分だけで納得し満悦する楽山です。
 

若者 「ということは、あなたが神について語っている時は、『神は~である』というのではなくて、『神は××であるとすれば~である』『自分には神は~と感じられる」というように、仮定の話だったり、実感についての話だったりするということですね」
老人 「その通り。神は多義的であり、多面的でもあろうし、そう簡単には定義できないものだ。強いてそれをしようとするなら、神とは人には分からないものだとするくらいしかできないのではないかな」

 
条件や仮定など、楽山の理屈で、神を語ろうとすれば、すべて、的外れになるでしょう。このような堂々巡りのような、洞察力と直感力を欠いた、寸足らずの言い分に、惑わされないようにしてほしいと思います。・・ならば、・・、などという言い方で、神を表すことは出来ません。
 
神が分からないなら多義的かどうかも分からないはずです。楽山の視野は、楽山が語れば語るほど、狭くなってゆくようです。言い逃れできないところを、字面の理屈で埋めようとするからです。
 
信仰者でない楽山が、神について、信仰について、実感のある話など出来ないはずです。つまり、そのような当然の謙虚さすらも弁え得ないところに、楽山の病巣があるのです。
 

若者 「はい」
老人 「だから神については、『神とは~である』と断定的には語れず、『神が××なら、~であろう』『自分には神は~と思われる』という程度のことをしか言えない。そしてこの場合、誰かが『いや、自分には神は~ではなく、××と思える』と主張するなら、『それは違う』とは言えず、『ああそうですか。あなたはそのように感じ、考えるのですね』と応じる他ないんだ。神とは何であるか確かなことは分からないのだから、そうならざるを得ない」

 
この楽山の話には、暫定的であっても、正当性を、つまり真実を、追及する意志が欠けています。この楽山に従っていると、どこまでも、真実について結論が出ないということを、楽山自身が証明しているのです。
 
楽山は「あなたはそのように感じ、考えるのですね』と応じる他ない」と書いていますが、楽山は、実に、そういう考え方で、短絡して、あれも言えない、これも言えない、と考えて、ついには、賛成も反対も、はっきり言えなくなって、そこで、固定しているのです。
 
だから、楽山は、聞いても、どうにもならないような、無責任なことしか言えなくなっています。人の言うことも、聖書の言葉も、真っ当に受け取れず、真実もまた、受け取れなくなって、無視するようになって、結局、楽山は、曖昧で、何の役にも立たないようなことしか言えなくなっています。
 
語尾にこだわることが正確だと思っているようです。はっきり言って、総ての発言には、語尾に「と思う」が付いていますが、いちいち書くと文章が見づらくなるだけなので、省略されているのです。それで終わる話なのですが、字面にこだわる楽山の、神経症的な強迫観念が表れています。
 
厳密さを語っているつもりの楽山が、これまで無遠慮に語ってきたことには、偏見と妄想だけが表れており、整った理路が見られたことは一度もないのです。なんでもいい、なんでもよくない、という無為の虚構、それが、楽山の言であります。
 
さらに、楽山の文章の語尾には、曖昧な言い回しでごまかすところの、ボンヤリ言語の災いがしばしば見られるという事実を、楽山は、また、棚に上げて、無視しています。曖昧にして何も言ったことにならないで、責任を負わないのが、真実への糧になるでしょうか、全く、否であります。
 
もはや、それは、人間の言論ではないのです。受け取って、考えて、判断して、言動する、という、プロセスが、全く抜けているから、楽山は、責任を負わないのです。楽山には、言論の活性が見られません。それで、責任逃れだけを書いてきます。
 
語尾は、表現であって、人間の言うことには、「と思う」は、いつも付いています。楽山は、そこに異常に執着することが大事だとして、カチンカチンのガラクタを作り上げ、何も言えなくなっている楽山という無為を実践してきたのです。まさに、生産性がゼロなのです。
 
いわば、楽山は、反論も弁明も出来ずに、駄々を捏ねるように独り芝居を演じているのです。楽山を、理論家などと、決して思わないでください。楽山は、大事な理路から、最も遠いところをふらふら歩いている偏向した詭弁思想の持ち主です。どこまでも空回りだけし続けるでしょう。
 

若者 「ああ、今回、お話を聞けてよかったです。お陰様で、ようやく納得できました。実はあなたの語る神について、少々、違和感を覚える部分があったのですが、それはどれが正しく、どれが間違っているということではないんですね」

 
楽山は、また、「お話を聞けてよかったです」と、独り芝居のセリフを言わせて、自分で、自分に、お礼を言っています。内容が貧弱な分だけ、滑稽でしかありません。高慢な、教える姿勢が、体質なのでしょう。
 
「どれが正しく、どれが間違っているということではない」・・その判断なしに、生きてゆけるつもりでしょうか。何でもあり、に帰着する楽山は、有害なカルト思想伝道者です。そして、これこそが、ボンヤリ言語の特徴なのです。楽山は、ますます混乱してゆくでしょう。
 
