ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の人間離れ進行

 
  楽山の人間離れ進行
 
 神秘体験の初歩段階
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月10日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29757122.html
  を批判。
 
 
ジェイムスの本は、何度も取り上げて書いてくる楽山です。批判に対して、不感不応で、何も気にせずにいられて、あざ笑うように書いてこれる楽山の意地の悪さは、まさに、サディストの所業であります。人間らしい感じ方や表し方を失ってゆくプロセスでしょう。
 
ちょっとした不思議なことを、心霊と結びつけるのは、子供には、よくあることですが、いい年した大人が拘泥するのは、成長していないからでしょう。そういう生き方は、人間の繊細な心を損なってゆきます。その典型的な症例となる楽山です。
 

*気づき
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験の入口について書いてあったのでメモしておきたい。

神秘的経験のもっとも単純な階梯は、ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみにいっそう深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、という場合であるのが普通である。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.186)
 」
これはいわゆる「気づき」という感覚だろうか。「気づき」は、ものを考える人であれば誰でも経験はあるだろうし、これを神秘体験というのは大袈裟な気がしないでもない。
でもよく考えてみれば、これは口ではうまく説明できない不思議な感覚であるし、神秘体験と言われれば確かにその通りかもしれぬ。
ちなみにここでは、「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます、

 
自分を神秘体験者と言いたい自己顕示欲の強さが表れています。だから、気づきさえも、神秘だと言いたいのでしょう。霊能者気取りの安っぽい合理化・自己正当化です。宗教を、人間としての必要性から求めず、人生の問題として考えない者の習性~性癖~症状でしょう。
 
このような性癖で、宗教も信仰も考えておれば、魔術的で、一気に何でも単純に解決できるのが、宗教だ、信仰だ、そうならないキリスト教の神はいない、とでも言うつもりでしょうか。いったい、どれだけ、日常を、疎かにして、人間をやめてきたのだろうと思います。
 
「「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます」・・"的" が付くのと、付かないとの違いは、遠慮か、不確定かもしれませんが、楽山は、強迫的で、お気楽な偏見から、こだわっています。神秘とか霊とかいう言葉への盲信~依存症~中毒でしょう。
 

*既視感
同書では、デジャヴについても書いてあった。
神秘的経験の階梯のもう一歩進んだ段階は、きわめてしばしば見られる現象のうちに見いだされる。つまり、「前にここにいたことがある」という、ときどき私たちを襲ってくる突然の感情であって、いつか、遠い遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがある、という感じである。
(同上、p.188)

 
デジャブを、不思議だね・・で済ませずに、証拠であるかのように、不思議化して、神秘化してしまう者は、ついには、あらゆる現象に、神秘的な意味を付け加えるようになるでしょう。ただ、そこは、鉄格子の中かもしれません。
 
遠い遠い昔が身に迫ってくるとか、におってくるとかの、既視感デジャブというのは、精神症状としても書いてあることで、ゆえに精神病とまでは行かなくても、そういう感覚に神経を集中してゆくと、だんだん、正常な心から離れてゆく可能性はあるでしょう。
 
こういう考えに囚われるときには、気分転換が必要です。でないと、のめりこむように、異常心理と精神病理に嵌っていって、楽山みたいになってしまいます。そうなってしまったら、今、表れているように、人間として、おしまいになります。
 

これは誰もが知っている感覚だろうと思う。だからこそ、「既視感」という言葉もあるのだろう。
こうしてみると、神秘体験というものは、少なくともその初歩的な段階のものは、特別な人にしか経験できないものというわけではなく、誰もが経験し得るもの、またはすでに経験済みのものなのだろう。

 
正常人にも、たまに、人によってはある、という既視感デジャブ、という精神症状です。ということは、精神疾患には、多いのかもしれません。私も、たまに、経験することはあります。あまり、そこに、集中しないほうがよい、という感想を持っています。
 
そこに、神秘的な意味を貼りつけて、神秘、神秘、というほどのことかどうか、誰にも分かりません。楽山のように、決めつけて、我こそは、神秘体験者なり、特別なり・・と、書いてしまうのは、情けないほど、貧乏くさいことです。余裕のない、欲望の卑しさを感じます。
 
楽山は、自分は神秘の人、という印象を吹き込みたいのです。「初歩的な段階」を想定しているようです。このことからも、楽山は、いってしまった人なのでしょう。「誰もが経験し得るもの」から、神秘の世界、実際は、精神症状の世界に、楽山という病人が、仲間を求めています。
 

またもし神秘体験は一部の人に独占されるものではなく、多くの人々が経験し、または経験し得るものだとすれば、それを経験したからといってその者が霊的に特別な存在であるということを証明することにはならないものなのだろう。

 
既視感から、ここでは、霊的に特別ということを否定しているようですが、楽山は、子供のときから "霊が分かるっぽい" と書いていましたから、さらに、自分は、上を行っているということが言いたいのでしょうか。今の楽山の、擦り切れたような精神が、それを全否定しているのに。
 

自分はいまだに神秘体験と霊性の優劣を関連付けてしまう悪癖から抜けきれていないので注意したいと思う。

 
関連付けてしまう悪癖に注意しているなら、上のようなことは書かないはずです。楽山の意図は、真逆だと思います。心霊をネタにしたペテンらしくなってきました。客観的な注意力は、楽山にはないと思います。そのために、視野狭窄となり、あらゆる面での理解力を失っているのです。
 

*猛将パットン
蛇足ながら、思い出したことがあるので一言。
パットン将軍は自分は前世でも軍人だったと信じており、初来訪の土地であるにも関わらず、前世で来たことがあるのでよく知っているとして目的地までの道を間違わなかったという逸話をもっているが、ひょっとしたらこれも既視感の一種であり、その発展型なのだろうか。

 
心霊をネタにしたペテン師は、このように、既に死んで、詳しい体験を知りようのない人を、しかも有名人を、好きなように利用して、同類であるかのように扱い、褒め讃え、宣伝してゆくのです。その先には、誘導から洗脳が待っているかもしれません。注意、警戒してください。
 

さらにはパットン将軍は第二次大戦が終わってほどなく、交通事故に遭い、あっけなく世を去っている。それほどの大事故ではなく、他の当事者たちはみな無傷であったのに、パットン将軍だけが打ち所が悪く重症を負い亡くなったのである。まるで軍人として戦うために生まれ、その役目が済んだらすぐに天国に還ったでもいうように。
思えば、パットン将軍という人物とその生涯は不思議であり、実に神秘的である。

 
このように、どこまでも、神秘のほうに、話を進めてゆきます。有名人であろうとなかろうと、事故で亡くなったことへの共感より、神秘的な不思議話のほうを優先する人は、いずれ、死体の前で哀悼の意を表するのではなく、死体に愛着するようになるかもしれません。
 
楽山の書く文章が、楽山を表します。そして、楽山は、進行してゆくのです。楽山こそが、神秘的な人、不思議な人・・と言われたいのでしょう。このことのほうが、よっぽど、怖いと思います。キリスト教の天国とも、信仰者の人生とも、何の関係もないオカルト話です。
 
楽山は、今まで、宗教と信仰の言葉を、好きなように超常ホラー言葉の数々で、けがしてきました。概念が、すべて、人間からも、人間の宗教と信仰からも、ズレている人です。しかも、そのことに気づかない鈍感でもあります。高等感情鈍麻と言います。超常趣味というより超常中毒です。
 
短い人生を、地上の人間として生きずに、いつも、超常世界の話をしますが、その分、人間性が壊れてゆきます。病識がありません。善悪・正邪の区別がつきません。罪とか恥とかが分かっていません。無視と忍耐を混同して、記事を書き続けています。どんどん的を外れてゆくのです。
 
気をつけてください。楽山を受け入れると、学習と成長が止まります。知性と感性の鈍麻と、先入観と偏見の固着が進行します。私は、楽山は柔和だと勘違いして、コメントの遣り取りをしていた数か月間、そうでした。子供じみた変質者に過ぎません。もはや誰もだまされてはいけません。
 
 

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                 変質の足跡
 
 
(2021年07月11日)
 
 
 
  正気への警告
 
夜見る夢も昼見る夢も
ただれた眼で見ている
おぼろげな幻想に過ぎないが
よい夢も悪い夢もあるのに
目覚めてみれば
現実も幻想に満ちている
夢とは違って
幻滅という必然が待っているから
よい幻想はほとんどない
さらなる幻想に逃げようとすれば
死は幻想を保証しないのだから
正気を失うしかない
 
耐え難い重荷が限度を超えたとき
正気を失うということが
肉体を守るための
防衛反応に思えてならないことがある
 
例えば鏡に映る顔が
生き生きした何ものもなくて
気持ちと全然一致していないとき
心神は残る力を振り絞って
限界に注意を喚起し警告を発している
鬱(うつ)による意欲低下は
これ以上の無理は無理と
心身を休ませるため
さらに感情の麻痺や鈍麻は
重さを感じなくて済むように?
 
それがわずかに残された
正気の辺縁をめぐる
ただれた眼の日常となって久しい
 
(90年代か?)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、参考にもなるかどうか分かりません。
 
 
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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