善悪・正邪の判断は、誰でも、生きる上で避けられないことです。そこで、信条を固定しないことが必要なのであって、楽山のようなボンヤリ言語を受け入れてしまうと、楽山のように、何も判断できなくなり、人間性を失ってしまいます。楽山の言は、ひどい屁理屈と言っていいでしょう。
 
善悪の判断を絶対化しないことのほうが大事であり、キリスト信仰者には、正直な祈りという告白の時と所があり、反省を促されることになり、ゆえに、成長が可能になります。つまり、曖昧が正しいとする楽山には、成長がないというであり、まさに、それは、文章に表れてきたのです。
 

老人 「その通りだ。きみが神についてどのようなイメージを持っているのかは分からないが、人には『神とは~である』と断言することはできないのだから、誰かが描く神のイメージは正しく、他の誰かが描く神のイメージは間違いだということは言えないだろうね」

 
また「その通りだ」と言う台詞で、変質した自己を肯定しています。なんて、わざとらしい芝居なのでしょう。神について、聖書以上には知らなくても、神は我が主である、という告白することで、生きている多くの信仰者を、楽山は、軽口で否定しているのです。
 
私は、宗教と信仰を考えるときの一つの視点として、多くの人が信じたらどうなるか、ということを考えます。楽山は、神をイメージでとらえたつもりになり、間違いだとは言えないと言っています。このような人は、訂正不能で、無反省、無責任である分、とても危険です。
 
楽山の記事に表れてきたところの、自己愛、自己中、無反省、訂正不能、これらから生まれてくるような、いかなる思想も信条も意見も、結局、社会悪につながる要素だけを持っていると判断しています。あってはならないあり方を、楽山は、毎回、示してきたのです。
 
自己愛と自己中によって、反省せず、自分のために平気で嘘を吐くような孤独に硬直した楽山のような人が、神の名を使って、一人前のように社会参加してくるのは、恐ろしいことです。しかも、それを、キリスト信仰に絡めて来られたのでは、たまったものではないのです。
 
楽山のような人を肯定したら、ゆくゆく、広まれば、この世は、偽善者だらけとなり、何も定まらず、混乱し、地獄と化してゆくでしょう。そういう楽山だから、私は批判をしています。楽山は、まともな理路も、まともな感性も、まともな良識も、持ち合わせていない病質者です。
 
楽山は、まともに文章を組み立てることが出来ないのです。だから、近づけば近づくだけ、だまされるか、疲労するか、になってしまいます。真実の追求において、楽山は邪魔になるだけの疲労物質でしかありません。このようなことも前から書いてきました。
 
にもかかわらず、楽山は、あの手この手で、まだ、自己正当化を主張しています。病識の無い異常者だからでしょう。私は、楽山の書いてくることに、批判を当ててゆくだけです。
 
批判は、誰も楽山に関わることのないように警鐘を鳴らすためであります。楽山は、どこにでもいるような、ふつうの知ったかぶりではないのです。災いの発信元になる病原なのです。約2年間の批判を経て、楽山の底は、既に、見え透いたものになってきました。
 
楽山の放ってくる、いちゃもんについては、前から似たようなことが続いており、私は、批判してきました。今回も、楽山は、似たようなことを書いているだけです。恐らく、それこそ、こちらを疲労させるのが目的でしょう。楽山は言論者ではありません。楽山は体質的な病気です。
 
楽山が書くたびに、楽山の人間離れが明らかになりますが、憑りつかれたように、楽山は書いてくるのです。常識的判断が出来ず、流れも文脈も読めないのは、亡者と言ってよいと思います。霊能者気取りの霊が分かるっぽい楽山は、空想ホラーの世界で、独りヒーローを気取り続けるのでしょうか。
 
 

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               黄色い海に棲む者
 
 
(2020年06月22日)
(2021年06月23日、再録+)
 
 
 
  すごい団欒
 
「じゃあ」と手を上げて
別れたあとも門の前で
頭をかきながら、うろうろしている
恋人を置き去りにして
娘は茶の間に飛び込んできた
「すっごいよかったよ」
 
「すごい」を連発している
娘の一日の話に
「すごい」を連発している
息子たちを見ながら
母さんは終始
微笑んでお茶を飲んでいた
父さんは
すごさがわからなくて当惑した
じいさんは、この家が
荒れ果てていくように思えて悲しんだ
隣の部屋に寝ていた
ひいじいさんは
ひ孫は外国語が上手になったのだと
安心して昇天していった
四世代にわたる
すごい夜の団欒である
 
 
  礼状
   「暗いのが多いんです」
   「じゃ、あたしも暗いのかな」
    と笑ってくれたある人に
 
一刹那、むき出しの
答えようのない問いに似た
恥ずかしいものを見せられて
よりかかるように、慰めの
ありもしない保証を求められたようだと
尊厳の海の中で
揺らめいていた陽光から
緩やかな海流を貫いた閃光が
冷たく結晶化した鋭い尖端で
よりかかりを切ろうとするのだが
それよりも早く
海の摂理は速やかに
剣先を包み込んで鎮め
切るまでもないと差し伸べられた光が
恥ずかしくない程度に
身を低みに下ろして
少しばかりピエロを演じて下さいました
 
 
(90年代か)
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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